サンプル *
「ジュンくんはいるかね」
昼休みのチャイムが鳴って間もなく、机の上に買ってきた昼食を広げた終わった頃。小さな教室に響き渡る大きな声で自分の名前を呼ばれた。
上下関係がきっちりしているこの学園では、他の学年がフロアに入ることはほとんどない。しかも相手があの人ときたら、自然とクラスメイトの視線が集まる。
いや、その視線の先にいるのは俺か。
「巴先輩」
日和は勢いよくドアをスライドさせたものの、さすがに教室の中までは入ってこないので、入り口まで出迎えに行く。
「まだそんな呼び方をしているのかね。もう、悪い日和。はい、これ新曲の音源だね。企画書も付けているから、放課後までに読んでおくね。じゃあまたね」
一方的に用件を言い、クリアファイルを手渡すと、颯爽と風のように去って行った。中には左上がホチキス留めされた数枚の紙と、一枚のCDが挟まっていた。こんなもの、メールか何かで連絡すればよいのにと思いながら自分の席に戻った。
昼食が先か、こちらが先か。机の上と手元を何往復かして、机の中から無造作に放り込まれていたCDプレイヤーを取り出した。次いで、ゴソゴソとカバンに手を突っ込み、それらしいコードを引っ張る。ビンゴ。音源はおそらくクラウドに落ちているはずだから後でスマホに入れ直すか、と考えながら手に取ったイヤホンをプレイヤーに差した。
全体的にすごく爽やかで、いかにも夏らしいといった曲だった。聞いているだけで暑い日差しに肌がひりひりとし、ビーチサンダルを履いていてもその熱が足裏に伝わってくる砂浜を大きく蹴って浜辺へ駆け出したい、そんなイメージが膨らむ。
王道の男性アイドルっぽい曲調は、デビュー曲の格好良さとはまた違った雰囲気だった。クリアファイルから別に綴じられていた歌詞カードを抜いて、もう一度初めから再生する。
今度は歌詞の付いていないメロディラインを追いかけた。聞きながら歌詞を当てはめてみると、夏のラブソングのような一曲で、太陽のような日和にはお似合いの曲だなぁとぼんやり思った。
リピート再生にして聴きながら、放置していたサンドウィッチに手をつける。購買にもからあげとかの肉を売って欲しいと思いながらハムサンドをぺろりとたいらげ、企画書を広げた。
そこには、新曲のイメージやMVの構想と共に、炭酸飲料のCMのタイアップであることが記載されていた。
1
放課後、形式的なホームルームが終わるのを待って、足早に事務室に向かった。白いA4の封筒を受け取り、軽く頭を下げてその場を後にすると、事務員が見えなくなる前に廊下でビリビリと封を切る。中には透明なクリアファイルが入っていて、取り出さなくても中身が見えてしまった。
「はあ」
正直予想していたが、目の当たりにするとショックではある。大きく肩を落とし、ため息をつく。今すぐにでも破り捨てたい衝動に駆られるが、下手に他の生徒に見つけられると体の良いネタになってしまうので理性で押し殺す。
他人に付け入る隙を与えてはいけない。どこぞのオーディションでその話を持ち出された時には、恨むべくは過去の己。今日の敵は明日も敵なのだ。売れるアイドルになるための門は狭く、少ない椅子を奪い合うためにどれほどの犠牲が足元に敷き詰められているのだろうか。かく言う自分もその中の一つで。
今回のオーディションはほぼダメ元で受けたようなものだったし、目指すアイドルの方向性も違ったのでやる気があったわけではなかったが、落ちるとそれはそれで。いや、それは言い訳だろう。
いつの間にか教室を通り過ぎて音楽室にやってきていた。放課後はボイストレーニングルームや鏡張りの練習室の方が人気で、授業で使うためだけに作られたこの部屋は設備が整っているにもかかわらずとても静かで寂しくて、冷たかった。
特に入ってはいけない決まりもないので、ガラリと扉を横に引き綺麗な床に足を踏み入れる。弾けもしないピアノの前に立ち、ポーンと音を一つ鳴らす。ただ無意味に鳴らされたそれは、無数に開けられた壁の穴に吸い込まれていった。
無性に部屋に音を満たしたくなった。どうせ今は誰もいない。昔から気に入っているあの歌を口ずさむ。サビに入るまでには興が乗り、思わず熱がこもる。目を瞑りステージにいる自分を思い浮かべる。
ふと現に意識が戻る。虚しさと共に少しの恥ずかしさが出てきて、手持ち無沙汰に窓を開けた。どこからともなく舞ってきた桜の花びらは、ひどく乾いて少し先が黄色っぽくなっていた。美しく散る桜は潔く、好感が持てる。
窓際に座り、遠くの景色をぼうっと眺めていたせいで、外の廊下にずっと人がいたことに気付くはずもなかった。
*
朝から学園内が騒がしかった。生徒だけでなく教員や外部の講師もなんとなくそわそわしている。その原因が自分の耳に入ってくるまでそう時間はかからなかった。
『夢ノ咲から転校生がやってくる』
『三年らしい』
『ということは、噂の、あのユニットのメンバーか』
正直断片的な情報が多すぎた。ただ、どうも有名そうな人物であることは窺える。三年ともなれば、一年も経たずに卒業だと思うが、わざわざこんな時期に何故だろうか。
夢ノ咲では、在学中は学園所属になってしまうから、玲明で学生のうちから所属できる外部の事務所に入りたかったのか。でもわざわざ所属するためであれば、玲明でなく秀越の方が待遇が良いと思う。
まあ、よく知りもしない他人の考えることなどわかるはずもない。また、自分にも関係のない雲の上の話と割り切り、その手の話には混ざることはしなかった。どうせ知り合ったところで、またこき使われるだけなのは目に見えている。下手に近付かない方がマシだろう。
ただし、物欲センサーだかなんだか知らないが、世の中には望むものよりも望まない物の方が手に入ることがままある。
*
貴重な昼休みに教員に呼び出しをくらってしまい、チャイムが鳴ると共に教職室へ向かった。教員には、なんてことはない雑用を押し付けられた。自分でなくても良いだろうとは思ったが、優等生面を壊さず渋々引き受けた。
良い顔をして、少しでもポイントを稼いでおいて損はない。結局何をするにも人の好き嫌いは影響する。便宜を図ってもらおうなんて下心で手伝っているわけではない。しかし。
(特待生だけでなく、先生も奴隷のように扱うのか)
向こうにその意図はなくても、こちらがそう思ったら同じだ。
アイドルとして活躍している者たちには相応の場を与え、蝶よ花よと大切に、時に厳しく育てる。一方そのステージにすら乗ることができない者たちに用はないと言わんばかりの態度に、この一年辟易しながら過ごしてきた。
雑用を済ませ教室に戻るともう昼食を終えた人が多く、自分の席もできれば関わりあいたくない連中に占領されてしまっていた。机の横にかけてある鞄の中に、今朝余ったご飯を貰い作ってきたおにぎりが入っている。が、声をかけるのも、ましてや顔を合わせるものできれば避けたいと思っている相手とおにぎりを天秤に比べた時、どちらに傾くかは想像に容易い。
ポケットに片手を突っ込んでチャリチャリと中に入っているものを鳴らす。購買でパンが買えるくらいの小銭は入っているようだったので、そっと踵を返した。
売れ残っていたあんパンとパックのイチゴ牛乳を買い、屋上へ向かう。そこは人工芝が敷かれ、あちこちにベンチが設置されている。丈夫なフェンスは二重構えになっていて手前のものは2mくらいの高さがあるだろうか。
とても綺麗に整備されていて、時に生徒の憩いの場となっているが、まだ季節は春。それも四月の上旬となると、太陽が出ていればまだ過ごしやすいが、ひとたび風が吹くと身震いするくらいには肌寒く、人の影は一つも見当たらなかった。
手頃なベンチに腰を下ろし、付属のストローをパックに差し込む。いちごの風味がするかしないか怪しい、ただピンクに染められた牛乳は、甘ったるくいつまでの口の中に残っているようだった。
「もっと栄養を取らないと健康に悪いね」
急に後ろから声がした。思わずびっくりしてパンを落とした。恐る恐る後ろを向くと、逆光にで真っ黒に見える顔が上から覗きこんでいた。声の主はそのまますうっと前に回り込み、目の前でぴたりと止まる。
「初めまして、漣ジュンくんだね。今日から二人で新しいユニットを組むから、その挨拶に来たね。この僕が直々に出向いているんだから、何か言うことは無いのかね?」
目の前に来たことでようやくその人物の顔面に太陽の光が当たった。照らしている太陽よりも眩しい笑顔がそこにはあった。
細くて薄い緑をしている髪の毛は、光を通すとまるで透明の糸のようにキラキラしている。カッコ良いというよりは可愛いと形容できる顔は、整いすぎていて逆に怖い。万人受けどころか神さえも彼を愛すだろう。真っ直ぐに自分を見つめる瞳はまるで水晶みたいで、近づくと吸い込まれそうになり、息をすることさえ忘れていた。
「ねえ、聞いているのかね」
「はあ」
生返事をする。
「もう手続きは済んでいるから、君に拒否権はないね」
「はあ」
「この僕と組めるなんて、すごいことなんだよ。まあいきなりの話だから、現実味がないかもしれないね」
「はあ」
「よろしくね、ジュンくん」
笑顔で差し出された手は、それを取ることしか許さないと言わんばかりの存在感で、脳が理解していないのに勝手に身体が動いてその手を取っていた。
やっと頭が追いついたのは、教室に戻る廊下で、先ほど俺をパシリに使った教員が青い顔をして白い紙を手渡した時だった。
学園、ひいてはコズミックプロダクションに提出するユニットの結成届で、すでに自分のサイン以外の欄は記入されていた。
2
「なんか余計なものがいっぱいある気がするね。これを機に要らないものは捨てていってもらいたいね」
その日、授業が終わって寮に戻ると、数人の業者らしき人を引き連れた日和がなにやら指示をしているようだった。よく見ると、自分の荷物が段ボールに次々と詰め込まれていた。
「ちょ、えっ。何してんすか!?」
「おや、おかえりジュンくん。あの重い道具は僕の部屋に似つかわしくないし、家に送り返すといいね」
「いや、話が全く読めないんですけど」
会話をしている間にも荷物が片されていく。机に置いてあった手のつけられていない教科書、引き出しにしまっていたアイドル雑誌に、CDやDVD。なぜか床に置かれたままの筋トレグッズ。重い道具ってまさかこれか。
「勝手に。え、何なんですかこれ」
「何って、僕たちの部屋に引っ越すためだね。あれ、言っていなかったかね。僕の荷物を運び入れるついでに、手伝ってあげようと思ってわざわざ来てあげたのに。ジュンくんがまだいなかったから先に始めていたね」
引っ越し、とは。
ユニットを組むと、同じ部屋に住む人たちもいると噂に聞いたことがある。時間を共有して、より良い関係を築くためとか。一般生である俺たち下々の奴隷は、結成から解消のスパンが短く、出入りが多くなるのを嫌がってユニット結成後もそのままの部屋で過ごす人の方が多かった。
「俺、先輩と同じ部屋に住むなんて一言も了承してないんすけど」
「特待生になるんだから、いつまでもこんなところにはいられないよね。もう申請も通っているし、早く移動させるね」
それはもちろんその通りだとしか言いようがない。Eveのメンバーになるにあたり日和から提示されていたのは、一般生から特待生への変更が条件となっていた。現在の同居人と関係が悪くなることも予想できていたのでありがたい。ただこんな早急に移動させられるとは思っていなかった。それはそれとして。
「筋トレグッズは絶対に持って行くんで」
*
結局すべての荷物を業者に頼んで運んでもらった。敷地内の建物とはいえ、今の寮と特待生用の寮とはだいぶ距離がある。家具類を自分で運ぶのは骨が折れただろう。
あまりお金もないしできれば自分の手でやりたかったが、全部学園持ちというのだから、その言葉に甘えた。特待生になっただけでこんな手厚い待遇があるなんて、本当にこの学園は強いものだけが生き残れる構図になっているとつくづく痛感する。
「さあ、ここが今日から僕の、ううん僕たちの部屋だね。ようこそ、ジュンくん」
寮に足を踏み入れた時点で感じていたが、作りが違いすぎているのではないだろうか。綺麗さという点ではどちらの寮も大差ない。一年住んできて、特に不満らしい不満はなかった。ただ、上のランクを認識してしまうと今更ながらよく生活できていたなと思わなくもない。
前の寮は、食堂があるため部屋に個別のキッチンはなく、各階に簡易的な給湯室があるだけだった。寮母が優しかったため、食料を持参すれば空いている時はキッチンを貸してくれた。たまに余ったご飯を貰っては、それを夜食や弁当代わりにしていた。
風呂はおろかシャワーももちろん共同で、大浴場は学年によって使用できる時間帯が決まっていた。上級生が優先で、いつもランニングが終わってからだと入れる時間帯が過ぎてしまって、冬場もシャワーで済ますことが多かった。
大きなワンルームは、プライベートな空間こそないものの、工夫して真ん中に机を置いて仕切り代わりにして、壁側にそれぞれベッドを寄せていた。
玄関脇にはロビー兼共有スペースもあった。大きなモニターが設置されいくつかのテーブルと椅子が用意されていたが、あまり利用する人はいなかったような気がする。申し訳程度に壁際に飾られた花瓶には誰が管理しているのか枯れかけた花が活けてあった。
それがどうだ、特待生用の寮は。
玄関にロビーはあるが、それとは別にその奥にサロンがあり、先ほど談笑している人を何人か見かけた。
食堂の代わりに簡易的なカフェがあり、スタッフがいる間は自由に使って良いようだった。そりゃ外での仕事が多くなればわざわざ寮で食事をする必要もないわけで、その代わりに部屋にはキッチンがあると聞いていた。
いざ部屋に入ると、どうも間取りも違う気がする。ドアを開けると洗面所とトイレ、反対皮にはシャワールームがあった。廊下を抜けるとカウンターキッチンがリビングを向いていた。リビングを挟んで個室が二つ続いていた。
一般的なマンションの一室のような感じだけど、個室がある分前よりもきちんとプライバシーが守られそうだ。シャワールームには浴槽もあったが、地下と最上階に大浴場が二つあるらしく、使いたい時に自由に出入りができるようだった。
日和が躊躇なく左側の部屋に入っていったので、右が自分の部屋なのだろうと思い、意気揚々とドアを開けた。
「なっ、んだこれ」
そこには大量のハンガーラックと共に、収まりきらない量の洋服がかけられていた。よく見ると春夏モノがほとんどだった。
「その部屋は僕のクローゼットにしたね。こっちの部屋にもクローゼットはあるんだけど、ウォークインじゃないと使いにくいね。僕たちの部屋はこっちだね」
そう言って腕を引っ張る。
「スペースを広く取るために、二段ベッドというものを取り入れてみたね。これは狭い部屋をなんとか大きく使う貧乏人の知恵だと思っていたけれど、縦の無駄な空間を上手に使う、素晴らしいアイディアだったんだね」
ふんふんと鼻歌を歌いながら部屋の真ん中でくるくると回っている。まさかせっかく個室があるというのに、わざわざ同じ部屋で生活するとでも言うのか。
天井に吊るされた裸の電球を見上げ、無意識に乾いた笑いが口から溢れた。
「それよりジュンくん。せっかく同じ部屋で生活するんだから、先輩なんてやめてほしいね」
「いやでもそこはきっちりしないといけないんで」
染み付いたこの考えは、学園にいる間はそう簡単に変えられることはできないだろう。
*
部屋の中に充満する甘い香りは、最初こそ頭が痛くなったように感じたが、慣れれば案外気にならなかった。むしろ逆にベッドに入った瞬間寝落ちしてしまうくらい朝まで快眠だった。
ふかふかの新しい布団は、優しく二度寝を誘ってくる。いつもならここでもう一度瞼を閉じてしまうところだが、今日は珍しく目覚めがスッキリしていた。
いい匂いがキッチンの方から漂ってくる。そういえばお腹が空いたような気がする。ベッドを降りると、下で寝ているはずの日和の姿はそこにはなかった。
リビングに顔を出すと、机の上にフルコース並に皿がずらっと並んでいて、奥のキッチンで日和がケトルでお湯を沸かしていた。先に洗面所に行こうと思ったら、日和に気付かれてしまった。
「おはようございます、巴先輩」
「おはよう。初日だし昨日は買い出しも行かずに寝てしまったから冷蔵庫に何もなかったね。馴染みの店にデリバリーを頼んでおいたね。ジュンくんはコーヒーでいい?」
「はあ。お願いします」
「ジュンくんの好みがわからなかったから、とりあえず無難なものにしておいたけど。食べられるかね」
机に目線を戻すとトマトとレタスのサラダ、ブルーベリージャムの乗ったヨーグルト、かりかりに焼かれたハムエッグ、大きなソーセージ、ハッシュポテト、クロワッサンにオレンジジュースが所狭しと乗っている。ここはどこかのホテルか。そもそもあの細い体にこれだけの量の食事が収まるとは思えない。
前の寮での朝食は、主食におかずが一、二品あれば十分だというレベルで、栄養的には問題ないだろうが多少質素な印象を受けていた。家にいた頃も思い出してみるが、それでもこんな何品もあるような朝食は記憶になかった。さすが財閥の息子というか、この人は限度というものを知らないのかもしれない。
「デリバリーって。いくらしたんですか?俺あんま金ないっすよ」
「まさか。僕が食べたくて用意したから、ジュンくんは食べるだけでいいね」
先に顔を綺麗にしてくるね、と付け加えられた。昨日までの生活と違いすぎて、まるで夢でも見ているようだった。顔を洗えば現実世界に戻ってこられるだろうか。起き掛けに少し話し込みすぎたと思い、急いで洗面所に向かった。
結論から言うと、朝から確実に食べ過ぎた。少し冷めてしまったものもあったが、それも込みで味付けされているのか、どれも美味しかった。正直味の違いなんてわからないが、いつも食べているものより美味しいということはわかったような気がする。
食後に先ほど日和が準備していたコーヒーを手渡され、ミルクと砂糖を入れて一息ついた。
「ランチは仕事先とかで食べるからいいけど、朝と夜はなるべく部屋で食べたいね。ジュンくん料理は作れる?」
「まあ、人並みには」
「そう。じゃあキッチン用品もちゃんと見に行こうね」
「授業出る日とかも簡単なものでよければ、例えばおにぎりとかで良ければ作りますけど」
「君、特待生になったんだからもう授業も学園の行事も、基本的には出なくてもいいはずだけど」
言われてみればそうだ。誰も聞いていないような授業で、ただ時間が過ぎるのを待つだけの一般科目に出る価値はあるのだろうか。実技系はともかく。
「でもこう、一般教養は身につけておいてもいいんじゃないすかね。いつか役に立つかもしれねえですし」
「ふむ、そうだね。クイズバラエティとかで恥をかかない程度にはお勉強はしてほしいけどね」
正直あまり勉強は得意ではないが、都道府県くらい覚えればいいだろうか。どうせバラエティ番組に出るのであれば、身体を動かすものだとか、筋肉を活かせるやつとかがいいなと思う。随分昔にクイズに答えながら障害物とかをクリアしていく番組があったなと思い出した。
「ただ、ジュンくんにはまずダンスの基礎を覚えて欲しいし、ちゃんとボイストレーニングも受けてほしいと思っているからね。しばらくはクラスには行けないと思った方がいいね。来月にはデビューライブも決まっているしね」
「はあ!?ライブ?だからそういう大事なことを全く聞いてないんすけど」
「そんなことより、買い物行くんだからはやく着替えてくるね」
俺にとってはそんなことではないし、詳しく聞きたいのにあれよあれよと流され、二人で街へ繰り出すことになった。
*
日和との買い物はもはや体力勝負だった。気が付いたら次の店に勝手に進んでいるし、買った荷物はすべて持たされた。昼を迎える頃にはすでに両腕が買ったものでいっぱいになっていた。
「夢ノ咲にいたころは実家から通っていたからね。こっちには服以外ほとんど持ってきていないんだ」
どうりで荷物に偏りがあると思った。部屋には備え付けの家具以外見当たらず、昨日も自分の荷物ばかりが散乱していた。
「なんか配送サービスっていうの使えないんすか?」
「さすがにジュンくんもこれ以上は持てないね。あ、でも贔屓にしているお店があるからもう少し見て行っていいかね」
拒否権は最初からないはずだ。首を縦に振るといっそう顔を綻ばせる。黙って日和についていくと、入ったこともないような店に連れていかれた。
店員も日和に気付いたようでわざわざ出迎えに来る。こんなところで貴族との差を感じて、ドラマや映画の中の世界だけでなかったのかと納得し変に感動していた。
二時を少し過ぎた頃、少し遅めの昼食にするために適当な店に入った。食べられればどれでもいいと思いオムライスを頼んだが、思いのほか美味しかった。日和はキッシュのランチプレートを頼んでいた。
「あれ、昼はコーヒーじゃないんすね」
食後に持ってこられたのは自分のアイスコーヒーと、日和の
ホットティーだった。
「僕はどちらかというと紅茶の方が好きだね。ジュンくんも美味しい紅茶の味を覚えて欲しいね」
「俺に違いなんてわかりますかねえ」
謙遜ではなく本当にそう思っているので、苦笑いで返した。
3
正直、今まで受けてきたレッスンがいかに無意味だったかを思い知らされた。いや、それなりに基礎はできていたはずだから語弊があるかもしれない。アイドルになることを目標としている一般生向けの内容と、アイドルでいることを目的としている特待生向けではその目的が違う。
筋トレである程度体力は付けていたと思っていたが、たかだか半日通しでダンスレッスンを受けただけなのに、息切れどころでは済まされず立ち上がる気力すら起きなかった。体幹にも自信があったが、講師からすると及第点。それこそ全身を動かす動作はどうしても身体が重く、思ったように動かない。
隣で同じ動作をしている日和は、羽が生えているかのように軽やかに舞っていた。
「ジュンくんは筋肉をつけ過ぎだと思うね」
レッスン前に日和からなんとなく言われた一言だったが、講師からも全く同じことを指摘された。筋肉の動きに沿ったものであれば映えるとは言われたが、Eveは女性的なイメージを持つ以上、不必要なものは極力避けるべきなのだろう。
「踊る時に必要な筋肉はまた別だからね。どちらかというとしなやかさを出したいから、調整できるところはなるべくやってほしいな。専門のトレーナーを紹介するよ」
「ありがとうございます」
「まあ、最近のアイドルは肉体美で売っている子もいるけど。プロデューサーと一度相談してみたらどうかな」
「あの毒蛇がジュンくんに対して素直に首を振るとは思えないね」
日和の口からたまに出てくる呼称。プロデューサーのことだとは辛うじてわかるが、意図的に情報が伏せられているのだろうか、よくは知らなかった。
「とは言っても、日和くんが言うようにあまり筋肉をつけ過ぎてもよくないから、今後はほどほどにね」
*
Eveを結成するにあたり教えられた情報は二つ。
秀越のアイドルユニット、Adamと合体してEdenというユニットであるということ。
Eveは女性観を重視すること。つまり反対にAdamは男性観を主体とするのだろう。
方針的にはしばらくは個々のユニットで活動して知名度を上げていくらしい。専属プロデューサーにも、Adamのメンバーにもまだ会ったことがない。AdamはEveよりも先に活動し始めているが、秀越内でのライブが今はまだメインで、お目にかかったことはない。
昼を挟んで午後はそのままボイストレーナーがやってきた。そこでも今までにないような指摘を受けて、心の底からありがたいと思う反面、一般生にもきちんとしたレッスンを受けさせて欲しかったなと遠くの空を眺めた。
「きついっすね」
一通りのレッスンを終えて部屋に戻る。忘れないうちに自主練でもして頭に叩き込んで置こうと思ったが、身体は正直だ。リビングの床に大の字に倒れ込んで起き上がれなくなった。
「ジュンくん、少し休んだらはやくご飯を作って欲しいね」
後から日和が涼しい顔をして入ってきた。あれだけ動いていたのに、疲れていないのだろうか。
「たまには巴先輩が作ったらどうなんすか」
「僕が作ってもいいけど、それは自分のためにすることだから、ジュンくんの分は作らないね」
「はあー。とんだお貴族さまっすね」
まあ、最初から期待はしていなかった。
ベッドに移動して心地よく寝たいところだが、一度沈んだら戻ってこられない気がした。重たい身体に鞭打ち、いそいそとキッチンへ向かった。
「ねえジュンくん、そろそろその他人行儀やめないかね」
「無理っすね〜」
冷蔵庫から出してきたにんじんを剥きながら、応える。顔を見ないで返事をしている時点でどうかとは思うが、この玲明で刻まれた厳しい上下関係に反することはできなかった。身に刻まれているというか、もはや無意識の成すことだろう。
ちらりと日和の顔色をうかがうと、むうと頬を膨らませていた。
夕食後、片付けを済ませてから一人練習室に戻った。はやく日和に追いつきたい。今日の練習でも目の当たりにしたが、日和に比べて能力的に明らかに劣っている。夢ノ咲でアイドル活動を、しかもかなり有名なユニットにいた人と比べること自体がおこがましいけれど。
自己評価が低すぎるとは思わないが、比べる相手がいけないのだ。性格はともかく、アイドルとして完璧に出来上がっている人間と組まされて、それがさらに浮き彫りになる。
どのユニットもその中でメンバーはそれぞれの役割を果たしている。日和と自分を差別化できるものは何かあるだろうか。いくら考えようとも出てくる答えは一つしかない。
まあ今以上に筋肉がつくのは本意ではないので、今の体型をキープするためであれば問題ないだろう。練習室を綺麗に元通りにしてからトレーニングルームに向かい、いつもの日課をこなした。
*
二週間も経てば自然と身体が動くようになってきて、レッスンも難なくこなせるようになってきた。もちろんそれで満足してはいない。もっと上達しないと見せられるものでないことはわかるし、中途半端なまま仕上げるつもりはなかった。
三週間経った頃からデビュー曲の振り付け練習のほうにシフトしていった。一人の踊りではなく二人の、Eveとしてのステージを意識しながらのダンスは、今までよりも難しく感じた。
少しでもタイミングがずれれば全体的に見劣りするし、最悪の場合衝突だって避けられない。しかも今回の楽曲では中盤のサビ前に至近距離でのやり取りがあって、近過ぎる顔に毎回思わず笑いが出てしまい怒られる日々が続いた。本番ではうまくやらなければならない。綺麗な顔というのは、いつまでも見慣れない。
「今日は一日、レッスンないよね。ちょっと出掛けるから準備しておくね」
早朝のランニングを終えて部屋に戻ると、珍しく制服に身を包んだ日和がいた。五月でも、もう暑い日はジャケットを羽織るだけでも汗が出てくるくらいなのに、涼しい顔をしている。
「自主練習したいんすけど」
「詰め込みすぎも良くないね。きちんと身体を休ませることを覚えないといけないね、ジュンくんは。ちょっと会わせたい人がいるから、ちゃんと付いてくるね」
半ば強引に話を進められてしまった。誰だろうと思い当たるだけ頭に並べてみるが、考えたところで正解などわからないなと思ってやめた。
「わかりました。汗流してくるんで、ちょっと待っててください」
軽く朝食を済ませてから今度は練習室にいこうと思っていたからタオルでしか汗を拭いていなかった。さすがに外に出るのに汗臭いままではいけないと思いシャワー室へ向かった。
駅前のカフェは、チェーン店ながらも雰囲気がよく、店内の装いはシックにまとまっていて静かで居心地が良かった。運ばれてきたコーヒーカップは真っ白で汚れひとつない。
待ち合わせ場所だと連れてこられた。相手はまだ来ていなかったようで、四人席に通されてどこに座ろうか少し悩んだが、日和に腕を引かれたので横にちょこんと座った。まるで日和の付属品のようだ。
まだ少し早いがもうすぐ昼飯どきで、急いでいてまともな朝食を取れなかったせいかお腹が鳴った。軽くつまめるものも頼んでよいかと確認したら大丈夫と返ってきたので、追加でカツサンドと日和の分のサラダを注文した。
しばらくすると、一人分にしてはかなり量が多すぎるカツサンドが運ばれてきた。思わず店員を二度見してしまったが、慣れているのか無視された。
一切れ齧ってみると、揚げたてなのか衣はさくさくで、肉は簡単に噛み切れるほど柔らかく、脂身が少なくさっぱりしていた。甘いソースに、少しピリッとするからしが付いていて食欲をそそった。一切れ食べるかと日和に勧める。お気に召したようで、今度作ってほしいと強請られた。
まだカツサンドが半分残っているところに、ちょうど待ち合わせ相手がやってきた。
「お待たせしてしまい申し訳ございません。前の打ち合わせが少々長引いてしまい」
「僕を待たせるなんて、いい度胸しているね、全く。次はないからね」
「やや、漣氏とは初めましてですな。七種茨と申します。以後お見知り置きを」
勢い良く挨拶され、やや戸惑う。
「ジュンくん、これがプロデューサーだよ。Edenのメンバーの一人でもあるね」
「はっはっは。これ呼ばわりとは。相変わらず手厳しいですな殿下。もう少しお手柔らかにお願いします」
挨拶を返す間も無く会話が二人で進んでしまい、ぺこりと頭を下げるだけに留まった。
結局会話には入れず、蚊帳の外にいた。二人の間にはバチバチと目線で火花が散っているように見えたが、気のせいだろう。
日和がこの打ち合わせに同行させた意図はよくわからないが、ライブの最終打ち合わせのようだった。最終にしてはやや早すぎると思ったが、先程の話から茨がプロデューサーでありアイドルでもあることから彼も忙しいのだろう。
耳を傾けながらわかるところだけ掻い摘んでなるべく理解するように努めた。ただ最後の方は結局わからなくなってしまったので、冷めてしまったカツサンドの残りに手を伸ばした。
*
「ジュンくんは茨に会ってどう思った?」
カフェからの帰り道、不意にそう聞かれた。
「親しみやすいとかそういうのではないですけど、悪くはなかったと思いますけどね。まああの笑顔の裏で何考えているかわからなさそうな感じはしましたね」
「ふふ、ジュンくんにもそう思われてしまうなんて。毒蛇もまだまだだね」
日和は茨と反りでも合わないのか。そこまで嫌悪する対象ではないと思う第一印象だったけれど、何かあったのだろうか。
正直茨のことをアイドルと聞かされてもピンとはこなかった。最近売れているような連中は、一通り見てきたような気がするから、自分と同じように急に召し上げられたのか。
「学校に戻ったらちょうど一時くらいですよね。午後はちょっと授業に出ようと思っているんですけどいいっすか?」
「今日はフリーなんだからいちいち確認しなくても良いけどね。僕もついでに出ようかね」
「ありがとうございます」
4
久しぶりの授業でも、なんとか頭に内容が入ってきた。正直この先もずっとアイドルでいられる保証なんてどこにもないから、勉強できるときに、しておいて損はない。
相変わらず教室の机は空きが目立つ。むしろ特待生で授業に出る方が珍しいのかもしれない。せっかく出てきたのに今になって急に眠気が襲ってきた。もはや授業を聞くというより、頑張って起きていることに意識を集中させていた。
やっとチャイムが鳴って開放された。凝り固まった筋肉をほぐすように伸びる。教卓に目を向けると、教師が帰るのと同時に担任が入ってきた。まだもう一コマあるはずだが変だなと思っていると、自分の机の隣までやってきた。
「漣。授業が終わったら少し来てくれないか」
普段関わらない担任に珍しく呼ばれた。
「っていうわけなんですけど……」
担任に呼ばれた訳を、寮に戻ってから日和に話した。
「ジュンくんが本番のステージに慣れるっていう意味で僕はいいと思うけど、毒蛇に確認してみないとね。一応あれでもプロデューサーだしね」
内容は、地元の少し大きなショッピングモールでのライブの話だった。元々予定していたユニットがステージに立てなくなったとかなんだとか。それがコズプロのアイドルだったので、同じ事務所内で誰かいないかということで白羽の矢がたった。
もちろんデビューライブを控えているため、Eveとしての新しい曲を歌うわけにはいかず歴代アイドルのカバー曲を歌うことになる。リストをチラッと見て、小さい頃から知った曲がないか探してみたが、それは見当たらなかった。
最初の頃のレッスンや有名どころは、去年の授業で受けていたのでダンスも歌も頭には入っている。不安なところもあるが、やってみたいという気持ちの方が強かった。
茨に電話で確認すると、最初はあまり良い返事をしなかったが、知名度を上げるためということで渋々承諾してもらった。それでも一週間後にせまったライブに支障がないようにとのことで曲目は最低限に絞られた。
*
「緊張している?」
「大丈夫っす」
モールライブ当日。買い物で何度も来たことがある風景になんとなく安心感を覚える。しかし、緊張していないなんて嘘だ。スタンバイしているステージ袖から見える客席が、現実だと知らしめる。最初が肝心だ。失敗なんか許されない。
「そう、頼もしいね。今日はうんと楽しもうね、ジュンくん」
花が咲いたような笑顔は一瞬だけ緊張を解してくれたような気がした。
司会者の紹介と共に登場して、まずは一曲目。アップテンポではあるもののそこまで激しいダンスパートはないし、歌詞もちゃんと覚えている。それでも、本番は練習と同じようにはいかない。
リハの時にはいなかった観客がひしめきあい、誰も彼もがステージに熱い視線を送っている。最前のあたりでは、三歳くらいの女の子が母親のスカートの裾を握りしめながらきゃっきゃっとリズムに合わせて身体を揺らしていた。
練習通り、練習通り。そう思い込めば思うほど、どんどんと呼吸が浅くなる。しっかりと空気を吸い込めず酸素が足りなくなる。
急に足が鉛のように重くなったように感じた。まるで歓声は乾いた砂のように押し寄せて、身体中から水分が奪われるようだった。縋るような思いで、隣で踊っているはずの日和に目を向けたが、見当たらない。
どこにいるのか、もはや自分がどこに立っているのかすら、わからなかった。たった四分間のはずなのに、このまま永遠に終わらないかと錯覚した。
次の曲が始まる前に、一度舞台袖に捌ける。上手く呼吸が整わない。
「ゆっくり、吐いて。吸うことは考えなくてもいいからね」
いつの間にか隣にいた日和に肩を抱かれた。言われるがまま、とりあえず肺に入っている空気を全て吐き切る。もうこれ以上はなにも出ないところまで吐いた。
「そう、上手だね」
力を抜くと、自然と酸素が入ってきた。新鮮とは言い難くとも、酸素が脳に行き渡る感覚があった。
「すみません、俺……」
「ジュンくんは、もっとライブを楽しめばいいね。今の君は見ているこっちも苦しくなるね」
そんなことを言っても、楽しむ余裕などあるはずがない。
常温のペットボトルをスタッフに手渡されて、半分ほど一気に呑み込んだ。火照った身体を十分には冷ましてくれなかった。
二曲目はステージを大きく使って、それぞれを見てもらえるような配置にしていた。せめて一曲目の挽回だけでも、この舞台でしておきたいと気合を入れ直した。
再びステージに戻ってきた。最初こそ客の意識は近くで踊っている方に向いていたが、段々と日和の方ばかりにいく。それはステージ上で踊っている自分にさえはっきりとわかった。
歩数で言うと、お互いに大股で歩いて五歩くらい。それしか距離が離れていないはずで、同じステージに立っているはずなのに。この狭い空間がただただ広く感じた。
隣にいるあの人とは、もはや存在のレベルで違うのか。経験の差という一言で済ませられるものではない。あれだけ、ダンスも歌も練習したはずなのに。
せめて歌だけでも、と声を出すが上手くマイクに音が入らない。イヤホンから音楽は聞こえているからマイクだけ壊れたか。どうすれば良いか、冷静に考える頭はすでになかった。一秒にも満たない時間だったが、日和は何かを感じ取ったのか、代わりに歌い出した。
曲が終わる頃には頭の中は真っ白になっていた。
*
イベントが終わっても、沈んだ気持ちが全く上がってくる気がしなかった。日和と並んで歩いているが、いっそ逃げ出したかった。控え室に入っても、どこにも居場所がないと感じてしまい入り口付近に呆然と立ち尽くす形になってしまった。
奥の椅子に座った日和に、まずは座るようにと促されるが、足がうまく動かなかった。それを見た日和は少し眉をひそめたが、最後に一つため息をついた。
「マイクのトラブルはジュンくんのせいじゃないよね?別にそこまで落ち込まなくてもいいと思うね」
結局二曲目はそのまま日和のソロで終わらせ、MCパートが始まる前にこっそりヘッドセットを交換した。
「それよりも、一曲目、一番のBメロのサビに入る直前。ステップを間違えためね」
「すんません」
「三曲目もターンした時に方向間違えて最後の立ち位置間違えたね」
「すんません」
「……」
「……っす」
握り締めた拳を震わせて、ただただ先程のステージを思い返す。ミスをした瞬間の記憶が鮮明で、脳裏から離れなかった。ミスをするたびに、一枚、一枚重い板がのしかかるように感じて、最終的に身動きが取れなくなった。
悔しくて堪らなかった。ステージのライトが、こんなにも熱くて重くて、本番のステージがこんなにも孤独だったなんて。
「なにをそんなに怯えているのかね」
「失敗したら、アイドルなんて終わりじゃないっすか」
次があるなんて思っていない。いつだって今が全て。いくら練習を重ねたところで、本番で上手くいかなければ意味がない。この世界は弱肉強食。強いものだけが生き残る。
これで俺の底力も晒されてしまったわけだ。なんて短いアイドル人生だっただろうか。
「ジュンくんは、何のためにアイドルをしているのかね」
5
校庭が見渡せる窓際の机は、カーテンをしていないと初夏の日差しが容赦なく降り注いだ。時折涼しい風が吹いて身体を撫でる。ぼんやりと外を眺める。終業のホームルームが終わり、クラスメイトはこれから各々ユニットの練習に励む。
昨日はどうやって寮に戻ったか覚えていない。ライブが終わって、日和と話してからの記憶が曖昧で、朝起きたらベッドの上だった。
そして日和はいなかった。愛想をつかされたのだろう。Eveでなくなった以上同室でいる意味はない。
これからどうしよう。また新しいユニットを組むために学内を駆けずり回らなければならない。昨日の失敗はきっと噂になっているだろうし、そんな自分と組んでくれる人はいるのだろうか。
その前にあの部屋を出なければいけないな。せっかく少なくない荷物を移動させたばかりだったが。初日に部屋を移動させたのは早計だった気がする。こういう気まずい時に顔を合わせるのも嫌だし、きっと向こうもそれが嫌で黙って部屋を出て行ったのだろう。
外泊するためには、寮監に事前に許可を取らないなといけないが、特待生はそんなところも融通が利いて羨ましい。
『何のためにアイドルをしているのか』
昨日の日和の言葉を意味もなく繰り返す。そんなこと決まっている。アイドルはファンのために在るのだから。誰だってそのはずだ。