再会の日 いつもは自分の身の回りのことはきちんと自分でしている兄が、その日は珍しく私に本の整理を頼んできました。延べてあった布団の枕元にあった数冊を、母屋から庭を挟んだ向こうの蔵にしまって来て欲しいと言うのです。
その日は特に用事もありませんでしたし、渡された本を抱えて素直に蔵に向かいました。
そこは、蔵と言っても兄が普段出入りしている書庫のようなもので、風通しはそこまで悪くありません。少しだけひんやりとした中の空気に混じって埃っぽさを僅かに感じる程度でした。幼い時分に弟と潜り込んで探検しているうちに眠り込んでしまい、両親と兄が血相を変えて探しに来た時を思い出して、誰も見ていないのに思わず少し肩を竦めてしまいました。あれから基本的には大人か兄が一緒でないとここには入っていけないと言い渡されたのでした。もう一人でも出入りできるようになってからしばらく経つのに、蔵に入るときはどうしても胸が高鳴ってしまいます。
兄の書棚は寝間の続きにあるものたちと同じく整頓されていて、預かったものたちをどこへ戻せばいいのか迷うことはほとんどありませんでした。著者、題名、年代、そういったものたちをたどれば自ずとそれらの位置は分かりました。
程なく用事を終え庭を横切って母屋に向かおうとすると、玄関近くの木の側に大きな影が見えました。
所在なげに頭を揺らしている、茶色い大きな馬でした。
見覚えのない馬でした。我が家にも厩舎はありますが既に使われなくなって久しく、馬に乗ってくる客なども普段はおりませんから、このような場所に繫ぐしかなかったのでしょう。紅くなった葉が降りかかる度にそわそわと耳を動かしています。鼻息の音が聞こえるくらいに近づくと、綺麗な鹿毛の上に紅葉が散る様子が何とも風情ある様子でした。
見惚れていると、ふと目が合いました。私の方を見ながら軽く前掻きをしています。ちょうど鼻の上に乗った葉がなかなか落ちなくて気になっている様子です。取ってやろうかと、どうしたの、と声を掛けながら驚かせないようにゆっくり近寄りました。それから鼻先に手を差し出すと匂いを嗅ぐ仕草を見せたので、そのまま顔についた紅葉を取ろうとした時、突然背後から大きな声がしました。
「シヅキ!」
突然、目の前が真っ黒になりました。それは、私との間に割り込んできた黒い服の大きな背中でした。
「こら!……うおっ!?」
「えっ」
そしてそのまま、体が横に飛んでいきました。どうやら、その馬が頭を振ったのにぶつかって吹き飛ばされたようでした。土の上に崩れ落ちている男性の軍服の背中に、赤い葉が舞い落ちていきます。顔の葉が取れてすっきりしたのか、馬は一際大きな鼻息を吐いて口元をもぐもぐと動かしていました。
「ミツ」
玄関の中から兄の声がしました。笑いを堪えているのか口元に軽く拳を当てています。かしこまってはいないものの、寝間着の和装が多かった最近の兄には珍しく洋装で、前もって来客を知って着替えていたようでした。
「ちょうどいいところに。……大丈夫ですか、和田殿」
——わだ、どの?
その呼びかけに、慌ててもう一度さっきの男性を振り返ります。立ち上がったその姿は確かに見合いのその日に破談を覚悟した相手その人でした。あの時と同じように、仏頂面で服についた土を払っています。
「私は大事ない。そちらこそ怪我はなかったか、ミツ殿」
何処からどう見ても私は無傷だし、和田どのの方が後ろで歯茎を剥き出しにしている馬を気にした方がいいのではないか、と思ったのでした。
❉ ❉ ❉ ❉ ❉ ❉
見合いをした床の間で、三者が顔を合わせることになりました。お茶を持って行くと私も座るようにと言われて不承不承腰を下ろすと、私の表情を見た和田どのが肩を強張らせました。口元はあの日のように引き結ばれていましたが、目元は分かりやすく泳いでいます。
この人は、今日は一体何をしに来たのだろう。本人がわざわざ、相手の家に見合いを断りにくるなんて聞いたことがありません。
泳いでいた視線が、床の間に活けられた花に留まりました。あっ、と出そうになる声をどうにか噛み殺していると、しばらく考え込むような沈黙の後に和田どのが口を開きました。
「……ええと、その。大胆かつ斬新な活け方ですね」
必死で褒め言葉を捻り出そうとしている雰囲気がありありと伝わってきます。私は内心、動揺し過ぎて叫び出しそうになるのを堪えているうちに段々と項垂れてしまいました。
そんな私たちの様子を見て兄が柔らかく、けれどはっきりと告げました。
「ありがとう。これはミツが活けたのです。まだ手習いの域を出ませんが、彼女らしくていいでしょう」
「え」
「に、兄さま!」
驚いたような和田どのの素直な反応に思わず私が顔を上げると、目が合いました。
「……お花は、得意ではないので」
私はそれ以上何も言えずに目を逸らしてしまいました。
それから数拍おいてすっと息を吸う音がして、和田どのが突然私たちに向かって頭を下げました。卓に頭をぶつけないよう、わざわざ少し後ろにいざってから畳に額を擦り付けんばかりにしている姿は、それはそれは美しい土下座でした。
「先日は、誠に申し訳なかった」
今度は私が驚く番でした。兄さまを見ると、少しだけ困ったような表情で和田どののつむじのあたりを眺めています。
「ミツ殿には、大変失礼な物言いをした。痛いところを突かれて頭に血が上ってしまったとは言え、あのような」
「お顔をお上げ下さい、和田殿」
「この話がどうなろうとまずは謝罪をせねばと思い……顔を見るのも嫌かもしれないが。本当に」
「……」
「……ミツ。お前からも何か言うことがあるんじゃないのかい」
全身で謝意を示している和田どのを止めるのをあっさり諦めたのか、今度は兄の視線が私に向きました。
言いたいことは、分かっておりました。経緯を聞いた母が卒倒し父が頭を抱え、兄が苦笑しているのを弟だけが目を輝かせて見ていたあの日。
ごめんなさい、と蚊の鳴くような声で呟いた私を、兄は「それは私たちに言う言葉ではないよね」と嗜めたのでした。
「和田殿。私どもの方は見合いの席についてのことは仔細把握はしておりますが、あなたを咎め立てするつもりは毛頭ありません」
兄は、言葉は和田殿に向けながら、視線は私に向いています。無言で促されるそれに、私は気が付かないふりをしたくて仕方なかったのですが、それすら見抜かれているようでした。
押し黙っている私をそのままに、兄が続けました。
「……少なくとも、両親と私については。こちらの方こそ妹の無礼をお詫びしないとならない立場です。むしろ、わざわざお運び頂くと聞いて驚いたくらいで」
ただお申し入れが急であったために、両親が顔を出せずに私だけでお迎えすることになって失礼しております、と続けました。
確かに両親は家業のための買い付けに家を離れたところでした。数日は戻らない予定であり、その間は兄が代理で家の中のことを取り仕切ることにはなっていましたが。
それでも、わざわざ前もって私を蔵へやり、着替えて玄関で和田どのを迎えるまでに私に伝える時間はいくらでもあったはず。
「いや、そんなことはない」
顔を上げた和田どのと、また目が合いました。私の顔を見てふと眉を寄せ、一瞬目を逸らしたのはきっと私が和田どのに対して怒っているのだと勘違いされたからでしょう。
私が腹を立てていたのはあなたにではありません、とわざわざ説明するのも妙な気がして黙っていました。けれど、両手はまだ畳についたまま、和田どのが私の顔を見返してくる視線は、とても真摯なものでした。
「……、というのは」
それまで貝のように閉じていた私の口は、それに促されてわずかに弛んでしまったようです。ぼそぼそとした私の声を、聞き落とすまいと和田どのの目は更に真剣になりました。
「表の馬。……シヅキ、というのはどういった意味ですか」
「ミツ」
嗜めるような、柔らかくもぴしりとした兄の声にも関わらず、私の言葉を聞いた和田どのは呆気に取られたような顔になった後に「ああ」と破顔しました。
両手を膝の上に戻し、どこか嬉しそうな顔になって続けます。
「月を指すと書いて指月だ。萩の……私の故郷にある山の名前なのだ」
「山、ですか」
「山といってもそんなに大きくはない。ただ、かつて城や寺社もあった場所で、山林が美しい」
「木々が美しいところなのですね」
「そうだ」
正直に言いましょう。私は、その瞬間の和田どのの笑顔に釘付けになりました。
初めて会った時の、どこからどう見ても「軍人」と書かれた額を貼り付けて歩いていたような印象は僅かの間に既に綻びつつあったものの。そのくしゃりと皺の寄った眉間と鼻筋で粉々になっていました。
こちらの方がきっと本来の彼の心根が出たお顔なのだと、まだ会って二回目だというのにすとんと腑に落ちた気がしました。
「ではいつか、連れて行って下さいませ」
「おういいぞ。……ああいや、構わな、え、ええ?」
気が付けばそう口にしていた私につられてお返事をした和田どのが、俄かに慌てた様子になりました。
「それは、その」
「ミツ」
完全に呆れた口調の兄の声が飛んできました。そこでようやく私は改めて和田どのに向かって座り直し、膝の前に指をつきました。
「本日はわざわざのお越しをありがとうございます。先日の件に関しては私も大変な無礼を致しました。この通り、お詫び申し上げます」
そう目を見て告げた後に、丁寧に頭を下げました。顔を見ずとも和田どのが慌てふためいている気配でその表情が手に取るように分かりました。ふと弛んでしまった唇を元の形に戻してから伏せた顔を上げると果たして、和田どのは想像したそのままの様子でおろおろと私と兄を見比べているのでした。
❉ ❉ ❉ ❉ ❉ ❉
今後のことはまた改めて、ということで和田どのを玄関までお見送りをしました。指月に声をかけていた彼が、ああそうだ、と私を振り返ります。
「乗ってみますか」
「え」
「馬が怖くない様子でしたので」
「……ええ、はい」
思わず素直に頷いてしまい、また和田どのがあの笑顔を見せました。
「やはり。乗れるんですね」
やられた、と思いました。おそらくさっき近づいた時の様子を見られていたのでしょう。
確かに馬は体が大きく、女学校では恐ろしがる同級生もおりました。弟も今よりも幼かった時分には怯えて半泣きになったこともありました。
私はいきものは概して美しいものだと思っています。からだが大きくても小さくても同じこと、ひとと違う姿をしてはいてもそれは同じ命あるものなのですから。
けれど、そうして何でも近寄って見てみようとしたり時には触れようとする私のことを、「女子はそんなことはしないものだ」と言う人々がいるのも知っていました。「普通」、そういう言葉が思わず出てしまった和田どのにも、奇妙な女だと思われるかもしれない。
——つい、そう感じてしまったのです。
咄嗟に私は首を横に振りました。
「いえ、ちょっと興味があるだけで」
「乗れるよな、ミツ」
それを台無しにしようとする兄の声に、つい大仰な仕草でそちらを見てしまいました。それを見て、兄が続けます。
「袴を持ってこようか」
「あ、明にいさまっ」
いかにもおかしそうに続ける兄さまを慌てて止めようとして、声が裏返りかけました。私の様子に気がついていないはずはないのに、和田どのはそれはいいなと呑気に頷いています。
「……今日は、そういう気分ではありません」
「そうか……」
和田どのは、私の言葉に分かりやすくがっかりしたような様子になりました。それからすぐに気を取り直したように頷いて言いました。
「ただ、こいつはちょっと難しい馬でして。乗る時は私と一緒がいいでしょう。もう少し時間がある時、ミツ殿の気が向いた時に」
指月の首筋を軽く叩きながら見上げる視線からは、馬を慈しんでいる様子がはっきりと見て取れました。
その後すぐ何故か体当たりをしてきた指月のせいでよろめいていて、少しだけ心配に、いえ不安を感じなかったと言えば嘘になるのでしょうね。
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その夜、私は碌に見もしないまま仕舞い込んでいた、和田どのの釣書と写真を出してきました。改まって開くのも何となく気恥ずかしく、寝支度を整えた状態で布団に横になり、それを見上げていると昼間の和田どのの顔が思い浮かびます。
写真の顔は、見合いの日に見た四角四面な顔と同じような表情していました。いかにもいかめしい様子は、確かに軍人らしいと言えばそうなのでしょう。
でも、正直言って、彼の本来の性格というのはあのくしゃりと崩れた笑顔に表れているだろうと何となく確信めいたことを考えたのでした。