言の葉に紛れ込ませたようやく書類の山から解放されたアラゴルンは椅子の背にもたれかかった。明日は軍を率いてオークの残党狩りに出かけるので、その前にある程度片付けておく必要があったのだ。
そうして彼は少しだけ葡萄酒をグラスに注いでから、机の上によけておいた封筒を手にする。宛名も差出人の名前もないが、すっかり見慣れた封蝋があれば二人の間では十分であった。丁寧に封を剥がし、中には綺麗に折り畳まれた羊皮紙が数枚。それはイシリアン大公からの私的な手紙であった。うっすらと香るのは、彼がよく自室で焚いている香だ。
この勤勉な臣下は公式な文書や書類を送ってくる際に、よくこうして封筒を一つ紛れ込ませてきた。そこにあるのは公式な文書には書くほどではないが王の耳に挟んでおいた方がよい事柄、例えば街で流行っているものの話であったり、アラゴルンも顔の分かる兵士に子が産まれたりといった些細な話であった。
葡萄酒を口に含ませながらアラゴルンは読み進めていき、書き主の声と表情を思い起こした。それは彼にとって幸福で、だが物足りなさも感じる時間であった。王は孤独であった。古くからの友人たちや共に困難を乗り越えた仲間はいる。それでも、彼と寝床を共にし、朝を迎えられることがあればと望んでいた。
ファラミアの態度は出会った頃に比べればずっと柔らかいものになっていた。それはこの手紙そのものにも表れている。次第に封筒の名前も消え、口調も砕けたものになっていた。喜ばしいことだった。それでも彼は決して執政としての立場を崩そうとはしなかった。もう一歩踏み出せればとアラゴルンは思いかけたが、一度首を横に振る。己の思考を取り戻して、文字に集中した。
手紙も残りわずかになったところで彼はその口の端を少し上げた。ファラミアといつからか始めた遊びがようやく顔を出したのだ。アラゴルンがほんの思いつきで古の執政の功績を讃える伝承から取った言葉を書いたら、伝承に造詣の深い執政はその意図を正しく読み取って王の武勇伝から取った言葉を混ぜて返信してきた。時に諌めるときには愚王を詠ったものから。アラゴルンですらすぐに判別できないようなものから言葉やモチーフを取ってくるそれは二人だけの他愛もない密やかな遊びだった。
手紙の終盤には明日からの戦の無事を願う文言があった。引用されてるのはあまりに有名な英雄の歌。
「珍しいな」
子供でも知るような歌に使われる彼が何故。ゲームにもならないじゃないか。最後まで手紙を読み切ったアラゴルンはもう一度件の場所に戻って、前後を読み、そうしてあることに気付いた。
まさか、とは思うものの他に歌から取ったものが書かれていそうな箇所はない。そうであれば。
確かめないという選択肢は王にはなかった。
人知れずにんまりと笑った彼は、まずは明日の戦を早く終えることを誓った。
……
イシリアンの大公は慌てて王を迎え入れる準備をしていた。オークの残党狩りに比較的大規模な軍を率いた王は今回も危なげなく勝利を収めた。予定よりも早くその戦いを終えた王は、さながら戦闘の神が憑いたようでしたと伝令が伝えてきた言葉にファラミアは安堵の息を漏らした。彼の剣の腕を疑ったことはないが何が起きるか分からないのが戦場というもの。彼の無事を願うことしかできないだけに執政は心から安堵した。
しかし続く言葉に彼は驚いた。話したいことがあるので数名の部下を率いてイシリアンに寄るというのだ。自由気ままな王がふらりとイシリアンに訪れることは少なくない。が、戦場の後は初めてであった。
一瞬ファラミアは先日したためた手紙のことを思い出す。戦場に向かう王に間に合うためには夜のうちに急いで書き上げる必要があり、つい余計な想いを乗せてしまったのだ。
手紙のやりとりは彼にとって幸福であった。この国で長きに渡り求められていたのは武だ。古い物語に耳を傾ける大人は少なく、剣や弓の技術を磨くことが求められた。誰かと共に伝承の話をすることなどろくになかった。それを誰かと分かち合えることだけで彼にとっては喜ばしいことで、ましてや相手が王ならば。
執政は孤独であった。古くからの友人たちや共に困難を乗り越えた仲間はいる。少しずつ戦争で得た傷は癒えていく。それでも、彼はいまだに悪夢にうなされる夜がある。
もし彼と寝床を共にすれば穏やかに眠れるのだろうかと執政は思ったが、いやと首を横に振る。
今回書いたあの英雄は有名だがその恋歌は彼もミナスティリスの書庫の奥で埃をかぶった羊皮紙でしか見たことがなかった。王が気付くことはあるまい。
となると火急を要する国内の問題が発生したのか、それとも実は怪我を負っていてこっそり訪れようとしているのでは。万が一に備えて医者も手配し、自ずから王を迎え入れる部屋の支度も整えた執政は馬上の王がいつもと同じように威厳と余裕のある姿で現れたことに安心した。
「ご無事の帰還何よりです」
「すまない、急に」
王の一向が到着したのはそろそろ日も暮れる頃であった。
「何かお急ぎの件がありましたか」
「ちょっと確かめたいことがあってね」
軽々と馬から降りた王はじっとファラミアを見つめた。何かを含んだ視線に執政は首を傾げた。
「なんでしょう」
「それほど急ぎというわけでもないので兵士たちと先に食事を摂らせてもらってもいいかな」
勿論です、と頷いた彼は兵士たち含めて広間に案内した。落ち着いたら呼ぶ、という王の言葉に執政は一度執務室に戻った。執政の元に王の使いがやってきたのはすっかり夜になってからだ。戦の後の兵士たちを将が労い、身体を休める。その重要性をこの執政はよく理解していた。
「少しは休まれましたか」
「あぁ」
イシリアンで使う王の部屋は簡素だ。そう頻繁に訪れるわけでもないし、と言って簡単な執務用の机と誰かが訪れる時に話せるような長机とカウチ、そして奥の寝室に繋がる扉があるくらいだ。
ファラミアが部屋に入るとアラゴルンは武装もすっかり解いて窓枠に腰かけて上はチュニックのみでパイプをくゆらせていた。落ち着いた赤は彼によく似合う。
「それで確かめたいこととは、なんでしょう。何か内密な相談事がありましたか」
急ぎでないのであれば書簡でも何でも送れば良い。それが叶わないとなれば、直接話すべき事項、例えば裏切り者が紛れている等だろう。念のためファラミアは最近の重要な書簡をひっくり返したり城内で働く者の身上を再確認したが不審な点は見られなかった。
アラゴルンはパイプの火を消しながら、深刻な顔をしてやってきた執政の顔をよく見た。今日は月も細く、部屋の中は蝋燭が何本か灯っているのみだ。それでもこの野伏だった男たちには十分な明るさだ。概ね自分の来訪理由を真剣に考え、調べていたのだろう。国のために自分を捧げるその様子は彼の美徳だ。と同時に欠点だ。
今から自分が告げることに彼の仮面はどこまで剥がれるだろうか。アラゴルンは執政に気付かれないように小さく笑った。
「そうだな、内密でもあるし憂いごとでもある」
畏まりました、とファラミアは一度外の扉へ歩いて行き待機していた兵士を下がらせた。
「人払いは済ませました。私も念のため城内で働くものを確認しましたが不審な点は見当たらず、あとは兵士の方はまだ済ませておりませんが、誰か内通者でもおりましたか」
内通者?と聞き返したアラゴルンは真剣にこちらを見つめるその視線を見つめ返したのちに、ははっと笑った。
「王?」
「いや、そうじゃないよ、内通者などいない」
「では?」
困惑するファラミアにアラゴルンは笑みを深くした。どこまでも真面目な執政は、可愛らしい。
「手紙さ」
てがみ?とファラミアは目を見開いてその言葉を繰り返し、そして飲み込んだ途端に安堵と緊張、動揺が一瞬だけ見え隠れして、またいつもの穏やかな笑顔に戻った。それをじっと見ていたアラゴルンだが、いつもの仮面を瞬時に被ったことを内心お見事と手を叩きたくなる。それを堪えてアラゴルンはゆっくりと部屋の中を歩き始めた。その動きをファラミアの視線が追ってくるのを感じる。
「今回はずいぶん簡単だったじゃないか。英雄ベリアールだろう」
「急いで書いたもので失礼しました。簡単でしたね」
二人の間で答え合わせを口にするのは初めてだった。揶揄するような軽い口調なのにファラミアはゆっくりと剣を向けられている錯覚に陥った。いや、思い過ごしだ、と平常心を装う。感情を切り捨てることは彼にとっては慣れたことのはずで、でもそれがこの場ではやたらと困難であった。
「次回はもう少し楽しんで頂けるものを考えておきます」
ファラミアは軽く頭を下げた。
「お話はそれだけでしょうか。そうであればまだ仕事が残っているので」
「青い衣」
その一言と射抜くような王の視線でファラミアはぴたりと口を閉ざした。
「ベリアールは英雄譚が確かに有名だが、私の記憶が正しければ身分違いの娘と密かに恋に落ちた話もあったはずだ。その娘が想いを告げるために青い衣の贈り物をした」
ひゅうとファラミアは息を飲んだ。まさか知っているとは。今すぐ自室に戻りたかったが目を逸らすことは許されなかった。
アラゴルンの言葉は続く。低く優しく、普段は心地よいとすら感じる声が今は彼に絶望を与える。
「娘は英雄の無事を祈りその通りになるが彼女自身は魔物に襲われ、命を落とす」
アラゴルンはじっと目を見開いたままのファラミアを見つめた。夜目にも分かるほど色を無くした彼の瞳が少しずつ闇に染まっていく。
「次の儀式のために青く染めた衣を用意したと手紙にあったな、ファラミア。これは私の思い過ごしかな」
いつのまにか王はファラミアの目の前にいて、瞳を覗き込まれた。喉元に剣を突きつけられている気さえした。背中を冷や汗が伝う。
偽証も煙に巻くことも許されないし、ファラミアの信条にそぐわなかった。彼は覚悟を決めた。
「申し訳ございません」
ファラミアはその視線を振り切って、膝をついてこうべを垂れた。
「いま、王の仰る通り。私は執政としてあるまじき感情を貴方に向けました。申し開きは致しません。どうぞ不敬罪で死罪にでも国外追放にでも処してください」
なるほど、とアラゴルンは部屋の蝋燭の僅かな灯りに照らされるその金髪の頭を見下ろしながら考えた。まさかこう来るとは。頭を下げる直前に見えたその潤んだ瞳は絶望に満ちていた。
本当に彼は執政であり続ける。こちらの気も知らずに。
「ならば私も王としてあるまじき感情を執政に向けているな」
アラゴルンはそう言いながら僅かに屈んで、頭を下げたままの男の頬に手を伸ばした。指先で触れると、弾かれたように彼の身体が跳ねた。そのまますいと撫でた指は明らかな意図を含んでいた。
「それは……」
上げられた顔は困惑に満ちていた。
「この手紙の意図に気付いた時、私がどれほど心弾ませたと?」
見上げる緑の瞳が揺れた。
「こうして話をしたくて、私が戦を早く終わらせたことをファラミア、君は思いもよらなかったろう」
アラゴルンはファラミアを立ちあがらせた。そして、一歩近付いた。かつんと鳴る足音がやたら大きく聞こえた。
「王……」
ファラミアは混乱していた。先程とは打って変わって、アラゴルンが見つめてくる視線は楽しげだ。それに応えようとする自分が腹の奥のどこかにいて、それと同時に抑えつける自分がいた。
「なんだ」
「か、揶揄うのは、やめてください」
ファラミアは自分の声が焦りで掠れているのに気付いた。こんな風に焦るなどいつ以来だろう。対処法がまるで分からなかった。
「私を惑わさないでください」
「私の心を疑うのか?」
執政が一歩下がれば王は一歩詰めた。二人はそれを繰り返す。執政は王が偽証していないことくらい、己の血の力を使わずとも分かっていた。
「ですが、貴方は王、私は執政です」
「そうだ。だがその前に私は一人の男だ」
執政は自分の背中が壁についたのを知った。
「一人の、孤独な男だ」
今度は頬に手を添えられて、至近距離から覗き込まれた。その視線には先程にはなかった熱が込められているのに王の手は冷たく感じて、この人でも緊張しているのかと初めて気付いた。それを振り払うことなど到底できず、ファラミアは息を飲んだ。
「王……」
「君を愛する一人の男だ」
「おやめ……くだ、さい」
「ファラミア、お前はどうだ」
ファラミアは耐えきれず目を逸らした。己の名を呼ぶ王の声はあまりに心地よい。
「名を呼んでくれないか、ファラミア」
催促するようにファラミアの唇をアラゴルンの親指がそっと撫でた。もう、抗う術はなくファラミアは前を見た。灰青の瞳に引き寄せられた。
「アラ、ゴ……ルン」
初めて視線を合わせながら名を呼んだ。口にする日が来るとは思っていなかった。その名を発することの喜びがじわじわと広がっていく。
「アラゴルン……」
半ば呆然としながら呟かれた言葉に、アラゴルンは楽しそうに笑った。
「なんだ」
ファラミアが再び発そうとした名は途中で飲み込まれた。一度離れた唇はすぐに再び重なり、角度を変えて何度も重なるうちにファラミアのローブの下にも両手が滑り込み、その腰と背中に回りこんだ。アラゴルンの背中に手を回したファラミアは薄い布ごしに伝わるその引き締まった肉体に一瞬だけ怯んだが、ちょうど入り込んできた舌の甘美さに目眩がして、服を掴んだ。無遠慮に絡まる舌が容赦なく執政の楔をゆるめていく。
一度唇を離した時、二人の息は上がっていた。その隠そうとしない熱のこもった視線に見つめられて、同じ視線で自分も灰青の瞳を覗き込んでいるのだろうとファラミアは思った。
「愛しているよ、ファラミア」
「えぇ、私もです、アラゴルン」
余計なことは考えるなというように再び降りてきた口づけに応えるためにファラミアは目を閉じた。
……
目覚めたファラミアは、部屋の中が明るくなりつつあるのを認識した。こんな穏やかな目覚めはいつ以来だろうと思いかけたが、そこが自室の寝床でないことに気づくと一気に覚醒した。蘇ってきた記憶とそれの証拠とばかりに横に眠る男の姿に幸せを感じ、それと同時に口の中で呻いた。昨晩は寝室になだれ込んで散々愛をぶつけ合ったのち、辛うじてそのあたりに転がっていた衣を羽織ってそのまま眠り落ちたのだった。ひとまず自室に戻ろうと音を立てないように動いたが、野伏だった彼が気付かないはずもない。
後ろから巻き付いてきた腕はそのまま彼を寝床に引きづり込み、アラゴルンに後ろから抱きかかえるような体勢となった。
「起きていらしたのですか」
「いや、寝てたよ」
首元で話さないでほしい、とファラミアは思ったがその唇の端が上がっていることに彼自身は気付いていない。いつもより掠れたような、ゆったりとしたその吐息混じりの声は昨晩を思い起こさせる。ファラミアは目を閉じて余計なことを考えないようにした。
「皆が起きないうちに戻ります、王よ」
王、と口にした途端にファラミアは更に引っ張られて仰向けにされた。寝ていたはずの王が軽々とのしかかってきた。
「アラゴルン」
その寂しげになった目を近距離から見てファラミアは訂正した。
「……後悔しているか」
この人は自分よりもずっと年上なのにどうしてこんなに澄んだ目をするのだろう、とファラミアは思うことがある。自分を見下ろす目をしかと見つめ返した。
「久々に穏やかな夢を見ました。目覚めて貴方を見て幸福を感じました。後悔など」
そうか、と目元が柔んだアラゴルンは静かにキスを落とした。
「同じ質問を問うてもいいですか」
ファラミアの手が伸ばされて、アラゴルンのその目尻を撫でた。彼は年齢よりもよほど若く見えるが、その叡智を刻んだ年月を感じさせる皺がファラミアは好きだった。これまでに何度その視線に密かに震えていたことか。
その撫でる手をアラゴルンは自分の手で包み込んだ。
「同じ答えをしよう、執政殿」
「……貴方は意地悪な人だ」
ファラミアが顔をしかめるとアラゴルンは屈託なく笑った。
「知らなかったかい」
「いいえ、知ってますよ、アラゴルン」
二人は顔を見合わせてくすくすと笑った。
「ファラミア」
二人は向かい合うようにして寝転んだ。なんです?とファラミアは目で問うた。
「昨日の言葉を一つ訂正しよう」
「何をでしょう」
アラゴルンはファラミアに手を伸ばしてその柔らかな髪に触れた。
「あの手紙の意図に気付いた時、喜んだと言った。でも一つだけ悲しかったことがある」
髪を指に巻き付けては解く。
「私の知らぬところで命を落とすことは許さないよ」
英雄を見送った娘は一人、命を落とした。ファラミアがアラゴルンを見送ることもあったし、またその逆もあった。
勿論、とファラミアは頷いた。
「次は幸せな恋人たちの歌を探しましょう」
そうしてアラゴルンの手に自分の指を絡めた。満足気に笑んだアラゴルンは目を閉じた。
「もう少し寝るか」
普段ファラミアはこの時間に目が覚めればそのまま起き上がって調べ物か何かを始める。でも。
「えぇ」
ファラミアは今日はそれを放棄した。
そして二人は目を閉じる。
穏やかな夢の中へ、二人で。