童心を浮かべて啜ってまた明日日差しが強くなり、したたるような緑が野山を覆うようになると、トガ山地にある火馬の民の里には大勢の客が訪れるのだ。
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「先生ーっ! ホッサル先生ーっ!」
午前の診療が終わり長椅子に寝そべって居眠りをしていたホッサルは、にぎやかな声に呼ばれて目を覚ました。
背もたれから上半身を起こして振り返ると、診療所の入り口に子供たちがたむろしているのが見て取れる。
「どうしたんだい? ずいぶん騒がしいけど」
耳を澄ませるとガヤガヤした喧騒や、ドタバタと行き交う荒い足音が聞こえてくる。只事ではない様子だ。
「あのね! もうすぐ来るんだって父ちゃんが言ってたんだ!」
「準備が必要だからホッサル先生を呼んでこいって!」
子供たちが一斉にさえずる。声が診療所の壁にぶつかってこだまする。ホッサルは苦笑して長椅子から足を下ろした。床に投げ捨てていた靴を履き直し、よっこらせと立ち上がる。
「急患ではないみたいだけど、どうにも要領が得ないな。一体誰が来るって?」
「飛鹿だよ! 鹿の王の群れが来るんだ!」
「里の見回りに出ていた人が鳴き声を聞いたって!」
鹿の王――。その名を聞いてホッサルはわずかに瞠目した。子供たちはホッサルの様子に気付かず、しきりに話しかけてくる。
しかしその声はホッサルの耳を見事に素通りしていった。
(そうか……。もうそんな季節だったか)
火馬の民の里で夏の花々が咲き始めたのは最近のことだった。ゆえに彼らの訪れはもう少し先かと予想していたが、勘が外れてしまった。
初夏の訪れは新しい命が芽吹くことを意味する。
獣たちは安全に休める場所で体を休め、孕んだ仔を大地へと産み落とす。それは飛鹿とて例外ではない。
夏が来ると里の付近にある森には特別な群れが集まってくる。彼らは火馬の民たちから鹿の王の群れ、と呼ばれている。
ホッサルが火馬の民の里に小さな診療所を構えたのは、彼らの生態を調べるのに便利だと思ったからだ。
歴史の彼方に葬り去られたと思われていた黒狼熱が復活し、多くの人々を死に至らしめてから五年。ホッサルは黒狼熱に効く様々な新薬を開発してきた。
火馬の民の里に拠点となる診療所を作り、アッシミやイキミの研究を続けたことで、オタワル医術はかつて故国を滅ぼした黒狼熱を完全に封じることに成功した。
そのかたわら、飛鹿の生態を観察し続けたことでダニがもたらす感染症についての対策も飛躍的に発展した。
ホッサルが営む施療院<小さき者たちの巣>自体はアカファ旧王都カザンにある。そのためホッサルは五年前から春から夏にかけてを火馬の民の里で過ごし、飛鹿の出産が終わるのと同時にカザンに帰る、という生活を送っている。
「オタワル王家の血を引く者として、鹿の王にはきちんと挨拶しないとな」
子供たちに手を引かれて歩きながらつぶやく。と、それを聞きとがめた一人の少女が唇を尖らせて言った。
「そんなこと言って! 本当は遠乗りがしたいだけのくせに!」
少女の指摘は当たっている。ホッサルは「はは、ばれたか」と笑いながら肩をすくめた。
「いいなあ、先生ばっかり!」「おれも鹿の王に乗りたい!」「どうしたら仲良くなれるのー!」
ホッサルを見上げる子供たちは一様に瞳を輝かせ、興奮で頬を赤らめている。
子供たちの歩幅に合わせて歩きながらホッサルは「そうだなあ」と首を傾げた。その動きに合わせて髪のひと房がするりと肩から滑り落ちる。
「彼は強面に見えても懐の広い人だ。礼儀正しくお願いすれば乗せてくれるかもしれないよ」
里の入り口には既に人だかりができていた。誰もが鹿の王を一目見ようと押し合いへし合いしている。しかしホッサルの姿に気付くと誰もが無言で道を譲ってくれた。
本来であれば仔を孕んだ雌たちから鹿の王が離れることはない。
それでもアッシミが生い茂る森を離れて彼がここに来る理由をみなわかっているのだ。
「ホッサル様、鞍と手綱を用意しておきました」
マコウカンが人の群れから進み出てきて言う。ホッサルは「うん」と首肯した。いつも、いつでも、こうやって先回りして動いてくれるといいのだが。
ホッサルが言うか言うまいか悩んでいると、不意に風が吹き抜けた。花の濃密な香りが鼻孔をくすぐる。どこでピューイ、ピューイと飛鹿たちが甲高く鳴いた。
そして――彼は姿を現した。
タッ、タッ、タッ、と軽やかに蹄の音を響かせて舗装された道を一頭の飛鹿が駆けてくる。
大岩のようながっしりした巨躯と、太くたくましい二本の角。力強く生命力にあふれた眼差しと、精悍な顔立ち。その威風堂々たる在り様は、神の使いを彷彿とさせる。
彼は鹿の王でもあり、犬の王でもあり、ホッサルの良き友でもある。
ホッサルの目の前で鹿の王は足を止めた。
しばし無言のまま見つめ合い、再会の喜びを分かち合う。やがて「乗れ」とでも言うように鹿の王が顎をしゃくって己の背中を示した。ホッサルは花のかんばせで微笑み、マコウカンに目配せする。
ホッサルが合図を送ると、マコウカンを始めとした男衆が一斉に鹿の王に群がった。
鹿の王は鞍を乗せられ、手綱を付けられることをひどく嫌うが、ホッサルと彼の娘を乗せるときだけは許容してくれる。
それが彼の親愛の形なのだと思う度にホッサルの胸はじわりと温かくなる。
「久しぶりだね、ヴァンさん」
鹿の王の名をヴァンという。ヴァンは元々はただの人間の男だった。<犬の王>ケノイに操られた<キンマの犬>たちを止めるため、彼は裏返り、獣に憑依するようになった。
人間の姿で出てきてくれることもあるが、ここでは人の目が多すぎるのだろう。
ホッサルが話しかけるとヴァンはブルッと鼻を鳴らした。カツカツと蹄を鳴らし、早く背中に乗れと急かしてくる。
「わかった。わかった。ユナちゃんを迎えに行くんだろ? ならすぐに出発しようじゃないか」
鐙に足を乗せ、腕と足の力を使って体を持ち上げる。鞍にしっかりとまたがり、ホッサルは手綱を握って身を屈めた。
「ホッサル様、お気をつけて!」
「ああ。留守を頼んだ、マコウカン。……それでは。いつでもどうぞ、ヴァン先生?」
おどけるように片目をつむる。ヴァンはフッと鼻息で笑い、ゆっくりと走り出した。
景色が飛ぶように後ろに流れていく。髪が風になびいて心臓がドクドクと脈打つ。この得も言われぬ高揚感。体の内側にまで風が吹き込んでくるような清々しさ。
「アハハッ!」
気付けばホッサルは声をあげて笑っていた。
子供のように屈託なく破顔するホッサルをちらりと一瞥し、ヴァンが走る速度を上げる。色とりどりの花が咲き乱れ、緑がつややかに輝く草原を一人と一頭は疾風となって駆け抜けていった。