部屋の外コンコン、
ノック音がする。自分しかいない部屋に空虚な音が響いていた。
相手が誰かは、わかっている。
「合鍵で入ってよ」
返事はない。ドアの向こうの気配は確かに彼のものなのに、近づいてはいけないと本能が告げる。
ジリジリと肌が焼けるような殺気が少しずつ大きくなる。音は絶えず響いている。
かける言葉を間違えてはいけない。
「なぁ、」
腰掛けていたベッドから立ち上がり、ドアから距離を取る。耳鳴りが酷い。自分の声さえ掻き消されそうで、更に声を張り上げた。
「俺に…此処に、何か、用?」
声が止んだ。
「…うじ」
普段とは違う覇気のない声。視線を背後の窓へ移した瞬間、ガリガリガリガリと爪の欠ける音すらするほどに、扉の向こうの相手は引っ掻き始めた。
部屋中に響く甲高い音が鼓膜を揺らす。
「ゆぅぅうぅじぃいいぃ」
ガリガリガリガリ、
徐々に大きくなっていく声と引っ掻くような音が届くたび、頭が痛んで眩暈がした。それでもなんとか目を向けた窓には、今の状況に不釣り合いな程美しい青が広がっている。
「扉の向こうでお前を呼んでいるのがわかっても返事をしてはいけないよ。」
いつかの担任が、珍しく座学をしていた時のことだ。その日は伏黒と釘崎が任務で、俺は昨夜地方から帰ってきたばかりだった。
「返事しなきゃいいの?」
「そう、返事をしなければ喋ってもいいけど、悠仁はしちゃいそうだなー先生心配」
「…覚えときマス」
そうだ。返事を、してはいけない。
既にもう二度ほど話しかけてしまった。相手に自分の存在は知られている。逃げ道は、どこまでも青い、窓だけ。
「ユうじ、いィるウぅよね、ねェえ!ゆう、ゆゔじぃ!」
声が室内に反響する。姿は見えないのに、すぐそこにいるかのような圧迫感。だめだ、もう本当に、逃げないと。窓に走り寄る。鍵を開けて、手をかけた。
青と目があう。青に身を投げた。
青が俺を受け止めた。
浮遊感がない、勿論空気抵抗すら感じない。
「大丈夫?悠仁」
背後から耳に馴染む声がした。青に包まれた俺は振り返ろうにも身動きが取れず、けれど先程より随分滑舌がよくなったそれに心底安堵して。
「何が何だかわかんねぇけど、多分だいじょーぶ……」
思わず、返事を。
「いや全然大丈夫じゃないよね、これ」
突然後ろに引っ張られた衝撃で内臓が悲鳴を上げる。
「うわっ!」
「僕のかわいい生徒に何してんのかな」
「五条先生!」
「悠仁が招き入れてくれたお陰でやっと入れたよ。さて、このデカブツはさっさと祓っちゃおうか」
バシュッという音と共に、目の前の青が消える。部屋の中に投げ入れられ、俺は尻餅をついた。チラリと視界に入ったドアは元の形状を無くし、無惨に床へ散らばっている。
難なく『デカブツ』を祓い終えた先生がトンと窓枠に足を掛けて俺を見下ろした。
「それで?悠仁くんはどうして窓の方に逃げちゃったのかな〜?」
「え……だってドアの外にヤバいの居ただろ?」
「ヤバいのって僕のこと?さすがに傷つくんだけど」
「なんかガリガリしてたし」
「してないね。叩きはしたけど」
「言葉だって何言ってるかわかんなかったし!!」
「それは悠仁が認識阻害受けてたからだね」
淡々と事実を語る先生を床に座って見上げると、「危機管理が甘いよ」と額を弾かれた。痛い。
「窓を開けたのをきっかけに認識阻害が解かれた。ドアの外にいた僕の言葉は正しく届くようになって、」
「俺が返事をしたから部屋に入れた…ってコト!!?」
「そういうこと〜。つまり二重にロックが掛かってたわけね」
悠仁もまだまだだねぇ、と窓枠から降りた先生が頭を撫でてくる。目の前に屈まれて、ようやく真正面から顔を見ることができた。これはちょっと、怒ってる顔だ。
「えっと、ただいま?」
「おかえり、悠仁。この後は僕とみっちり補習です」
「マジかー」
「ねぇ悠仁」
先生が声のトーンを落として呟いた。
何であれを受け入れたの
沈黙が落ちる。なんで、って。
「……青かった、から?」
「悠仁は青だったら何でも受け入れるわけ?」
「そうじゃねーけどさ。なんだろ、」
窓の外の青色を見た時、綺麗だ、と思った。あんな状況なのに、脳裏を過ったのは先生の瞳で。
「あ、え、うわぁ…」
「なに」
「ちょっと自覚して恥ずかしくなってんの……」
顔を覆って視界から先生を消す。だってそれはつまり、この人の青色に自分自身を委ねていたのと同じことだ。
そんなの、恥ずかしすぎて言えるわけがない。
「僕説教してたつもりなんだけど?」
「今顔見れん…」
フード付きの制服で良かった。
「ふーーーーーーーん」
不服そうな声を出して、先生の気配が更に近づいた。嫌な予感がする。
「ち、近づか…あっ!?」
サッと避けるように距離を取ったが、時既に遅し。長い腕を伸ばしてフードを剥ぎ取られ、熱くなった頬を曝け出された。
「………真っ赤じゃん」
「言わんでいい……」
「え、なに?……ちょっと待って、まさか」
「もぉ〜〜〜!見んなって!」
「いやいや見るよ!?悠仁も見ていいから!ほらほら!」
目隠しをずり下げて長いまつ毛をバシバシ振りながら、先生が青い瞳をこれでもかと見せつけてくる。
「うるさい!いじってくんな!」
「だって僕の目を思い出したからってことでしょ!?」
「あーあー!聞こえねーー!!」
耳を塞いでいるのに無理やり割り込んでくる先生の声が、唐突に静かになった。
「ゆうじぃ……」
ずるすぎん?
チラと視線をやった先で、先生はかわい子ぶってこちらを見つめていた。俺がこの顔に甘いことを知っててやっている。確信犯め、卑怯な手を使いおる。
「もぉ〜〜、先生ずりぃ」
「ずるくないよ、悠仁が甘いだけ」
「つけ込んでんの誰」
「僕だけどね?」
悪気なさそうに言い放つ先生にため息をついて、目を見返した。満足そうにフフンと鼻を鳴らしたこの人にいつか一発、いや二発くらいは拳をお見舞いしてやりたいと思うのは、おそらく俺だけではないだろう。
「気分いいし、補習は手短にしてご飯食べに行こうね」
「ビフテキ!」
「あはっ、いいよ!肉でも寿司でもフランス料理でもね!」
悠仁と一緒に食べるならきっと何でも美味しいよ。
そう言って笑う先生を見て、しばらくの間は拳を仕舞っておこうかな、とか。
この人に関して、甘いのは一生治らなさそうだ。
Fin