「とと様、おれは絵が描きてぇ!」
そう言ったのは、髪も解け着物の裾も乱れ、鼻緒の切れた草履を手に息を切らせた娘の栄だった。
襤褸長屋の戸をこじ開けて嵐のように駆け込んできたその姿は、常の女であれば気が狂ったのではないかといういで立ちである。
「馬鹿アゴめ」
狼狽える弟子たちを押しのけて、北斎は目の前の娘に向き合う。誰に似たのか業突く張りで、飯炊きも針仕事さえもまともにできず愛嬌もなければ軽く小指で男に勝る始末。そんなやつでも娘は娘、いっぱしの「幸せ」なんてもんを持たせてやりてぇという親心から苦心して嫁がせた先を振り払い出戻ってきたらしい。
埃舞う薄暗い長屋の戸口、泥にまみれた女が一人。その背には突き抜けるほどの濃い青空がこれっぽっちも他の色と混ざらずに広がっている。
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