数々の試練を乗り越えた王子様が伝説の教会でお姫様と愛を誓い合う。
学生の頃に憧れていた噂話は、時が流れるにつれてセピア色に色褪せていった。
王子様もお姫様も所詮はお伽噺の世界の絵空事。
誰かのお姫様になりたいと願っていた十代の私をあの教会へと置き去りにして、時は移ろい続けてゆく。
◆
無数のビルの間から降り注ぐ陽の光が睡眠不足の身体に刺さり、私は思わず目を眇めた。
連日の残業で疲弊した心身はこんな爽やかな朝陽でさえ鬱陶しく思えてしまう。
本日は朝から会議に出席して、それが終わればクライアントとの顔合わせ。午後からは職場に山積みにされた仕事を片付けなければ。きっと今夜も夜更けに帰宅するハメになるんだろう。
考えただけで辟易した気分が押し寄せて、私は深く溜め息を溢しながら寄せては返す通勤ラッシュの人波に紛れた。
ヒールの踵を打ち鳴らしながら街路を歩いていると、数人の女子高生がビルに掲げられた電子看板を指差して楽しそうにはしゃいでいる姿が目に飛び込んだ。
何とは無しに彼女達の視線を辿ると、思わず足がピタリと止まる。
巨大な液晶画面に映る、美しい男の人。
しなやかな手で前髪をかき上げ、翡翠色の流し目を此方へと送る。髪から手を離し、滑らせるように伸ばした先には蠱惑的な笑みを浮かべた美しい女の人。
彼女の腰を抱き寄せて、キスをするように顔を寄せると、ルージュを握った彼女の白くて細い手が彼の唇へと滑った。
形のいい彼の薄い唇が赤いルージュに色付いて、見ている此方の背筋が震えるくらいの壮絶な色気が放たれる。
液晶画面に流れるメンズ用ルージュの広告で主演を張るその人は、大人気モデルのNana、もとい旧友の七ツ森実だった。
「やっぱりカッコいいねNana」
「ね〜!大人の色気ダダ漏れって感じ!」
「雑誌もテレビもたまにしか出てくれないんだよね。もっとメディア露出してくれればいいのに!」
「何か本業があるみたいなことを雑誌のインタビューで言ってた気がするよ」
「え〜本業って何?」
口々に発せられる女子高生達の声が頭の中にぐわんと響く。
卒業後、彼はウェブや映像のクリエイターを目指し専門学校へと入学した。
本業というのはクリエイターの仕事のことだろうか。
私と同じ二十五歳の彼は、自分の夢を掴み取り、華やかな世界で活躍している。
「……やっぱり凄いな、七ツ森くんは」
そう小さくひとりごちて、私は再び街路を歩き出した。
学生の頃は臆面もなく呼べていた彼の名前は、今や胸の中でさえ呼べなくなっていた。
卒業式以来、彼とは何度かメッセージのやり取りをしたものの、いつしか連絡が途絶え、気が付けば疎遠になっていた。
学生時代の友人関係は社会に出ればいずれ薄れていくものだというけれど、私は未だにこうして彼のことを思い出してしまう。
高校生の頃、私は七ツ森くんのことが好きだった。
モデルとして活躍しながらも、私と一緒にいる彼はどこまでも等身大の高校生だった。
学校で何気ない世間話に興じる彼も、デートの時に見せた楽しそうな笑顔も、帰り道に繋いだ大きくて温かい手の感触も、アルバイト先で応援してくれた時に見せたちょっと照れたような顔も。その全部が彼を純粋な高校生の男の子たらしめていて、私はそんなキラキラとした眩しい姿が大好きだった。
なのに、こんなに大好きだったのに、臆病な私は結局彼に想いを伝える事が出来ずに卒業式を迎えてしまった。
最後の悪あがきに学園の噂を頼りに教会へと赴いてみたけれど、結局扉は開かず仕舞い。
そうしてあの日の未練を教会へと置き去りにしたまま今日まで来てしまっている。
不意に、先程見上げた七ツ森くんの姿が脳裏に蘇った。
美しい女性を引き寄せてキスをするように顔を傾ける仕草。
もしかしたら、今の彼の隣にはそういう女性が存在しているのかもしれない。
そんな事を考えた瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。
……嫉妬なんて馬鹿みたい。今更私がそんな感情に苛まれる資格なんてないのに。
私はひとつ自嘲を溢し、会社へと足を急がせた。
◆
一日の業務を終わらせ、電車から降りる頃にはすっかり夜の帳が下りていた。
時刻は二十二時を過ぎた頃。今夜は思ったよりも早く帰宅できそうだ。
駅の改札を抜け、外灯が照らす夜道へと足を踏み出した。そんな折の事。
前方から此方へと向ってくる男性の姿が目に飛び込んだ。
推定三十代くらいのその人は、酔っているのか千鳥足でゆらゆらと歩きながら赤ら顔で私を見つめてニヤリと唇を歪めた。
スーツ姿から察するに、飲み会帰りのどこかのサラリーマンだろうか。
少々気味の悪いその姿にぞわりと鳥肌が立つ。
何だか嫌だなぁと思いながら私は足早にその人の傍らを通り過ぎた。
しかし、案の定男性は私に向って声を掛けてきた。
「ねえ、お姉さんどこ行くの」
「…………」
「無視しないでよ〜、暇ならこれから飲み行こうよ」
無反応の私に臆する事もなく、男性は私に話し掛け続ける。
「俺いい店知ってるからさ、ほら行こうって」
やがて馴れ馴れしく此方へと手を伸ばし、私の腕を掴もうとしてきた。
……やだ、早く逃げないと。
反射的に肩を竦め、駆け出そうと地面をヒールの踵で踏み締めた。
その刹那の事。
「俺の彼女に馴れ馴れしく話し掛けないでもらえますかね」
突如響いた低い声に思考回路がピタリと停止する。
聞き覚えのある懐かしい低音。
勢いよく顔を上げると、厚い黒縁眼鏡を掛けた背の高い男の人……今朝、街の電子看板で見上げたばかりの七ツ森くんが立っていた。
ヒュッと喉から空気が漏れて、身体が磔にされたように動けなくなる。
……どうして、どうして彼が此方に。
「あ?何だお前、この子は今から俺と……」
「俺と何?人の彼女連れ込んで何する気だったのあんた。……俺が手ぇ上げる前にさっさと失せろ」
185センチの長身で見下ろして、身が縮むような低い声で凄む彼の迫力に男性はビクリと肩を揺らした。
「ち、ちょっとからかっただけだっつーの!本気になってんじゃねえよバーカ!」
そうして怖じ気付いたように踵を返すと、捨て台詞を残して走り去っていった。
七ツ森くんは暫くその後ろ姿を睨み付けた後、呆気にとられる私を振り返って笑ってみせた。
「ゴメン、勝手に彼女なんて言って。そうでもしないとああいう面倒な輩は追い払えないからさ」
まるで七年の歳月なんて感じさせないような雰囲気に、強張った身体から力が抜けていく。
今更ながら彼の言った俺の彼女という言葉が頭の中でループして、全身にぶわりと熱が灯った。
……勘違いしちゃダメ。彼の言葉に他意なんてないんだから。
「う、ううん、ありがとう助けてくれて。でもどうして此処に?」
「ああ、この辺で仕事の打ち上げがあったんだよ。で、その帰り道に偶然絡まれてるあんたを見つけて思わず駆け付けたってワケ」
そう言った彼の頬はアルコールの為かほんのりと赤く染まっていた。
柔らかく微笑む表情はあの頃と変らないけれど、学生の頃よりも精悍になった顔立ちも、少し短くなった髪も、そして彼の纏う空気も何もかもが大人びていて否が応でも二十五歳という年齢を感じてしまう。
もう十八歳の彼は此処にはいないんだと、そんな当たり前の事を思いながら私はひとり感傷を胸に抱いた。
「そうなんだ……久しぶりだね、七ツ森くん」
ポツリと呟くと、彼は一瞬目を見開いた後、静かに顔を伏せた。
「ああ、久しぶりだな小波」
私を呼ぶ彼の声にズキリと胸が痛む。
七ツ森くんも私も、もうお互いを名前で呼び合う関係ではなくなったのだ。
そんな事実が胸に迫り、私はギュッと拳を握り締めた。
「……まあ、いつまでも此処にいるのもなんだしさ、ちょっと場所変えない?久しぶりにあんたと話したいし」
だが、寂しさに打ちひしがれる私を救い出すように差し出された提案に私はパッと顔を上げた。
此方を見つめる優しいはにかみ笑顔が視界へと飛び込み胸がトクリと拍動する。
ああ、私は未だ現金なくらいに七ツ森くんのことが好きなんだ。
全身をじくりと蝕むような恋情に飲み込まれながら私は大きく頷いた。
◆
夜半前のファミリーレストランは未だ多くのお客さんで賑わっている。
楽しそうに会話をする女性客に若いカップル、仕事終わりのサラリーマン。
そんな顔ぶれの中に溶け込むように七ツ森くんと私は向かい合って席に着いた。
「ん〜、期間限定のストロベリーパンケーキはやっぱ鉄板でしょ。あんたは何か食べる?」
メニューを眺めながら尋ねる七ツ森くんに一瞬現在の時刻が脳裏を掠めたけれど、すぐに仕事終わりの疲労と久しぶりに彼に会えた喜びに上書きされて私はメニューのデザートコーナーに視線を落とした。
夜半に食べるスイーツの罪深さも、今夜くらいはきっと許される。
そう自分に言い訳をしてイチゴフェアのメニュー欄を吟味した。
七ツ森くんはストロベリーパンケーキ、私はストロベリーパフェをそれぞれ店員さんにオーダーし、ドリンクバーの珈琲を手にして私達は漸く腰を落ち着けた。
「今朝ね、駅前のビルの液晶画面で七ツ森くんのCM見たよ。相変わらずカッコよくて、しかもすっごく色っぽかったからドキドキしちゃった」
早速今朝見たばかりのCMの感想を告げると、彼は面食らったように目を瞬かせた。
「ああ、あのメンズ用ルージュのCMか。久しぶりの映像の仕事だったからちょっと緊張してたんだけど、あんたにそう言ってもらえんなら安心した」
「ええっ?久しぶりだなんて思えないくらい様になってたよ」
「サンキュ。あのCMさ、映像作りから携わらせてもらってんの。俺の勤め先と取引してる広告代理店がメンズ用コスメの宣伝プロジェクト立ち上げててさ、その一環でモデルと映像制作の両方で関わってみないかって声掛けてくれたんだ」
彼は楽しそうに目を細めて滔々と語り始めた。
件のCMの仕事の事。現在は映像制作会社に身を置いてプロモーションビデオやウェブ広告の映像制作に携わっている事。モデルの仕事は副業として依頼された中から時々選んで請けている事。
自分の仕事について語る彼の姿は活き活きとしていて眩しくて、今の生活が充実している事が窺える。
「あんたはこんな時間まで仕事?疲れた顔しるけど」
不意に彼の指が私の目元を差して、反射的に肩を揺らしてしまった。
どうしよう。今絶対ひどい顔してるよね。
コンシーラーで隠した目の下の隈を思い出して頭を抱えたい気分になってくる。
せっかく七ツ森くんが目の前にいるのに……!
「うん、最近ちょっと仕事が立て込んでて。……恥ずかしいな、こんな草臥れた顔見せちゃって」
思わず手で顔を覆うと、彼は口角を上げて笑ってみせた。
「恥ずかしがるコトないでしょ。キレイになったなあんた」
穏やかな優しい声に、己の顔にぶわりと熱が灯るのを感じた。
高校生の頃から変らない甘い褒め言葉に心拍が加速していく。
私は誤魔化すように俯いて珈琲を啜った。
「あ〜……あんたさ、今彼氏とかいるの?」
だが、唐突にそんな事を尋ねられて私は顔を跳ね上げた。
「えっ?」
「えっ?あっ、いや、別に深い意味とかはなくて単純な興味というか」
吃驚したように目を丸くする七ツ森くんに、私はマグカップを握る手に力を籠めた。
……何だ。他意はないみたい。
今まで何度か好意を寄せてくれる人や、いい雰囲気になる人は現れたけれど、結局は上手くいかずに全て御破算になってしまっていた。
その度に思い知らされるのだ。
私の本当に好きな人は目の前の彼ひとりだけなのだと。
「……いないよ彼氏なんて」
そう小さく答えると、七ツ森くんは「そっか」と呟いて珈琲をひと口嚥下した。
七ツ森くんはどうなんだろう。
彼には今大事な女性はいるんだろうか。
今朝見上げたCMの、彼に寄り添う女性の姿を思い出し、胸がギュッと締め付けられる。
「七ツ森くんはどうなの?」なんて簡単な言葉を絞り出せずに口を噤む私の様子を知ってか知らずか彼はあっけらかんと口を開いた。
「俺も今フリーなんだよね」
瞬間、胸の中にふわりと安堵が浮上した。
……七ツ森くん、彼女いないんだ。
だからといってどうなるという訳でもないけれど、
込み上げてくるあからさまな歓喜に唇が緩みそうになってしまう。
我ながらどこまでも現金すぎて呆れてしまった。
「……そっか」
「うん」
そんな短い応酬の後、互いの間にどこか気恥ずかしい沈黙が訪れた。
私は少々居た堪れない気分に陥りながら、マグカップを持ち上げ再び珈琲を啜る。
「お待たせいたしました。ストロベリーパンケーキとストロベリーパフェでございます」
そんな折、沈黙を破るように店員さんがスイーツを手に席へと現れた。
彼の前にパンケーキ、私の前にパフェを置いて「ごゆっくりどうぞ」と言って去っていく。
私は早速スプーンを手に取って、目の前のパフェへと視線を落とした。
純白のホイップクリームにかかる鮮やかなストロベリーソースに、縁に添えられたイチゴ達。
グラスの中にはストロベリーアイスとバニラアイスが層になって重なっている。
見目鮮やかなその姿に自然と頬が緩んでしまう。
「いただきます!」
そう言って私はソースのたっぷりかかったクリームをスプーンで掬って口に運んだ。
途端に舌の上へと広がったクリームの柔らかな甘みと甘酸っぱいストロベリーソースに仕事の疲労が解れていくような気がした。
「はは、相変わらず美味そうに食べるね」
前方から聞こえた笑い声に視線を移すと、七ツ森くんが楽しそうな笑みを浮かべて此方を見つめている。
「だってこの時間に食べるパフェは美味しすぎて幸せになっちゃうよ」
「確かに背徳感あって余計に美味く感じるよな」
そう言って彼もナイフとフォークを手に取ってパンケーキを切り始めた。
そういえば、高校生の頃もこうやって二人で喫茶店でデザートを食べたっけ。
頭の中に懐かしい記憶が蘇り、あの頃に回帰したような錯覚を覚えた。
パフェグラスが空になる頃、店内のBGMが新しい曲に切り替わった。
ゆったりとした曲調のバラードは、最近話題の恋愛映画のテーマソングだ。
テレビやラジオでよく耳にするおかげですっかり覚えてしまっている。
「この曲最近よく聴くよね」
思わずそう口にすると、彼は顔を上げて耳をそばだてた。
「ああ、映画か何かの曲だっけ」
「うん。よくテレビで宣伝してるから気になっちゃって」
「あんたこの映画観たいんだ?」
「うん。時間がある時に観に行こうかなって思ってるよ」
観に行く時間があればいいんだけど。
そんな事を考えながら答えると、七ツ森くんは口元に笑みを浮かべた。
「ならさ、観に行くか。二人で」
真正面から私を捉えて放たれた言葉に一瞬頭の中が白くなった。
映画?七ツ森くんが私と?
高校生の頃は二人でよく映画館に行ったけれど、明確に恋心を燻ぶらせている今こんな誘いを受けてしまったら否が応でも期待してしまう。
そんな、ソワソワと浮つく私に彼は決定打を突き付けた。
「勿論デートのつもりだから」
しっかり、それはもうはっきりと告げられて全身に熱が回る。
デートという言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡り、ドキドキと心臓が早鐘を打ち鳴らした。
「ど?俺と久しぶりにデートしてくれない?」
七ツ森くんは追い撃ちをかけるようにテーブル越しにぐっと身を寄せた。
近距離に迫る眼鏡越しの翡翠の瞳。
こんなの、断れる訳がない。
コクリと大きく頷く私を見て、彼は嬉しそうに微笑んだ。
◆
その日は幸いにも業務量が落ち着いていた。
一日中ソワソワと地に足がつかないような気分になりながら、大急ぎで仕事を片付け久しぶりに定時に退社。
映画館へと向かう道すがら、路面店のショーウィンドウで自分の姿を確認する。
買ったばかりのスプリングコートに、お気に入りのワンピース。
メイクもしっかり気合を入れて、「よし」と小さく意気込んだ。
今度こそ、彼に草臥れた顔なんて見せたくない。
目的地に辿り着くと七ツ森くんは既に待っていた。
賑わう人波の中、背の高い彼はそこにいるだけで存在感がある。
「ごめんね、お待たせ!」
慌てて駆け寄ると彼は唇に笑みを浮かべた。
「別にそんなに待ってないから」
そう言って私を見下ろす姿は相変わらずカッコいい。
センスのいいジャケットとスキニージーンズに身を包んだ彼は、背にしたネオン看板も相まって、まるでオシャレな映画のポスターみたいで、絵になるとはこういう事をいうんだなと改めて実感した。
「うん、そのコーディネートいいね。カワイイじゃん。やっぱりあんたキレイになったよ」
此方をじっと見つめて、ふっ、と微笑む表情に頬が熱くなる。
学生時代ぶりに聞いたデートの前の褒め言葉に嬉しさと恥ずかしさで胸の中がいっぱいになる。
ああ、何年ぶりだろうこの感覚。
「ありがとう。……七ツ森くんもカッコいいです」
思わず俯いてそう言えば、彼はくつくつと笑い声を上げながら「サンキュ」とひと言囁いた。
「もうネットでチケット予約してあるから入ろ」
「うん、ありがとう」
彼に促されるまま入口へと足を向ける。
その刹那、パンプスの踵が地面の窪みへと引っ掛かり、ぐらりとバランスが崩れた。
「きゃっ……」
「おっと」
傾いた私の身体を彼が咄嗟に受け止める。
頬に当たる硬い胸板の感触に、ふわりと鼻腔を掠めるちょっと色っぽいバニラの香り。
温かい腕の感触と香水の匂いに頭がクラクラとして逆上せそうになってしまう。
「ご、ごめんね」
慌てて身体を離すと、彼の手が私の肩へと回り、そのまま引き寄せられた。
「全く、気を付けてくださいよ」
七ツ森くんは嘯くように囁くと、私の肩を抱きながら歩き始める。
えっ?何この状況?どういう事なの?
頭の中が混乱でパニック状態になり、顔は熱すぎて最早沸騰寸前だ。
少しでも身を寄せれば彼に心臓の高鳴りがバレてしまいそうで、私はギュッと胸の前で手を握り締めた。
肩を抱かれたまま館内へと入り、ドキドキしすぎて死んでしまいそうな気分に陥りながらチケットを購入して上映館の座席へと腰を落ち着けた。
私は大きく息を吐き出すと、売店で購入したアイスティーをひと口飲み込んだ。
ほろ苦くて冷たい紅茶が喉の奥へと滑り落ち、火照った頬が漸く冷めていく。
ちらりと横目で隣の座席を盗み見ると、端正な横顔が正面を見つめていた。
余裕そうなその顔が少し恨めしい。
こんなにも余裕なく心臓を打ち鳴らしているのは私だけなんだろうか。
もしかして七ツ森くん慣れてるのかな。
そんな考えに至ってしまい、胸の奥がどんよりと翳っていく。
……やめよう。今更そんな事を考えるのは。
こうして彼と二人で出掛けている。その事実だけでもう充分。
私は小さくかぶりを振って正面のスクリーンに視線を移した。
館内は徐々に暗闇に包まれていき、映画の幕が上がろうとしていた。
「素敵なお話だったね」
上映が終わり、私達は夜の街を二人並んで歩いていた。
「そうだな。カメラワークも凝ってたし演者の衣装もカラフルで見応えあった」
そう言って顔を綻ばせる七ツ森くんに私も何だか嬉しくなった。
物語は、シニアハイスクールに通う主人公の女の子が卒業プロムでずっと想い続けていた同級生の男の子にパートナーに選ばれる場面から始まった。
夢見心地でダンスパーティーの一夜を過ごし、そのまま結ばれると思っていた二人だけれど、主人公は地元の大学へ進学。彼は異国への留学が決まっており、卒業後は離れ離れになってしまう。
最初こそ交わしていた連絡がいつしか途絶え、二人は別々の道を歩み出し、そのまま十年の歳月が経過する。
その間、幾度か恋をしてみたけれど思い出すのは十年前のプロムで踊った彼の事ばかりで、結局どれも上手くいかずに破れるばかり。
そんな時、友人に誘われ参加したとあるパーティーで、ずっと忘れられずにいた彼と運命的に再会する。二人は十年の隙間を埋めるように情熱的な恋に溺れていく。
そんな内容だった。
華やかな映像に、場面を彩るドラマチックな音楽が益々物語を盛り上げていて、思わず胸をときめかせてしまった。
……それに。
私は隣を歩く彼をちらりと眺めた。
夜闇の中、彼の白い頬にキラキラと光るネオンライトが反射して煌めいている。
勝手な思い込みかもしれないけれど、こうして再び出会えた私達に映画の二人を重ねてしまい感情移入をしてしまった。
私もこのまま彼と恋を始められたらいいのに。
そんな事を思いながら歩いていると、不意に彼が足を止めた。
「七ツ森くん?」
見上げると、彼は感情の見えない表情で私を見つめていた。
「小波、これからもこうやって俺と会ってくれないか」
どこか重々しく開かれた口から紡がれた言葉に私の身体はその場に縫い付けられたように固まってしまう。
「七年ぶりにあんたと会って、またこのまま疎遠になったらと思うと堪えられないんだ。俺はこのままあんたとの関係を終わらせたくない」
頭の中に染み込むように彼の声が響き渡り、泣き出してしまいそうな気分が込み上げてくる。
この七年間、ずっと彼に会いたいと思い続けていた。
そうして何の巡り合せか、再びこうして相見えている。
再び七ツ森くんと疎遠になってしまうなんてもう考えたくもない。
「私もこのまま終わりになんてしたくない。また七ツ森くんとたくさん出掛けたいよ」
衝動に任せるようにそう言うと、彼は一瞬固まった後、心底嬉しそうな表情で「ありがとう」と笑ってくれた。
夜の街の真ん中で、キラキラ光るネオンに照らされながら私達はまた会う日の約束をした。
彼の頬は仄かに赤く染まっていて、私の顔もきっと目も当てられない程赤くなっているに違いない。
期待してもいいのだろうか。これが恋の始まりだと。
私達はこれ以上何も声に出せぬまま、再び街路を歩き始めた。
◆
午前の業務が終わりスマートフォンを確認すると、七ツ森くんからメッセージが入っていた。
内容は、懇意にしているモデル事務所のスタッフさんから有名ホテルのディナービュッフェの食事券を貰ったから二人で行かないかという誘いだった。
あの夜以来、私達は何度か二人で出掛けるようになった。
お互い忙しい合間を縫って食事をしたり、ショッピングをしたり。
彼と会う度に楽しい時間はあっという間に過ぎていき、次はいつ会えるんだろうと毎回心待ちにしてしまう。
こうしてまた彼と一緒にいろんな場所へ出掛けられるなんて、何だか夢みたいだった。
まるで高校生の頃に立ち帰ったような気分にウキウキと心を踊らせながら私はふたつ返事で彼の誘いにオーケーをした。
「小波さん何だか楽しそうだね」
不意に前方から声を掛けられ、顔を上げると日頃お世話になっている先輩社員が私を見つめていた。
「さては彼氏出来たでしょ」
「ええっ!?」
反射的に声を上げる私に彼女は心底面白いとばかりにニヤリと笑った。
「やっぱりね〜!前までは神も仏もないみたいな顔で働いてたのに、最近やけに嬉しそうなんだもん。なるほど、そういう事だったか」
うんうんと頷く先輩に私は慌ててかぶりを振った。
「違いますよ!彼氏とかそういうのじゃ……」
否定しようと口を開くが、飛び出した言葉は尻すぼみに小さくなっていく。
そう。七ツ森くんは私の彼氏ではない。
こうして幾度かデートを重ねているけれど、私も彼も決定的な言葉を口にしないまま、謂わば高校生の頃のようなオトモダチ関係を続けていた。
彼にとって私の存在は一体何処に位置付けられているんだろう。
手頃な遊び友達?それとも、もっと特別な存在なのだと期待してもいいんだろうか。
……私達の関係って一体何なんだろう。
突然押し黙ってしまった私を肯定と受け取ったらしい先輩は、からかうように「この幸せ者め」と笑っていた。
このまま何も言えずに臆病風に吹かれて続けていたら、いつかまたこの関係は終わってしまう。
けれど、この想いを伝えてそんなつもりじゃなかったと拒絶されてしまったら私はきっと耐えられない。
まるで出口の見えない底なし沼へと落ちていくような気分に陥って、私はスマートフォンを強く握り締めた。
◆
ぐるぐると思い悩むうちに時は過ぎ、彼との約束の日が訪れた。
聳え立つ豪華な高層ホテルの中に足を踏み入れると、目の前に現れた光景に私は思わず息を飲んだ。
広々とした吹き抜けのロビーを大きなシャンデリアが煌々と照らしている。
大理石造りの床はピカピカに磨かれ、至る所に置かれたテーブルとソファは皆一様に高級感を醸し出していた。
どこからどう見ても、正に高級ホテルの佇まいだ。
絢爛豪華な雰囲気に圧倒されるまま、私は隣にいる七ツ森くんを見上げた。
スタイリッシュなブラックのジャケットと、同色のタイトパンツがスラリとした体躯に映えている。
フォーマルな出で立ちが、華やかなこの空間と相まってまるで童話に出てくる王子様みたいに見えた。
思わず見惚れてしまっている私の視線に気が付いたのか、彼は穏やかに瞳を細めて此方を見下ろした。
「どうかした?」
どこまでも優しい声色に頬が熱くなる。
「ううん、七ツ森くんは今日もカッコいいなと思って」
「そりゃどうも。今日のあんたも最高にいい女だよ」
……またすぐにそういう事を言う。
褒めたつもりが倍の威力で打ち返されて言葉に詰まってしまう。
「ほら、ぼーっとしてないで早く行きましょ」
七ツ森くんはそう言うと、二の句を継げずにいる私の肩へと腕を回した。
流れるような仕草で肩を抱かれ、エスコートするようにゆっくりと歩き始める。
温かな腕の感触と、鼻先を掠める彼の香りにドキドキと心臓がざわめいた。
「わぁ……!」
大ホールに所狭しと並べられた料理に私は感嘆の声を上げた。
副菜に主食にデザートまで和洋折衷に取り揃えられ、それぞれ色鮮やかに存在を主張している。
ほわりと立ち昇る湯気と、立ち込める美味しそうな匂いに忽ち心が踊りだした。
「みんな美味しそうで悩んじゃうね!」
「そーですね。ハイ、お皿」
七ツ森くんはしゃぐ私の姿に苦笑を溢しながらお皿を手渡してくれた。
「ありがとう!」
「い〜え、まあ時間はたっぷりあるんだし、ゆっくり選んでよ」
そう言って料理を選び始めた彼に倣って、私も色とりどりのトレイと相対する。
どれも宝石箱みたいにキラキラと輝いていて、私は誘われるようにお皿に料理を盛り付けていった。
料理はどれも見た目も味も趣向を凝らしていて、とても美味しかった。
舌鼓を打ちながらいろんな話で盛り上がり、気が付けばお皿の上の料理はあっという間に無くなってしまっていた。
食後のエスプレッソを飲みながら、私は目の前の彼にニッコリと微笑みかける。
「今日は連れてきてくれてありがとう。普段ならこんな贅沢滅多にできないから嬉しかった」
「ん。俺もあんたと二人で来れてよかった。スタッフさんに感謝だな」
そうして二人で笑い合って、コーヒーカップに口をつける。
互いの間に流れる和やかな空気が心地よくて、いっそこのまま時間が止まってくれればいいのにとすら思ってしまう。
「ふふ、七ツ森くんとまたこうして一緒にいられるなんて、何だか高校生の頃に戻ったみたいで楽しいな」
あの頃みたいにこれからもずっと一緒に笑い合っていられたらどんなにいいだろうと思う。
だが七ツ森くんは表情を曇らせて、ふい、と目を伏せた。
「あんたは俺と高校生の頃みたいな付き合いがしたいの?」
「えっ?う、うん、またあの頃みたいにずっと一緒にいられたらと思ってるけど」
問いかけの真意が分からず、思ったままに頷くと、彼は唇を歪めて苦々しい笑みを浮かべた。
「そっか。……そんなの俺は御免だね」
吐き出すような彼の言葉に、まるで冷水を浴びたみたいに全身が冷えていく。
ギシリと胸が軋み、背中にひと筋汗が流れていった。
あの頃みたいに、ずっと一緒にいられたらと思っていた。
しかし、そう思っていたのは私だけで、全ては自分の独りよがりだったという事なのだろうか。
舌の上に広がるエスプレッソが、急激に耐え難い苦味に変わって私は眉を顰めた。
目の前に座る彼も、未だ表情を曇らせたままコーヒーカップを傾けている。
二人で映画を観たあの夜、七ツ森くんは私との関係を終わらせたくないと言った。
私は、もしかしたらこれが恋の始まりになるんじゃないかと淡い期待を抱いていた。
けれど、現実はこれだ。
七ツ森くんが私と関係を終わらせたくなかった理由は、ただ単に気軽に会える友達が欲しかっただけなんだろう。
ずっと一緒にいたいだなんて、彼からしたら重い女でしかないじゃないか。
彼女でもないのに勝手に期待して舞い上がって、本当に馬鹿みたい。
込み上げそうになる涙を必死で堪えながら私は嫌になる程苦いエスプレッソを飲み込んだ。
ギクシャクとした雰囲気のまま食事を終えて、私達は再びロビーへと戻ってきた。
キラキラと煌めくシャンデリアがどんよりと翳る心模様に突き刺さり、泣きたい気分に拍車がかかる。
もう早く帰ってしまいたい。しかし、このまま帰ってしまったら今度こそ彼とは二度と会えなくなってしまうような、そんな予感がした。
無言のまま隣に佇む七ツ森くんを見上げ、私は唇を引き結んだ。
……期待を打ち砕かれた今でさえ、やっぱり私はどうしようもなく彼の事が好きだった。
「……七ツ森くん、今日はありがとう。誘ってくれて嬉しかった」
震えそうになる声を押さえつけて、無理矢理に笑顔を浮かべてみせる。
最後くらい笑って彼と別れを告げなければ。
彼の記憶に残る私の顔が情けない泣き顔だなんて耐えられないから。
しかし、七ツ森くんは私を見下ろすと、ひとつ大きく息を吐き出した。
その瞬間、私の手が彼の大きな手に包み込まれた。
「……悪いけど、まだ付き合ってもらうから」
そう言うと、七ツ森くんは私の手を引いて足早に歩き始める。
「えっ?ちょっと、七ツ森くんっ……!」
混乱する私を他所に足を進め、辿り着いた先は、ロビーの片隅に設置されたエレベーターだった。
彼は無言のまま開閉ボタンを押すと、重々しく開いた扉の先へ私を連れて乗り込んだ。
「ねえどこ行くの?」
堪らずに問い質してみるけれど、七ツ森くんは何も答えずに最上階行きのボタンを押した。
静かに上昇を始めるエレベーターの中、私の手を握る彼の指がするりとなぞるように動いて私の指を絡め取る。
途端にカッと全身に熱が灯り、ドクドクと心拍が加速していく。
あの頃みたいにずっと一緒にいたいと言った私を冷たく突き放したくせに、どうしてこんな事するんだろう。
思考回路は最早ぐちゃぐちゃで、喜んでいるのか悲しんでいるのか、そんな事さえ分からなくなってくる。
無言が落ちる狭い空間で、絡んだ指の熱さだけが私を支配していた。
エレベーターが最上階へと辿り着き、手を引かれたまま外へと出て、再び足早に歩き出す。
ふかふかとしたカーペットが敷かれた廊下を進んでいくと、やがてクラシカルな扉の前へと行き着いた。
さも当然のように扉を開けて中へと入っていく七ツ森くんの後に続くと、目の前に現れた光景に私は目を丸くした。
淡いブルーの照明が照らす薄暗いラウンジに、ゆったりとしたクラシック音楽と、シェイカーを振る音が混ざり合って静かに響き渡る。
突如現れたオシャレなバーの空間にキョロキョロと辺りを見回していると、七ツ森くんは私の手を引いて大きな窓に面したテーブル席へと連れていった。
「すごい……」
眼下に広がる夜景に、私は思わず息を飲んだ。
最上階から見下ろす街並みは、キラキラと光を放って煌めいていて、まるで夜の闇の中に宝石を敷き詰めたみたいだ。
「キレイ……」
「ああ、そうだな」
うっとりと呟く私に、七ツ森くんは穏やかな声音で同意してくれた。
「ご注文はお決まりですか?」
店員さんがにこやかな表情で目の前に現れて、七ツ森くんは私へと向き直った。
「あんた酒は平気な方?」
「え?うん、弱くはないと思う」
「そ。じゃあキャロルをふたつお願いします」
流れるような仕草で注文をすると、店員さんは畏まりましたと一礼をして去っていった。
「オシャレな名前のお酒だね」
「はは、まあ、見た目だけじゃなくて味も美味いから期待しててよ」
眦を下げて笑う七ツ森くんの姿はどこか余裕に満ちていて、否が応でも経験値の違いを感じてしまう。
きっとこの七年間、お酒に詳しくなる程にいろんな経験をして二十五歳になったのだ。
私の知らない彼の一面を感じて、一抹の寂しさが胸に去来した。
「お待たせ致しました」
暫くすると店員さんがショートグラスを手に私達の前へと現れた。
コトリと静かな音を立てて置かれたグラスの中で、深い紅色の液体が揺れた。
「ごゆっくりどうぞ」と去っていく店員さんを見送って、私は早速グラスに口をつけてみた。
コクの深い甘さと、ブランデーの独特な風味が口いっぱいに広がっていく。
飲み込むと喉の奥から熱が広がって、このお酒の度数の高さを実感した。
「美味しいけど結構強いね」
「でしょ。大人の味ってやつだな」
ふふ、と笑ってグラスを傾ける七ツ森くんの姿は惚れ惚れする程に絵になっている。
頬に集まる熱はアルコールのせいなのか、はたまた彼のせいなのか。
火照っていく己の顔を持て余しながら私はもうひと口カクテルを嚥下した。
「なあ、カクテル言葉って知ってるか」
グラスを揺らしながら、七ツ森くんは不意にそんな事を呟いた。
「カクテル言葉?……ああ、花言葉のカクテル版みたいなやつだっけ」
「そうそう。この酒のカクテル言葉ってあんた知ってる?」
「分かんない。何?」
思わず身を乗り出して尋ねると、彼は意味深に瞳を細めた。
「“この思いを君に捧げる”だよ」
甘く蕩けるような声音で囁かれた言葉に、私はピタリと固まった。
カクテル言葉が意味するのは、紛れもない愛の告白で胸の奥がざわめき始める。
「なあ、ちょっと手ぇ出して」
そんな私を置いてきぼりにして、七ツ森くんは鞄から何かを取り出した。
促されるままに掌を差し出すと、その上にカードが乗せられる。
カードに書かれているのはこのホテルの名前と三桁の数字。恐らく部屋番号だろう。
「……ルームキー?」
尋ねると彼は大きく頷き、そして唇を開いた。
「美奈子、俺あんたが好きだ」
瞬間、時間が止まった気がした。
吐き出すように囁かれた言葉に頭の中が真っ白になる。
久しぶりに呼ばれた名前に、それから……
「えっ?」
停止した思考回路が動き出し、漸く言葉の意味が脳を駆け巡る。
同調するように全身に熱が回り、うるさいくらいに心臓が高鳴った。
「俺さ、高校生の頃からずっとあんたの事が好きだったんだ。最初はちょっと面倒な子だなと思ってたけど、毎日一緒にいるうちに俺の中であんたがどんどん掛け替えのない存在になっていった。……それなのにさ、臆病風に吹かれて告白出来ず仕舞いで、気が付けば疎遠になっちまった」
七ツ森くんは一度言葉を区切り、大きく息を吸い込んだ。
「あんたのいない生活が虚しくて毎日破れかぶれな気分だったよ。でもさ、あの日偶然あんたを見付けた瞬間、柄にもなくこれは運命だって思った。で、今度こそ絶対逃げて堪るかって誓ったんだ。……今夜、このホテルに部屋を予約してあるんだ。もしあんたが俺を受け入れてくれるなら、俺と一緒に部屋に来てくれ」
七ツ森くんは恭しく私の手を取って懇願するように唇を落とした。
柔らかな感触に肌がぞくりと粟立つ。
一緒に部屋に行く意味が分からない程私はもう子供ではなくて、身体中に火が灯った。
「……勿論無理にとは言わないよ。ただ、無理なら俺の事なんか嫌いだって言ってくれ」
「……そんな事」
「頼むよ。じゃなきゃ俺は多分一生あんたを諦められない」
泣きそうに表情を歪める七ツ森くんに、胸の奥が震える。
じわりと視界が滲み、瞳から涙が零れ落ちた。
「……嫌いなんて言える訳ない。私だってずっと実くんが好きだったの!」
一度言葉にしてしまうと、堰を切ったように次から次へと溢れ出す。
「この七年間毎日思い出すのは実くんの顔ばっかりで、ちっとも前に進めなかった。私だって全然実くんを諦められてなかったの」
私は込み上げる感情に身を任せて子供のようにしゃくり上げた。
体裁なんて気にしていられない程に、この恋は私の中であまりにも大きく膨らんでいた。
「……もう分かったよ」
穏やかな優しい声が落ちてきて、顔を上げると実くんが幸せそうに微笑んでいた。
蕩けそうな翡翠色の瞳の中に私の泣き顔が映り込んでいる。
「ありがとう。俺、今すっげぇ幸せだ」
甘く優しく囁いて、実くんは此方に顔を寄せた。
反射的に目を閉じると、瞼の上に唇が落ちる感触がした。
漸く私が泣き止んだ頃、実くんは呆れたような表情でショートグラスを傾けた。
「あ〜あ、何やってんだろうな俺達。答えは同じだったのにすっげえ遠回りしちまった」
「ふふ、何だか随分空回りしちゃったね」
同じ想いを抱えたまま七年間も遠回りからの空回り。
呆れてしまうけれど、こうして漸く想いを確かめられたのだから全て帳消しにしてもいい。
そのくらい大きな幸せに包まれていた。
「……じゃあ、今日は俺と朝まで過ごしてくれるってコトでオーケー?」
頬を赤らめて再度了承を取りにくる実くんに、私は笑い声を上げて頷いた。
学生の頃に憧れていた色褪せた筈の御伽噺が、頭の中で色彩を取り戻していく。
教会の前に置き去りにしたあの日の自分が「良かったね」と笑った気がした。