家庭はいつも悩みが尽きないお題:魔女/魚の腹/婚外子
家庭はいつも悩みが尽きない
込み上げてくる吐き気に、手で口を覆うと、水槽の中の魚が心配そうにちゃぽんと跳ねた。忌々しげに横目でにらみつければ、魚は透き通るような水の向こうに消えていく。
わたしは水を濁すように餌を撒くと、調合室に向かった。天井に吊るしておいた吐き気を抑えるハーブをいくつか手に取る。
魔術書や薬草事典が積まれた机に座り、胸を押さえながらハーブを煎じると、器に注いで一口飲んだ。
「うげ……」
強すぎる苦味に、手を伸ばしてとっておきの蜂蜜を垂らした。
幾分かマシになった飲み口に、ほっと安心しながら目を閉じて、ため息をつく。
「蜂蜜は街に行かないと手に入らないのに……」
目を閉じる前に視界に映った蜂蜜は、瓶の底を舐めていた。
憂鬱な気分になる。
街に行きたいが、身重の体では難しい。一人ではなにをするにもうまくいかない。
魔女といえど、奇跡が使えるわけではない。天候や薬草の見分け方、まじないの仕方はわかる。それ以上のこともわかることもあるけど、振り回される方がずっと多い。
幸か不幸か、不思議の隣に住まわされているだけ。幸福もあるが、そのせいで、背負わなくていいものを背負ってしまう。
ふいに、脳裏に魚の尾鰭が踊り、舌打ちをした。
わたしは頭を振った。
なんにせよ、身重の体ではどうしようもない。
飲み込んだ薬が胃に落ちていくように、椅子に身体を預けて、じっと息を潜めると、まるで水のように不快感が全身を包み込んでいくのを感じる。甘やかな言い方をすれば抱きしめられているようだが、わたしは抱擁を望んでいない。
いっそ吐ければ楽になれるのに、込み上げてくる吐き気は喉のあたりでとどまって出ていこうとしない。
ひとりぼっちの魔女は、この辛苦から逃れるすべを一つしか知らなかった。
誰も教えてくれなかったから。
這うようにベッドに向かい、シーツの中に潜り込む。浮かぶように手足を伸ばして、天井を見つめた。
つわりは魔女という鎧を剥ぎ、女の身体を引きちぎり、少女のむきだしの心を苛む。わたしの体はとっくに少女ではないけれど。
頬が濡れていく。
泣いていることに気づきたくなくて、わたしは眠りに身を委ねた。
夢の中で、わたしは吐き気からは逃れられたが、別のものに追われていた。
それはぬるう、と首に巻き付き、胸を舐めるように這って……下へ下へと泳いでいく。
半年前、街に行ってから繰り返し見るようになった夢だ。どうしてまた見ているのだろう。
唇にやさしい口づけが落とされ、冷たい鱗が肌を撫でると、わたしの体温と溶け合う。くらやみの中で、何かに包まれる感覚に、わたしはつかの間心を許してしまった。
魔女の人生は神秘と隣合わせだが、この夢は近づきすぎた。最初にこの夢を見たとき、違和感に気づいていれば、なんて夢で思っても今更だろう。
後悔は遅く、夢はわたしの後ろ髪に手を伸ばして、こう告げる。
きみは逃げられない。逃げられなかった。いつまで逃げ続けるの?
跳ねるように飛び起きたわたしは家を飛び出し、草むらに胃の中のものをありったけぶちまけた。
とっておきの蜂蜜も、苦味の強いハーブの汁も、なにもかも。
しずかな森にわたしの嗚咽が響くなか、湿った音が近づいてきたかと思うと、わたしの背後でやんだ。
「大丈夫?」
そいつは、濡れた手でわたしの背中をさすった。布地に水が染み込み、彼の手に背中が引きずられるような感触にわたしは眉をしかめる。
「触んないでよ」
人の形に変じた彼の手を振り払ってにらみつけると、透き通るような水色の瞳がわたしを見下ろしている。
自分の所有物を慈しむような、でもそれを悟られれば嫌悪されると知っているから、機嫌をうかがうような、目。
「だって……心配なんだ。きみのことも。お腹の子のことも」
「違う」
即座に否定すれば、彼は傷ついたような顔をした。
湧く必要のない罪悪感は、腹のなかの、今まさに形を得ようとうごめく生物が抱かせているのだろうか。
「あんたはわたしのペット。勝手に、伴侶ヅラしないで……」
そう言って、さらに面罵しようと突きつけた指先はしかし、勢いをなくし、折れる。わたしは地面にうずくまって、さらに吐いた。
いったいこの苦痛はいつまで続くんだろう。生命の神秘なんて、クソくらえだ。
ペットの魚はまるで人間のように、わたしをいたわり、背中をさすり、とんとんとあやす。
「はやく結婚しようよ。うんって言ってくれるだけでいい。そうしたら、いっしょに水槽で暮らせるのに。僕達は家族だもの、一緒にいなきゃ」
ちがう、言いたかった言葉は、やってきた吐き気に押し流される。
背中をさする手はやさしく、やさしく、わたしの心にぬるう、と絡みついていく。
もう吐けるものがないわたしの腹を、彼はやさしく撫でつづけた。
おわり
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推敲前の30分で書いたものも貼っとく
制限時間 30分
お題:魔女/魚の腹/婚外子
卵はいつ孵る
込み上げてくる吐き気にわたしは口を手で覆った。水槽の中の魚がちゃぽんと跳ねる。
忌々しげに横目でにらみつければ、魚は透き通るような青の向こうに消えていった。
わたしは調合室に向かうと、吐き気を抑えるハーブをいくつか手に取り、煎じて飲んだ。
苦味が強すぎるので、とっておきの蜂蜜を垂らす。
「街に行かないと手に入らないのに……」
この体では街に行くのも難しいだろう。魔女といえど、身重の体ではどうしようもない。
全身を覆う不快感は、まるで水のように包み込んでくるようだ。
この辛苦から逃れるすべを、わたしは1つしか知らない。這うようにベッドに向かい、シーツの中に潜り込む。
体調不良は魔女という鎧を剥ぎ、女の心を引きちぎり、むき出しになった心の中の少女を苛む。
わたしの体はとっくに少女らしさを失ったというのに。
いつのまにか眠りに落ちたわたしは、吐き気からは逃れられたが、別のものに追われていた。
それはぬるう、と首に巻き付き、胸を舐めるように這って……下へ下へと入り込む。
ある時から毎晩のようにやってきたものが、今夜も来たようだ。
冷たい鱗が人肌を撫でていく。口づけはいつもやさしいが、それだけだ。
それからは逃げられない。逃げられなかった。
跳ねるように飛び起きたわたしは家から飛び出し、草むらに胃の中のものをありったけぶちまけた。
とっておきの蜂蜜も、苦味の強いハーブの汁も、なにもかも。
背後から湿った音が忍び寄り、わたしの背中をさする。濡れた手が服を引きずり、水が染み込んでいくのがわかった。
「触んないでよ」
彼の手を振り払い、にらみつければ、透き通るような水色の瞳がわたしを見下ろす。
自分の所有物を慈しむような、でもそれを悟られれば嫌悪されると知っているような。目。
「だって……心配だったから。僕達の子どもだもの」
「違う」
即座に否定すれば、彼は傷ついたような顔をした。
「あんたはわたしのペット。勝手に伴侶ヅラしないで……」
そう言って、さらに面罵しようと突きつけた指先はしかし、勢いをなくす。
地面に四つん這いになって、わたしはさらに吐いた。いったいこの苦痛はいつまで続くんだろう。
生命の神秘なんて、クソくらえだ。
ペットの魚はわたしをいたわるように背中をさすり、とんとんとあやす。
「はやく結婚しようね。そうしたら、いっしょに水槽で暮らそう。僕達は家族だもの」
違うと言いたかったけれど、新たに吐き気がやってきて、涙とともに草むらにこぼす。
もう吐けるものもないわたしのそれは、透き通るような――――。
おわり