賢者と呼ばれる女が居た。
異世界から来たというその女は誰にでも平等で、真っ当そのものを絵に描いたような人間だった。だが、賢者というたいそうな肩書を持っているにも関わらず、女の背はいつもほんの少し猫のように曲がっていて、自信のなさが滲み出ていた。
「しっかりしろ、お前はどっしり構えていればいい」
真紅の瞳をした少年がそう声をかけると、賢者は僅かに目を見開く。そして気恥ずかしそうにしながら、ぴんと背筋を伸ばすのだ。
しかし残念な事に、翌日になるとまたもやその背は曲がっていて、いつまで経ってもまっすぐに立てない賢者の様子は、長年連れ添った見眼麗しい幼馴染と重なり、シノはどうにも放っておけなかった。
きっかけなど、とうに忘れてしまった。ただ目まぐるしく過ぎていく日々の中で、言葉を重ね触れあっていくうちに、ひとつ、またひとつと彼女自身の持つ魅力に気付き始めた。
いかなる時でも人の心に寄り添い、魔法使いと人間の懸け橋になろうと奔走し、誰であろうと分け隔てなく手を差し伸べる。時には酷い扱いも受けていたであろうに、賢者は愚痴の一つも零さなかった。
いつ前に傾いてもしまってもおかしくない頼りない背中を、全てを抱えきれない柔な手を、他でもない自分が支えたいと思うようになって初めて、これが所謂恋心と呼ばれるものだと少年は悟った。
「賢者」
猫になりつつある薄い背を軽く叩くと、決まってばつが悪そうな笑みを浮かべてから、女は姿勢を正す。そして必ずシノに視線を合わせ、目を細めるのだ。
「シノ」
私を支えて欲しい。そう言いたげな錆色の瞳に、シノは白い手を引いてこう答える。
「安心しろ。俺が支えてやるから」
自信たっぷりに言葉を紡げば、賢者はへにゃりと口許を緩め、返事の代わりに頬を朱に染めた。
掌から伝わるぬくもりと、星の煌めきを詰め込んだ眼。自分だけがそれを知っているのだと思うと、シノはとても気分が高揚した。
花が綻ぶような微笑みは、あの夜窓越しに手渡した花の束を思い出す。
シノにとっての賢者は、美しく咲く花そのものだった。
しかし、どんな花も水がなければいずれは枯れてしまう。土に注がれた水がどれだけ残っていて、どれだけ足さなければならないのか。触れてみなければ分からない。
いつからだろうか。曲がりそうだった背は常にまっすぐ伸びていて、賢者の手は当然とばかりに、シノへと差し出されるようになった。
「俺が先にしようと思っていた」
そう言って握り返せば、賢者は口を結んだまま柔らかな笑みを浮かべ、その手を迷いなく引いていこうとする。
「賢者」
声をかけても、女は振り返らない。ただ前だけを見て、脇目も振らずに歩を進めるその姿勢は、崩れる気配がない。
何かがおかしい。
シノは誰に見せるまでもなく、顔を顰める。
絶対に離さないと繋がれた手は、いつもと変わらない温もりを帯びていた。
恐ろしいと思えるほどの輝きを放つ白銀の半宵だった。
箒に跨った魔法使いの少年は、ひとり夜を駆ける。手にしているのは、人の手が一切加えられていない花の束。摘まれたばかりのそれはみずみずしく、花弁や葉が月に照らされ淡い光を宿していた。
水を、与えなければならなかった。花を生かす為の何かが必要だった。
シノは舌打ちをし、帰路を急いだ。
見慣れた建物が視界に入るとすぐに、とある部屋を目指して一目散に風の中を駆け抜ける。
箒に跨ったまま、星の輝きをぼんやり映し出す薄い硝子を数回叩いた。しかし、全く反応がない。僅かに開かれたカーテンの隙間から中の様子を覗き見るも、主の不在を訴えているのか部屋は沈黙を貫いた。
シノは素早く箒から飛び降り、地に足をつけ、月の灯と夜目のきく己の視覚だけを頼りにあてどなくさまよった。
すると程なくして、大木の下から不自然に伸びる細い影が視界の隅に入った。
だがそこに居た人物は誰にも見つかりたくなかったのか、ひっそり木の陰と茂みの間に隠れ、特別何かをする訳でもなく、ただただ静黙している。
その背筋はすっかり曲がっていて、全ての物から自身の身を守るように、それは蹲っていた。
シノは花束を片手に徐々に距離を詰めていく。もう少し。あと、少し。
「帰りたい、なぁ……」
口から零れ落ち、瞬く間に風の音で掻き消えた泡沫の声。
刹那の祈りを篭めた声色は、研ぎ澄まされたシノの鼓膜を容赦なく叩いた。
「賢者」
華奢な肩が、大きくはねる。
自力で背を正すのが困難だと言わんばかりに、いくら待てども賢者は上体を起こそうとしない。
叱られると、思っているのだろうか。シノは怯え小さく縮こまってしまった想い人の前で、片膝をつく。
そして絶えずのしかかり続ける何かを振り払うみたいに、狭い背中に片手を添えた。
いつからこの場に留まっていたのか。触れた箇所は氷の如く冷えきっていた。
「晶」
温める仕草で、何度も撫でる。体温を分け与えてやれるなら分けてやりたい。そんな思いで一途に手を動かした。
「……シノ」
唐突に、悲痛な色を乗せた声が名前を呼んだ。
「ここにいる」
安心させたくて言ってはみたものの、晶はそれでも蹲ったままで。幾らシノが水を注いでも、なにも、変わらない。
「皆、とても、優しい、んですよ」
「知ってる」
「皆、私のことを、気遣って、くれるんです」
「ああ」
「それ、なのに、わたし……」
それ以上、晶は何も言わなかった。口を閉ざして何かを堪え、身体を震わせるばかりで。
きっとシノが続きを言葉にしていいと言ったところで、決して口にはしないのだろう。真木晶は、そういう人間だった。
「大丈夫だ。誰も、晶を責めたりしない」
シノにとって、晶は美しく咲く花そのものだった。
だがそれを枯らさない為にも、生きていくだけの水が必要で。
不仕合せな事に、どれだけシノがそれを注ごうとも、独りにしないと他の花達を添えても、注意深く観察しなければ分からない程の緩やかな速さで花は枯れ、やがて苦悶の声を上げる間もなく死に絶えるのだろう。
晶が心から望み欲している水を、どう足掻いてもシノには注ぐ事が出来ない。なぜならその水は、この世界に存在していない。
震える肩と、ぼたぼたと地面に吸い込まれる大粒の雫。残り僅かな水が、彼女の中から失われていく。
これ以上流れてしまわないよう、未だ持ち上がらない焦茶色の頭を、シノは片腕で抱き締めた。
花が枯れるのが先か、壊れかけた世界が救われるが先か。
握り締められた束の花弁と葉先が悲しげに、乾いた地を撫でている。
「きれいな花」
俯き掠れた声で、晶が呟いた。