噂五条家当主が住まう邸宅には誰の目にも映らず誰もたどり着けない「奥」があるらしいとの噂。
またはあれは邸宅などではなくかつて凶行にはしり当主によって処理された男の呪いが封印されているらしいとの噂。
それとも未だに独り身の当主の身分違いの愛妾をかくまっているとの噂。噂噂噂噂噂。
噂
その噂は全て間違いで全て当たっております。
私は以前そこに務めておりました。当主様というよりは当主様の奥様のお世話をする身として、私以外にも屋敷には最低限に絞った数の使用人がおりました。私はその中でも一番の若輩でしたが奥様の側仕えとして選ばれ身が引き締まる思いでありました。
奥様は……傑様は、立派な体躯の男性で、初めて拝顔した際は女性にお仕えするものとばかり思っていた私はとても驚き、キャッと飛び上がりました。
そんな無礼にもかかわらず奥様はどこか面白そうに、当主様はどこか面白くなさそうに眺めておりました。
お世話といっても日常生活のほとんどを奥様はひとりでお出来になりました。ただ隻腕でしたのでやはり不便な事もあり、そうすると柔らかい声で私を呼ばれるのです。
此処に仕える者は全て当主様が名を明かす事を禁止していましたのでただ「ねえ、君」と呼びかけるだけなのですが、奥様のあのお声で呼ばれますと何故でしょうか、その、望むこと全てを叶えたくなるのです。
既に寝間着から着替えて梳き終わっている奥様の髪を結い、食事を運び、寝室を整える。奥様のお部屋にはよく当主様も出入りされるので塵ひとつ磨き残しひとつも無いように心がけておりました。
当主様はご多忙な方ですがそれでも夜には邸宅へお戻りになられます。
ほとんど毎日です。
ですが使用人の誰もそのご様子を目にする事はありません。
当主様がご帰宅される前には、玄関に取り付けられた鈴の音が二度鳴ります。私どもは屋敷のどこにいても不思議と聞こえる、ちりんちりんと響く音色を耳にしましたら母屋から下がる決まりでした。
その後また当主様が屋敷を出る際に鈴を鳴らしますので、こちらは一度のみです、それを合図にまた母屋へと渡るのです。
奥様のお部屋は質素ながらも上品な造りで室内の片隅に葛籠があり、それだけには私は触れる事が許されておりませんでした。
一度、奥様がその葛籠の中を広げぼんやりと眺めているところに出くわしました。
高価な物ではなく、昔のゲーム機や映画のDVD等そんな娯楽用品が主だったと記憶しております。
それから奥様は時おり庭にお出になられるのでそのお供をいたしました。外出されない代わりに庭へ赴き樹木や花々を眺めるのです。あの庭は広さとしては他の五条の屋敷の庭よりは小さいかと思われますが、それでも見る者の目を楽しませようとあらゆる花が咲き誇ったそれは見事な庭でした。きっと当主様が奥様のために用意したのではないでしょうか。
散策する奥様の後ろ姿を私はいつもただ雛鳥のように着いていくだけでしたが、揺れる美しい黒髪と奥様は香油を使ってましたので、そのかぐわしい香り、大きくて頼もしい凛とした背中。この時間が少しでも長く続けばとそればかりが頭をよぎります。
もし奥様がこちらを振り向いて微笑んでくれたら。
もし奥様があの柔らかい声で私の名を呼んでくれたら。
その頃には熱病のように奥様をお慕いしておりました。初恋だったのです。
だからでしょうか。あんな事になったのは。
あの日、雨のあと未だ滴を含んだような空気のなかいつもの様に庭を散策していた奥様は、ふと立ち止まるとご自分の足元に視線を流しました。
飛び石のそこには立派に育ったハナミズキの白い花がひとつ落ちておりましたのでそれを屈んで拾い上げると、どこか優しい手つきで撫でそれから私へ。
そうです。確かに奥様は私へ花を。
「駄目だよ、傑」
当主様でした。
いつの間にか、まるで始めからそこに居たかのように奥様の手首を掴んで立っておられました。
曇天模様に当主様の蒼色の目だけが明るく輝いてとても美しく、とても恐ろしい光景でした。
こんな時間にお戻りになるとは聞いてませんでしたし、あのいつもご帰宅を報せる鈴の音もしませんでした。
動揺して震える私を奥様は庇ってくださいました。
「花を拾って渡そうとしただけだ」
「そうだね、分かってる。オマエの誠実を疑うなんてこと僕はしない」
奥様の身体が強張るのが分かりました。
「でも、駄目だよ」
あらゆる者を平伏させる、強いお声でした。
「おいで」
当主様は歌うよう告げて、奥様を白い着物で覆い隠すように引き寄せると屋敷へ戻られます。
現れた時から終ぞ、その視線が奥様以外に向かうことはありませんでした。
そこからおふたりは寝室に籠られて出てくる事はなく、ただずっと奥様のすすり泣くような声が漏れ聞こえて……。
分かっております、ええ分かっております……いいえ、嘘です。
全て嘘です。
嘘よ。
知りたくなんてなかった。
だって奥様の、傑様の、あんな春の猫のように喘いで淫らな言葉で当主様に愛を乞う姿なんて。
あの花を私に贈ったわけではない事くらい分かっていました。ただ本当に拾ったので渡そうとしたのだと思います。
だって私が禁じられていた己の名を捧げそれで呼んで欲しいと、どれだけ懇願してもあの方は決して呼んでくださらなかった。
それなのに当主様の名は何度も何度も蜜色の声で呼ぶんですもの。傑様の心が誰のものかなんて。十分すぎるくらい存じ上げております。
それから程なくして私は暇を出されあの屋敷を去ることになりました。私だけではありません。あそこに仕えていた全員です。以降、この屋敷には一切誰も近寄らぬようにと当主様のご命令でした。
これが私の知っているあの場所の全てです。
傑様が大罪人である事も、当主様からの寵愛をうけあの場所で密かに愛でられているのも事実です。なのにどうしてこうも噂しか流れないのか。
これには当主様による「呪」がかかっているからです。あの邸宅について誰かに漏らしたとしても、内容が正確に伝わらず曖昧な風聞としてしか残らない。
ですので私が話したところで世間にまたひとつ噂が増えるだけでございます。ああ、この話を聞いてる貴方が羨ましい。
私もいっそ傑様の事を忘れてしまえたら。