悟と傑がカツカレーを食べる話。柔らかな風にふわりと前髪を持ち上げられる。歩みを止めた夏油が視線を上げると、無数の花びらがはらはらと儚げに宙を舞っていた。
もう四月も終わりに近い時期。しかし、雪深いこの土地の気候のせいなのか、はたまた品種の違いなのか。
頭上では満開を過ぎた桜が、最後の一仕事と言わんばかりに、薄紅色の花びらを散らしていた。
春風を泳ぐように花吹雪が舞う幻想的な光景。ついつい目を奪われていると、不意に視界の端で銀色がきらめく。
石畳が続く道の先から名前を呼ばれた。
「おーい、夏油。何をボーッと突っ立ってんだよ?」
急かすような言葉とは裏腹に、声色からはのんびりと穏やかな気配が漂う。
日差しを受けて輝く白銀色の髪もまた、この美しい風景の一部と化していた。
「ああ、すまない。終わる春を惜しんでた、ってところかな」
夏油は片手を立てて侘びながら、クラスメイトへと駆け寄った。
「はぁ?オマエ、何言ってんの?芝居がかった台詞吐いてんじゃねぇよ」
容赦のないコメントを発しながらも、形良い桜色の唇は楽しげに綻んでいる。
「ククッ。なかなか言うじゃないか。そんな悪い言葉、どこでお勉強してきたんだい?」
「うっせ。俺のこと、馬鹿にしてんのぉ?」
漆黒のサングラスがわずかに下がり、透きとおった青色が現れた。六眼と呼ばれる特別な瞳が、悪戯っぽく夏油を見つめている。
「いやいや、まさか。そんなつもりじゃないよ。だって、五条君には助けてもらってばかりじゃない」
呪術高専に入学して半月余り。まさか、初心者の自分がこんな北陸の田舎町、それも準一級呪霊の祓除に駆り出されるだなんて、夢にも思っていなかった。
一般家庭出身のスカウト組、未経験者でありながら二級での入学は前代未聞と言われても、夏油自身はいまいち自覚がない。
呪術界の名門出身である彼からしてみれば、正直足手まといにしかならないだろう。
「オマエみたいな凶悪筋肉ゴリラなんて、もう助ける必要ねぇだろ」
しかし、五条は片方だけ口角を上げて、にやっと不敵に笑んで見せた。
午前中の任務で準一級呪霊を調伏できたのは、五条が術式で瀕死寸前まで追い込んでくれたからだ。
しかし、いくつかの場面では、確かに夏油が得意とする接近戦でサポートできた自負もあった。
かすり傷ひとつ負うことなく、多少なりとも貢献できたことは、経験の浅い夏油にとっては大きな成果だったのだ。
認められた気になって、浮かれている自分に気づく。照れ隠しもあって、わざと挑発的に茶化してしまう。
「おやおや。それって、体術では私に負けを認めたってことかな?」
格闘技のセンスと肉体的なポテンシャルでは夏油も負けてはいないようで、入学直後の鍛錬では五条から一本を取ってしまった。
現在の勝率は拮抗していたが、負けず嫌いの五条はたびたび夏油に勝負を挑んでいた。
「おっ、なんだ?俺にコテンパンにされてぇのかよ?」
不遜そうに上がる眉とは対照的に、楽しげに揺れる空色の瞳。
「ははっ、いいね。京都校の迎えが来るまで、まだかかりそうだし、時間潰しに手合わせしようか?」
午後からは西日本寄りの近県での任務が割り当てられていて、この街での待機が命じられているのだ。
「おっしゃっ!望むところだぜ!」
軽いジャブのような言葉の応酬が小気味良い。荒っぽいキャッチボールを楽しんでいるのは、きっと自分だけじゃないはず。
くすぐったい期待に心が躍り、つい微笑がこぼれてしまう。
「いいかい、五条君。ここは市街地なんだから、術式は禁止だぞ」
ちょうど格闘技のリングほどの空き地を見つけて、二人は改めて対峙した。
店舗の裏側にあって、大通りからは死角になっている。
いくら街中とは言え、ここは人気の少ない田舎町。術式を使わない限り、人目を気にする必要はないだろう。
「はいはい、わかってるっつうの。オマエ、どんだけビビリなの?」
幼い頃から自分だけに異形が視えた。両親、友達、教師にも信じてもらえなくて、いつしか夏油は己のみを頼るようになった。
表面的には誰とでも分け隔てなく付き合っているように装いながらも、雨の日も風の日も道場に通い、自己鍛錬に励んできた。
こんな孤独な戦いが、今後の人生もずっと続くのだと思っていたのに。
「いいや、違うよ。五条君との勝負に、邪魔が入らないか心配なだけさ」
夏油の言葉に、五条もまた不敵な笑みを浮かべる。
「あぁ、そんならノープロブレムだ。俺もそのつもりだし」
互いが互いを牽制しあいながら、間合いを測る。
まだ今は一定の距離を保つ。殺気は通わせたまま、緊張感だけを高めていく。
まさに一触即発の状況。
しかし、まるで喧嘩を仲裁するかのように、ひときわ強い風が二人の間を通り過ぎていった。
春風が運んできたのは、桜の花びらだけではない。
芳醇な匂いが鼻腔をくすぐる。夏油は唐突に自分が酷く空腹であることに気づく。
「ねえ、五条君」
「あぁん?まさか、怖気づいたんじゃねえだろうな?」
「いや、違うよ。一時休戦の提案。手合わせの前に、昼飯にしない?」
「はぁっ?飯なんて、何処で食うつもりだよ?」
五条が不可解そうに声を荒げるのも無理はない。夏油が指差したのは、空き地の隅に見える古ぼけた勝手口――おそらく飲食店の裏口だった。
「だってさ、この匂いに、食欲を刺激されちゃって」
夏油の口腔内ではもう、香ばしい匂いから呼び起こされるあの濃厚な旨味で、唾液が溢れそうになっていた。
そう言えば、入学に合わせて上京して以来、たまたま口にする機会がなかったが好物のひとつでもある。
「おい、夏油。オマエ、舐めてんのか?真剣勝負を差し置いて、飯なんてふざけんじゃ――」
ぐうぅ……ぐうぅぅぅぅ…………。
勝負を中断されて反論する五条だったが、彼の下腹部から切ない音が鳴り響いた。
早朝に軽食を取ったきりなのは二人とも同じ。言葉を詰まらせた五条の頬がうっすら赤く染まる。
ククッと思わず含み笑いを零してしまった夏油の下っ腹に、すかさず正拳が叩き込まれた。
* * *
店舗裏の空き地から表に回ってみると、そこは古ぼけた喫茶店だった。
店内にはエプロン姿の老人がひとり、新聞を読んでいるだけ。
過疎地の平日とはいえ、何とも寂しい客入りである。
「すいませーん、二人なんですが……」
夏油が所在無さげに声を上げると、席に座ったまま老人が窓際のソファ席を指差した。
そこで二人はようやく、その老人が店員であることに気づいたのだった。
「あっ、やっぱりあった。私はカレーライスで決まり」
夏油が吊り目を緩ませて、いつになく嬉しそうな顔を見せる。
しかし、一方の五条は、日に焼けたメニュー表をめくりながら大いに頭を悩ませていた。
そこにはカレーライスの他にも、オムライス、ナポリタン、ピザにトンカツといった、洋風の料理が並んでいた。ホテルのラウンジに似たメニューだと思ったが、写真が載っていないのでどうも想像が湧きにくい。
ついついチョコレートパフェやプリン・ア・ラ・モードといった、デザート類にばかり目が行ってしまう。
しかし、空腹の身体が欲しているのは、大好物である甘味類ではなく、別のエネルギー源。
自分が何を食べたいのか、何を注文したらいいのか、さっぱり見当がつかなかった。
夏油から小馬鹿にされそうなので黙っているが、家の者達を抜きにして飲食店に入った経験がない。
自分で悩む前にあれもこれもと勝手に注文されて、卓上にずらりと並べられた料理の中で、目を引くものに手を伸ばすだけだった。
「まだ当分迎えも来なさそうだし、食後にアイスコーヒーも頼もうかな」
寛いだ様子のクラスメイトに、五条は恐る恐る質問する。
「なぁ、そのカレーって辛いの?」
「ええと、私もこの店は初めてだからわからないなぁ……」
そこで「この辺りのカレーはどこも甘口だよ」と、店の奥から思わぬ回答が返ってきて、夏油と五条は顔を見合わせた。
「お、おい、今あの爺さん喋ったよな!?」
「シーッ!今は黙れよ、聞こえたら失礼だろ!」
二人が口論をするうちに、腰の曲がった老人がゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
彼はエプロンのポケットから、黒い注文ボードを取り出した。そろそろ注文をしろという事らしい。
「私はカレーライスと食後にアイスコーヒーを──」
「カツはいいの?」
突然言葉を遮られて、夏油は吊り目を丸くしてしまう。
「えっ、あの、それはカツカレーってことでしょうか?」
当たり前だと言わんばかりに老人は無言で頷く。
「じゃあ、それでお願いします……」
呆然とした様子の夏油は、老人に押し切られてしまったようだ。
いつも澄ましている彼が慌てる様子に、五条は内心でほくそ笑んでいた。
そして、五条にも鋭い視線が向けられる。
「んじゃ、俺もそのカツカレーにする。あっ、クリームソーダも!」
「飲み物はどっちも食後ね」とこちらの返答を待たずに、老人は厨房へと戻ってしまう。
夏油と五条は無言で顔を見合わせると、声を出さずにぶふっと吹き出した。
十分ほど待たされたところで、香ばしい匂いが微かに香る。
両手に銀色の皿を持って、ゆっくりとした歩みで店主が再び現れた。
「はい、カツカレー二つね」
「うわぁ、美味しそう。カツもつけて大正解」
三白眼を輝かせる夏油に対して、五条は「ふぅん」と小さく声を上げた。
それは五条が想像していたカツカレーとはだいぶ異なる代物で、初めて出会う料理にすら思えたのだ。
まず見るからに安物の銀皿と先の割れたスプーンに驚く。確か日本の軍隊で、こんな食器を使っていた記憶があった。
その楕円形の皿には、黒に近い褐色のカレー、狐色に揚がったトンカツ、そしてキャベツの千切りが盛られている。
ライスはどこにも見当たらない。しかしカレーの中にいくつか小さな粒も見えるので、おそらくライス全体がルーで覆われているのだろう。
五条家が懇意にするホテルのラウンジで、一度だけカレーライスを食べたことがある。
美しい模様で縁取られた丸皿にライスが平べったく盛られて、お伽話に出てくる魔法のランプみたいな形の器がなみなみとビーフカレーで満たされていた。
しかし、そのカレーライスはとても辛くて、ひと口だけ食べてもう手をつけなかったのだ。
「俺、これ嫌い」と幼い五条が涙目で訴えると、周囲の大人達は顔を青ざめさせて、それから二度とカレーが注文されることはなかった。
「何してるの、五条君。早く食べようよ。私、もうお腹ぺこぺこ」
夏油に声をかけられて、五条はハッと顔を上げる。何かと不自由が多かった幼少時代を振り払うように、五条はゆっくりと頷いた。
十五歳になって実家から離れた今は、こうして自分の意志で好きなものを選べる。それがたまらなく嬉しかった。
「んじゃ、いただきまーす」
「ああ、いただきます!」
先割れスプーンを手に取って、トンカツの右端をおそるおそる口に入れてみる。
あらかじめソースがかかっていることも、五条からしてみれば不思議なことだった。
さくっと軽い口当たり。そのまま思い切って咀嚼すると、たちまちジューシーな肉汁が滲み出す。
サクサクに揚がった衣ごと噛み砕く度に、肉の旨みと甘酸っぱいソースが一体となる。
「うまっ!」
思わず声を上げた五条に、対面の夏油も大きく頷いて見せた。
「このトンカツ、分厚くて最高。カレーも濃厚でたまらないよ」
夏油は食べるのが早いので、もうカレーに到達している。五条も負けじとカレーをすくう。
スパイスの風味が口から鼻へと抜けて行くが、辛味はまったく感じない。果物や野菜の甘みが強い。
そして、どろりと濃厚なルーの中から、じっくりと煮込まれた濃厚な旨味が浮かび上がって来る。
「ああ、美味いじゃん。爺さんの言う通り、甘口で食いやすい」
今度はカレーライスとカツを一緒に頬張ってみる。
さっくりと揚がったカツと濃厚な甘口カレー。別々に味わった方が、それぞれの良さが際立つ気がした。
しかし、単体でもメインとなりうる二つの料理が、合うのか合わないのか考え、咀嚼するうちに、口の中で贅沢に混ざり合っていく。
「でも、キャベツが添えられてるのって、私は初めて見たよ。この店のオリジナルなのかな?」
そこでまた、店の奥から「ここらへんではこれが普通」としわがれた声が上がる。二人は再び視線を交わし合うと、音を立てずに吹き出した。
「カレーは牛なのに、カツは豚ってのもおかしくね?」
カツカレーを食べるのが初めてだったので、五条は何気ない疑問を口にした。
しかし、夏油は驚きの声を上げる。
「え、何で?それに、このカレーに肉なんて入ってなくない?」
「はぁ?カレーライスって、普通は牛肉だろ」
「ええ?うちはいつもポークカレーだったけどなあ」
「オマエんちは聞いてねえよ。このカレーさ、明らかに牛骨の出汁みたいな味がすんじゃん」
店の奥から返された「フォン・ド・ヴォー」という回答に、夏油は目を丸くする。
「五条君ってやっぱり、名家の御子息なんだねぇ。私なんて庶民の馬鹿舌だから、全然わからないよ」
そこで、五条の胸がちくりと痛む。
「あのさ、何で俺のことを『五条君』って呼ぶわけ?」
何故かわらぬ不快感を掻き消そうと、スプーンの上に大きな山を作る。口いっぱいにカツカレーを頬張って、ガツガツと咀嚼する。
「へっ?君だって、私のことを苗字で呼ぶじゃないか」
「いや、それはさぁ……。あ、そうだ。そういや家入のことは下の名前で、しかも呼び捨てにしてんじゃん」
五条は慌てて会話を軌道修正しようと、もうひとりのクラスメイトを引き合いに出す。
「ああ、それはねえ……」
そこで夏油は水をごくりと飲み干した。彼のカレー皿はもう、すっかり綺麗に片付けられている。
五条はゆっくり咀嚼しながら、夏油の言葉を待つ。
「入学初日に『硝子ちゃん』って呼んだら、一言『キモッ』って返されちゃってね……」
夏油が哀愁の籠った眼差しをするので、五条は思わず吹き出してしまう。
「おいっ、人が飯食ってる最中に笑わせんじゃねえよ!」
「おい、失礼だな。私からしてみれば、本気でショックだったんだからね!?」
情けなさそうにする夏油が可笑しくて、何故か目の前の霧がふっと晴れた気がした。
「なあ、俺も『五条君』とか呼ばれるのキモいんですけど」
そう言い放ってから、五条は残りのカレーをガツガツと掻き込んでいく。実家では絶対にやらなかった行儀の悪い食べ方。
しかし、夏油は度々そんな食べ方をしていた。今日だって皿を抱えるようにして、あっという間にカツカレーを平らげてしまったのだ。
「ええ~?酷いなぁ。じゃあ、これからは悟って呼ぶよ。だから君も、これから私のことは傑って呼びな」
「んん……!?」
唐突な提案に五条は盛大にむせ返ってしまう。
げほげほと咳き込む五条に、夏油は呆れた顔で「おい、悟。行儀が悪いよ」とまさかの説教をはじめる。
「はぁぁ?いつもこうやって食ってんのは傑だろうが!」
言い争いをはじめた二人を仲裁するかのように、タイミング良くアイスコーヒーとクリームソーダを運んできた老人の口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
END
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第2話は『傑がポークカレーを作る話。』です。
この第1話とあわせて支部にアップする予定なので、続きが気になる方はTwitterや支部をチェックしてみてください!