手を取り合った始まりの日 妖霧で霞んでいたクリスタルタワーの光がぼんやりと目立つことにグ・ラハ・ティアが気付いたのは、本国の委員会への報告書に一区切りがついたころだった。霧といっても濡れることが無いからと、風の心地よい外で作業しているうちにいつの間にか肌寒くなっていた。いつの間にやら日が落ちていたのかと、深く考えるでもなく空を見上げる。
相変わらず陰鬱な雰囲気だな、と思う。暗くなる代わりに妖霧の薄明りとクリスタルタワーの煌めきが夜を照らしているのだが、それが一層荒地の虚しさを色濃く映し出しているのだろうか。
疲れからか滲むしみたれた思考を振り払うように頭を振り、大きく伸びをした。周りを見れば今日は保存の利くナイツブレッド(ライ麦パン)にピー(豆の)スープを付け合わせただけの簡素な食事が配られている。
(温かいメシが食えるだけマシだけど、味気ねえなー)
若い身には物足りないと思ってしまうのはしかたないだろう。それでも食べたいと腹は訴えるわけで、書類諸々を書箱に仕舞い込んで配膳の列に並んだ。どうやら最後尾らしい……と思ったが、直ぐ後ろから近づく小さな足音が耳を揺らした。
振り向けば、まずは淡い光を放つエーテル体が目に入った。かつてニームにいたとされる癒しの使い魔、フェアリーだ。ならばと視線を下げれば思った通り、そこには腰ほどの高さしかない人影――シャーレアンで見たような角帽を頂き、動きやすそうな術法衣を纏ったララフェルの姿。薄化粧で縁取られた大きな目がこちらと合うと、大きな頭を緩く下げてきた。その姿は一見子供のようで、しかししっかりと背筋の伸びた姿勢は彼女の礼儀正しさを感じさせる。
「こんばんは、グ・ラハ・ティアさん。今日もお疲れ様です」
「ああ、お疲れ。珍しいな、なんでこんな時間にいるんだ?」
顎に手を当て思案する。彼女はノアの一員として調査に参加している冒険者の一人だ。と言っても調査団専属ではなく、古代の民の迷宮を攻略してからの準備期間はここと方々を行き来しているようだ。ゆえに遅くなる前にはレヴナンツトールなり拠点(ホームポイント)なりに帰っている。
たまに顔を合わせ言葉を交わすこともあったが、こうして立ち止まって対話するのは初めてかもしれない。霊砂集めの時からその小さくも勇ましい姿に感心し興味のある存在だったというのに、だ。
「ギルドリーヴ終わりに届け物だけ受け取って帰ろうとしたのだけれど……ちょうど夕飯時だからと誘われてしまって。折角だからご相伴に預かったんです」
どんなご飯かしら、と呟き微笑む顔は大人びた、いや年相応だろう余裕あるものだった。利発そうな目鼻立ちが緩む様は委員会の同僚に似た雰囲気を醸し出していて、まだ別れて然程経っていないのに懐かしさがこみ上げる。
「どうしました、人の顔を凝視して。ほら前が空きましたよ」
「っとと、悪ぃ」
言われて前を詰める。食料担当が慣れた手つきで次々人を捌いている姿は研究者には見えない程で、もう間もなく食事にありつけそうだ。
それから礼を言おうと振り向いたところ、先程までの柔らかな微笑みが悪戯をする子供のようなにやつきに変わっていた。
「全く、ララフェルなんてまじまじ見ても目の保養になりやしないのに。……もしかして物好きな方、でしたか?」
待て今なんて言った?
「はっ……なっ!?」
わざとらしく胸に手を当てて上目遣いでこちらを覗き込こむ仕草はどこか煽情的で、今までの冒険者たる彼女からは想像もつかない状況に呼吸が止まるところだった。
……まして子供のような見た目でそんな表情をされ混乱するのは仕方ないと思いたい。声色といい、ララフェルは(他種族にしてみれば)見た目と中身の差が凄まじすぎる。
「冗談にしたって、も、もう少しなんかあんだろ!」
「あら……ごめんなさい。そうよね、些か品がなさ過ぎましたね」
逸る鼓動の勢いのままバカ正直に返した言葉に彼女は驚いて丸く見開き、やがて目を伏せた。落ち着いた表情に戻りつつも気落ちしているのがありありと分かる。周りを不規則に飛び交い始めたフェアリーのそれは間違いなく抗議の意思だろう。
「いやっ、そんなことは、ねーけど……そういうネタを出す風には見えてなかったから、つい」
しどろもどろに取り繕うも彼女は頬へ手を添え真剣に悩み始めたようだ。いたたまれなさに行き場のない手が反対の腕の手甲を擦る。情けない癖と自覚しているし直ぐ気付いて止めたが、それ程までに己も動揺しているようだった。
まさか勇猛なのは表向きだけでその実繊細だったのか? あんな揶揄いをしておいて? いやしかし――。
「……くふっ」
小さな吐息が聞こえた。急に思考の波が引き、何事かと耳がピンと張る。
「ふっ、ふふ、ごめんなさい。そんなに、困らせるつもりはなかったのだけれど」
「はっ? な、あんた、おい」
持ち上がった彼女の顔は悪戯を成功させた子供のようにきらきらと輝いていた。
完全に、おちょくられている。
「だあああもう、人で遊ぶな人で!」
「だってこんなに素直な反応が返ってくるのも珍しくて。ああ別に、貴方を見くびっているつもりではなくて……気を悪くしたのならごめんなさい。リリィベルも悪かったってば」
声を落ち着かせながらも眉を下げ困ったように笑ってフェアリーとじゃれるあどけない姿には、先程までの覇気も急に萎んでしまい、所在なさげに尾が揺れた。
「はー……オレも大袈裟に言っただけでそんなに気にしちゃいねえよ。知り合いと似てるなってガン見しちまってたのは事実だし」
「そうですか? ならよかった」
妖霧でほの明るい空に照らされた口元が緩んだと分かった。釣られてこちらも安堵の息を吐けて、漸く元の緩んだ空気に落ち着いたと感じる。
雰囲気もよくなったのでそのまま話せていればよかったが、ちょうど自分の番が来てまた慌てて列を詰めた。呆れ顔の研究者は何か言いたげだったが、ともあれ量だけは潤沢な食事がトレイごと渡される。
冒険者もその横で直ぐ受け取ると、なんとなしに二人並んで手近な木箱に腰掛けた。フェアリーは腰から外された魔道書に座ったり飛び立ったりと自由にしているようだ。
既に寒い時刻だがスープに口をつければ体に温かさが巡りなんてことないように思えた。肉類が入っていないというのにこれだけコクがあるのは流石の腕前だ。
「温かくて美味しい……ああそれで、知り合いというのは?」
「んー、あんたと同じララフェル族の賢人がバルデシオン委員会にいるんだよ。顔が似てるわけじゃねーけど、雰囲気が似てんなーってさ。ああ、癒し手ってのも同じか」
人を揶揄うところも似ている……と思ったがネタの品性が違いすぎるのでそこは黙っておいた。主に同僚の名誉のために。
「癒し手……幻術士かしら。暁の、私の知る賢人達は腕も立ちますが皆そういうものなんですか?」
頻りに興味深げに問い掛けてくる言葉も瞳も、先程とはまた別の意味で子供のように輝いていて、冒険者というものは自分達研究者の様に好奇心旺盛なのだとよく分かる。
「そうとも限らねーけど、少なくともあいつの腕は確かだな。まっ勿論オレの方が強いけど」
「弓術士が癒し手と強さを比べてどうするんですか。そのお手並みはまたの機会に見せてくださいな」
当然、と指し示すようにスプーンを突き出していたのだが、なんともバツが悪くなりスープをゆるゆるとかき混ぜた。先程まで自分が子供のようにはしゃいでいたというのに、今度は我が儘な子供を見守るような柔らかな視線を向けられると何か釈然としない。
いや、だってちょっとは言いたくもなるだろう。弓術の腕をあれだけアピールしているというのに、ここ最近は裏方しかさせてもらえていない。そりゃ目付役として調査指揮は重要な仕事な訳だが、冒険者達の背中を追うだけなんて、そう、プライドが廃れたような。自分だって弱くは無いのだ、彼等の横に並び立ちたいじゃないか。
「……また、つったって塔の中に入れんのはまだ先の話だぜ?」
「なにも調査に絡めなくたって、ギルドリーヴとか、なんなら少し遠出してクルザスで狩猟なんてどうでしょう。少し時間があればやりようもありますからほら、そう不満そうにせずとも」
「別に不満なんかねーよ」
言い捨ててからスープに浸したナイツブレッドを大口で噛んだ。自分でも分かるぐらいの顰めっ面が、優しく宥めるような微笑みを見てさらに深くなった。ここまで来ると完全に子供扱いになっていて大変納得がいかない。
「ガキのお守りじゃねーんだし、そんな変に気ぃ使うなよ……」
「え、そんなつもりはなかったのですが……そこまで年下扱いしてたかしら」
「年下ぁ?」
頬に手を当て思案する仕草は確かに己の態度よりかは大人びたものだが――ではなくて。
「なんで勝手に年下に見られてるんだよ。オレもそっちも歳なんか知らないじゃないか」
まさか普段の立ち振る舞いで子供っぽいとでも思われたのか。そうではないと信じてどういうことかと睨めつけてみるも、彼女は気にすることなく記憶を辿るように視線を漂わせた。
「いえ、以前ラムブルースさんと話したときに年齢の話になりまして。グ・ラハ・ティアさんは24でしょう?」
「お、おう」
「なら私の方が年上なんですよ」
大きな頭でしっかりと頷き、満面の笑顔の横ではさらりとした髪が揺れるのが見えた。陰気な雰囲気のモードゥナには似つかわしくないぐらいに晴れ晴れとした面立ちだった。
目を瞬き見直すが、他種族(ましてララフェル)の年齢なんて見抜く方が難しい。丸々とした頬に大きな瞳と小さな口。これで子供じゃないんだからミコッテには驚きだ。もう一度凝視するがまるで分からない。
「……いくつ?」
「レディに年齢を聞くのは失礼ですよ」
「どこがレディだよ、どこが!」
小さな子供を叱るように一本指を突きつけてきやがったのには間髪入れず反論が飛び出た。際どいネタでおちょくってきた女の言えた台詞ではない。というかさっき反省したその口でからかうとは随分とまあ大胆なものである。
額に手を当て唸る自分とは対照的に、その姿を観て彼女はとうとう大きく声を上げて笑い出す始末である。
「っふふ、あはは! 本当に、貴方、素直ですね」
「あんたは本っ当に楽しそうだな!」
「はい。グラ・ハ・ティアさんとも、ちゃーんと仲良くやっていけそうだなと思いまして」
小さな指先で目元を拭い、それでも笑い足りないといった風にくっくと笑いが漏れている。いじりがいがあって楽しく遊べそう、の間違いじゃないか?
「……そりゃどーも。そんな仲良くってんなら敬語も止めようぜ」
「でも貴方、年下だけど『目付役』では?」
大笑いの名残で頬をほんのり赤らめ、まだ笑いを堪えながら横目で見上げるその顔は、まだまだ遊び足りなさそうに輝いている。
「いちいち強調すんなよ、悪かったって。……オレだってノアの皆と同じ、あー、仲間なんだ。シド達みたいに接してくれた方が気が楽だ」
堪らず降参、と両手を挙げて示せば漸く満足したか納得したように緩く頷いているのが見える。これは同僚(クルル)並に手強い――いや、それ以上に厄介なララフェルだとよく分かった。
……ともあれ、仲間だと自覚がありそうな割に堅苦しい喋りなのは気になっていたので、これを機に言い出せたことはよかったかもしれない。そういうことにしておこう。
「ならお言葉に甘えて、名前も呼び捨てで。改めてよろしく、グ・ラハ・ティア」
食器を横に置き、とても小さな右手が差し出される。今は真摯な色を映し出す瞳は、妖霧の中にあってとても澄んでいた。
「……ああ、よろしく」
その手を握り返す。握手というよりも包め込めてしまう、ミコッテの中でも一際小柄な自分よりもずっと小さな手。この手が強くエーテルを紡ぎ、味方を守り、英雄と謳われるまでの勝利を摑んだのかと思うと感じ入る物がある。
負けてられないなと、深紅の瞳も逸らすことなくしっかりと目を見て頷いた。