「とと様、おれは絵が描きてぇ!」
そう言ったのは、髪も解け着物の裾も乱れ、鼻緒の切れた草履を手に息を切らせた娘の栄だった。
襤褸長屋の戸をこじ開けて嵐のように駆け込んできたその姿は、常の女であれば気が狂ったのではないかといういで立ちである。
「馬鹿アゴめ」
狼狽える弟子たちを押しのけて、北斎は目の前の娘に向き合う。誰に似たのか業突く張りで、飯炊きも針仕事さえもまともにできず愛嬌もなければ軽く小指で男に勝る始末。そんなやつでも娘は娘、いっぱしの「幸せ」なんてもんを持たせてやりてぇという親心から苦心して嫁がせた先を振り払い出戻ってきたらしい。
埃舞う薄暗い長屋の戸口、泥にまみれた女が一人。その背には突き抜けるほどの濃い青空がこれっぽっちも他の色と混ざらずに広がっている。
「おれの幸せは、おれが決める」
それは娘の、笑いながら泣くような声だった。
息子の幸せを。
ただそれを一心に願い、義すらかなぐり捨てて妄執と共に駆けた男がいた。時空の海を彷徨っていたそいつの眼は、ただ悔いのみを映していた。
「このわしは、間違っていたのだろうな」
その男――馬琴は、記憶にない記録を眺めながら、零すようにそう言った。
北斎は否定も肯定もせず黙し、ただそこにある紛い物の犬の耳を見つめて手元の紙に筆を走らせる。筆が紙の上を滑る音だけが耳に届く。
「共に資料室へ来てくれぬか」
サーヴァント葛飾北斎に与えられたカルデアの一室に馬琴がやってきたのは午前のブリーフィングが終わった後のことで、その男は静かに戸口に立っていた。借り物である義娘の柔らかな顔に深く刻まれた眉間の皺がまったくもって似つかわしくない。
つい先日、サーヴァント曲亭馬琴が召喚された。一匹の仔犬がカルデアに迷い込んできたことから始まったあの大騒動を経てのサーヴァント曲亭馬琴の召喚、加えてやたら偉ぶり堅苦しく気難しい馬琴の性格も相まって、他のサーヴァントたちとどう折り合いをつけていくのかとさすがの北斎も米粒ほどの心配をしているところであった。幸いなことに、路の持ち前の穏やかさが緩和材となったのか、カルデアに召喚されている他の英霊たちやスタッフたちと日々楽しげに過ごしていた馬琴だったのだが。
常の様子と異なる馬琴を見て栄は何を察したか、蛸姿で漂っていた父に一つ頷いて何も言わずにその霊基を父へと換える。
北斎は、体を馴染ませるようにひとつ息を吐くと、二本の細い娘の足で散らばった紙を踏みつけながら何も言わずに資料室へと歩を進めた。
資料室にはこれまで起こった数々の、人理を修復してきたその過程も、みなの頭の楔が外れたようなトンチキな出来事も、すべて記録として保管されている。もちろん、マスターと馬琴が深く縁を結んだあの出来事の記録もだ。馬琴は表情ひとつ変えることなく静かにその記録を読み込んでゆく。
「テツゾウ、あの頃、生きていた頃のおぬしも……間違えたか?」
水が器から溢れ出るように、またぽつりと馬琴がつぶやく。
「さぁナ、どうだったか」
あの頃の襤褸長屋を思い出す。目を閉じれば、瞼の裏に摺られたあの日の空と娘の姿が見えるようだった。鮮烈に、そして痛烈に。
「それは、アゴにでも聞いてくれ。けどマァ――」
北斎は静かに筆を置いて、紙面に描かれた犬耳の生えた美人画を見る。悔しいかな、やはり、娘のようにはいかないものだ。
「――俺の言うことなんざ聞きやしねぇこいつは、自分で己の幸せってやつを見つけて、この手に掴みやがった」
胼胝の目立つ細い手を眼前に翳す。父の片手の中にすっぽりと収まってしまうほど小さく頼りない手だったのに、この手が父では掴めなかったものを掴みとったことを知っている。それは、すべてを塗りつぶすほどの青を纏った娘に教えられたことだった。
「人間ってナァ、そういうもんらしい」
「そういうものか」
北斎が手を翳した向こう側で、馬琴は凝らすように眼を細める。それはあの時空の海で北斎が見た眼と同じだった。きっと、その眼は悔いにまみれた人生を見つめているのだろう。
息子のことも、義娘のことも、己のことも。そしてそれに、北斎が何かを言えるものでもないのだ。
「路がな、」
資料室を後にしてカルデア内の廊下を歩いていると、突然馬琴が立ち止まった。先を歩いていた北斎も同じように立ち止まり振り返ると、馬琴は渋い顔のまま反して穏やかな声で言った。
「また戯作を書いてほしい、一緒に書きたい、と。そう申すのだ」
人工的な白の中に立ち竦む男に、北斎は体ごと向き直る。無機質な床を踏む裸足が、ペタリと音を鳴らした。
「いいじゃねぇか」
「わしは……生きるために書いてきた戯作を、今度は何のために書けばよいのかが分からなかった。またこの手に筆をと欲する気持ちを何に乗せればよいのかが分からなかったのだ。それゆえ、生前の最たる理由であった宗伯のことを整理しようと記録を見てみたものの、いやはや……結局のところ、わしはわしでしかないのだな」
どうにもならぬものだと、自嘲気味に肩を震わせて馬琴は笑う。実に調子の狂うことだと北斎はガリガリと頭を掻きながら盛大に息を吐く。寄る辺を失くした子どものような男は、小難しく考えているようだが問題はいたって簡単で、既に答えはそこに出ているではないか。
北斎は吐ききった息をまたひと吸いしてから馬琴の目をまっすぐに見る。あの日の、あの女のように。
「倉蔵、お前……書きたいんだろう」
なら、書けばいい。
生きるためだとか、家族のためだとか、高尚な理由がなくともただ書きたいという気持ちがあればそれで十分なのだ。たとえそれが、かつて忌み嫌ったものであったとしても、今ここにいる己が欲するのならば。
「結局のところ、お前はお前なんだからヨ。お前の幸せは、お前が決めればいい」
北斎のその言葉に馬琴は、かつて襤褸長屋で同じ光を浴びた男の如く、泣きながら笑うような顔をした。