雪の熱闇の森の中にある城に呼ばれたバルドが王の部屋に招かれるのももう何度目かだ。
一度スランドゥイルと同じものを飲んでみたら酷い目にあったのでそれぞれの葡萄酒が用意されるようになった。昼間に領主として彼と対峙するのは幾分慣れてきた。だが、こうして部屋に招かれたときはまた別だ。額の冠を外したスランドゥイルを見るとバルドは仄暗い優越感を抱くのと同時に緊張に包まれる。
彼は自分がスランドゥイルに気に入られていることは流石に分かっていたが、あくまで人間の中ではというレベルなのかそれ以上なのか、彼の真意を図りかねていた。比較対象などいないしそもそもエルフの感覚は理解し難いことが多い。彼らの長い命から見れば自分の存在などほんの一瞬に過ぎないのだ。
それでもバルドは部屋の主が勧めたように窓際に立って夜空を眺めていた。自分の酔いが回っていることは分かっていた。その原因は手にしている葡萄酒だけではないことにも。
「ここに来ると、街にいる時とはまた違う星の瞬きに包まれる」
「エルフにとって星の光は特別だ」
ゆらりと隣にやってきたスランドゥイルを見上げたバルドはそのプラチナブロンドの髪が輝く様子に目を奪われた。彼自身それに気付いておらず、スランドゥイルが視線を合わせて首を傾げたことでバルドはようやく我に返った。さっと顔が赤らんだことを自覚して目を逸らす。
「すまない、酒に酔ったようで今日はもう失礼します」
バルドは慌てて顔を背けて部屋の中に戻った。手にしていた杯を台の上に置き、自室に戻ろうと扉へ向かおうとした。
だがそれより早くにスランドゥイルはバルドの腕を捕らえた。音もなく忍びよったはずなのに、流石というべきかバルドは直前でスランドゥイルの気配を察知して振り返った。結果的に向き合う形でバルドはエルフの王の腕の中に収まった。
もちろんそんなことは初めてで、バルドは身体を硬直させた。一方のスランドゥイルは優雅に構えたままだ。
「生娘でもあるまい、この部屋に呼んだ訳など分かっているであろう」
一瞬呆気に取られてからバルドはカッと顔を赤らめた。だが口を開くより早く、スランドゥイルが低い声で言葉を続けた。
「バルド、お前は私を拒否するのか」
顔が近付いてきて、バルドは咄嗟にその顎を手のひらで押さえた。慌て過ぎて不敬になることすら気が回っていなかった。
「酔っておられるのですか?!」
「私も酔っていることにしたほうが良いか?」
「陛下っ」
「私はお主の君主ではない、デイルの王」
ただ名を呼んでくれ、とエルフの王は言う。
人間はそれには応えず目を閉じて顔を背けた。自分が見惚れていたことなど弁明の余地もないが、だからといってこのままエルフの王を受け入れる勇気はバルドにはなかった。
「人の命は短いのです、お戯れで私を苦しませるのはどうか勘弁を」
「戯れで私が人間を相手にすると?酷い侮辱だな」
ひやりとした怒りを感じてバルドは幾分慌てた。
「そのような意味ではっ……」
「それでは私には愛がないと?それとも苦痛を感じないとでも?」
バルドは顔を上げて、まじまじとその透き通った目を覗き込む。
「貴方が、苦しむ?」
「お前が今ここから逃げ出そうと、そうでなかろうと私はいずれにせよ苦しむ。お前は私を置いていくのだからな。人間とエルフ。逃れられぬ運命だ。どうせならば喜びを感じたいがな」
スランドゥイルの声には揺らぎがなかった。
呆然としている人間にエルフは言葉を続けた。
「私はお前を好いている、バルド」
いつの間にかバルドの手は垂れ下がっていた。彼に太刀打ちできるはずがないのだ、と知らず知らずのうちに入っていた肩の力が抜けていく。
頬に手をやられてももう顔を背けることは出来なかった。
茶化すかのような声でスランドゥイルは問うた。
「逃げるならば今が最後だぞ」
「いえ、逃げません」
視線を上げて「スランドゥイル」と名を囁くと氷のようなと評したくなる瞳が揺らいだ。冬の湖の寒さを思い出したバルドは次の瞬間には何も見えなくなっていた。
反射的に目を閉じ、唇に当てられたものはひんやりとしていた。だが反して差し入れられた舌は熱くて、ワインの味がする。元々強い酒なのに、それ以上の芳醇な香りを一気に感じてバルドは軽い眩暈を覚えた。後ろに一歩下がったが、二歩目は腰に回された腕が許してくれなかった。
己の衣類の中では一番まともなものを着用してきたのにいざそれに手をかけられるとバルドは狼狽えた。王に即位したとはいえ、その服装は肌触りの良い布などではなく皮や毛皮をなめしたものだし、何年か前に誂えたものだ。エルフの王が触れるようなものではない。かたやスランドゥイルのそれは美しく細かな模様の入った輝く布。バルドにはどう作られたのかさえ想像がつかない。自分が触れていいものか躊躇しているうちに、スランドゥイルは遠慮なくバルドの服をするすると剥いでいく。
ひんやりとした指に直接腹を撫でられてびくりと震えた。
「私だけこのままでいろと?」
揶揄うような声に誘われてバルドはようやく宙を彷徨わせていた手を、上にいる男の上着に伸ばした。釦と紐を解けば音もなく衣服が床に落ちる。あんなに綺麗なものを床に落とすなんて、どこかに掛けた方が良いのでは、と思ったバルドの思考と吐息はすぐにスランドゥイルに飲み込まれた。
「余計なことを考えるでない」
現れた肢体はろくに傷もなく、しなやかささえ感じさせた。この身体のどこにあの太刀を振るう力があるのだろう。
「気が乗らぬか」
恐ろしいほど良い肌触りの寝台に転がされたバルドの息はとっくに上がっていたがスランドゥイルはそうではなかった。責めるよう視線と不機嫌そうな声の原因をバルドは分かっていた。指先は日に焼けて、皮膚も長年の重労働で分厚く、傷も多い。その指で真っ白なエルフの肌に許しなく触れることをバルドは躊躇ったのだ。
だが、彼を不機嫌にするのは不本意だし、目の前の男に触れたいと言う欲があるのも事実だった。思い切ってバルドは口を開いた。
「触れても……?」
スランドゥイルの目元が和らいだ。
「おかしなことを問う。好きにせい」
許しを得てからもバルドは遠慮がちに静かにその首筋に触れた。雪のように白いのに、温かみのある肌だった。己と同じように。その温度を確かめるためにゆっくりと指を滑らせていき、やがてたどり着いた胸にようやく手のひらを当てた。
「随分と焦らしてくれる」
は?と聞き返そうとしてバルドは己の行動を振り返って、かっと頬を赤らめた。そんなつもりはなかったが、これはしっかりと愛撫じゃないか。
「遠慮するな。私もそうするつもりはない」
スランドゥイルはひどく楽しそうで、自分がとんでもない男を相手にしてしまったことにバルドが気付くには遅過ぎた。
……
目が覚めたバルドは肌に当たっている布が身に覚えのないほど上質なせいで己の居場所を把握できなかった。まだ周囲は暗く、夢でも見てるのかと思ったところで後ろから「起きたか」とよく知る声で声をかけられてギョッとして振り返る。
「なんだその顔は。覚えてないのか」
「……覚えているさ」
それは恐ろしいほどに。鮮明に蘇ってきた記憶の気恥ずかしさのあまりバルドは枕に顔を突っ伏した。
「何をしておる」
「ちょっと放っておいてくれ……」
くっとスランドゥイルの笑い声が聞こえて、バルドはちらりとそちらを見た。スランドゥイルは薄くて柔らかそうな衣を羽織り、バルドの方に身体を向けて寝転んでいる。寛いでいるのに優雅だ。彼は心底楽しそうにしていて、その表情から目を離したくない自分にバルドは気付かないふりをした。
「お前だって子がおろう」
「おりますが……妻以外を知らないんだ」
口にしてからバルドは再び顔を伏せた。
あまりにも知らないことだらけだったのだ。バルドは耳までも真っ赤に染まっている。
今更何を、とスランドゥイルは笑みを深くした。
「龍を射た者が何を恥ずのだ」
「……人間にしては俺はもう若いとは言えない」
「信じられないことにそうらしいな」
「それをあんなふうに……」
エルフの詩のような言葉で散々綺麗だの可愛いだのと美辞麗句を並べ立てられ、嫌というほど丁寧に扱われた。時折スランドゥイルの口からエルフ語が飛び出ていたが何と言っていたのかは恐ろしくて尋ねられない。
「あんなふうに、なんだ」
口籠ったバルドの髪にスランドゥイルは手を伸ばした。見ていなかったバルドは突然の感覚にぴくりと震えたが拒否はしなかった。
波打つ黒髪をスランドゥイルは優しく撫で、指に巻きつけては解く。何度かそうしているとバルドが片目だけ覗かせた。
「……エルフは寝ないんじゃなかったのか」
「眠りは必要としないが、寝床を共にする幸福は知っておる」
先程の問いには答えずにバルドが聞けばスランドゥイルはさらりと答えた。
またあなたはそういうことを……とバルドは小声で零す。相手に聞こえていることは充分に承知している。
「何を躊躇する。次がいつになるかは分からぬし、お前の命は短い」
二人とも自由になる時間は僅かだ。
二人の視線が静かに絡んだ。
バルドはようやく身体ごとスランドゥイルの方を向いた。二人は向かい合う形になる。
「俺は貴方のように優雅でもないし、口も決して上手くないから同じように囁くことはできない」
今度はバルドがまだ遠慮しがちではあるがスランドゥイルに手を伸ばした。その長い髪に触れて、一束持ち上げた。
さらさらと音さえしそうな髪を手の中で弄ぶ。
「それでも」
バルドは痛いほどの視線を感じていたが到底目を上げる勇気はなかった。
「短い命だけれど、貴方を愛するよ」
輝く金に口付けを落とし、ようやくスランドゥイルを見ると呆けたような顔をしていた。
「スランドゥイル?」
流石に不敬だったかとバルドが恐る恐る問えば、呼ばれた方がガバリと起き上がった。何事かとバルドが聞く間も無くスランドゥイルは人間にのしかかる。慌てたバルドが起き上がるには遅かった。
「ちょっと待て、どうした」
「まだ夜だ。問題はなかろう」
「いや、そういう問題では」
スランドゥイルはさっさと己の衣は脱ぎ捨て、バルドにかけられたブランケットを剥ぎ取ろうとする。バルドは慌ててその腕を掴んだ。エルフの意図は明らかだ。
「……嫌か」
顔を覗き込んでくるスランドゥイルの髪が一房落ちて、バルドの顔にかかった。
日頃の余裕はどこへと聞きたくなるような、震える声と目をされればバルドに拒否などできるはずがない。バルドは苦笑しながらその髪をすくって再び唇を落とすことで答える。
そして、続いて重ねられる唇を受け止めるためにそっと目を閉じた。