安寧 頭の中で金づちでも振るわれているかというほどの痛みに、ほとんど気を失うように眠りに落ちて、どれほど経っただろう。どうにも寒くてならず、ビョルンは否応なしに、眠りの淵から引き上げられた。
かぶっていた毛皮をさらに耳元まで引き上げ、肩の下に端を巻き込んだが、そうすると足の先が出てしまう。薄暗い室内を見回すと、向かいの寝台に毛皮が積んであるのが目に入った。重い足を引きずり、一枚取ってきて肩からかぶる。多少は寒さがやわらいだようだが、こればかりはこの高熱がおさまるのを、じっと待つしかない。
しばらくうとうととしていると、耳慣れた足音が近づいてくるのが聞こえた。やがて扉がきしむ音がして、月桂樹の香りをかすかに感じる。寝返りをうとうとしたとき、すっと額に、彼の手が触れた。いつもながら体温の低い、乾いた手だった。
「ひでェな。また熱が上がったんじゃねェか」
「……たぶんな」
「だから言ってるだろう、あんなもん使うなって」
「食わなきゃ、……負けてた」
溜息と、しぶしぶ頷く気配。寝返りをうつと、眉を曇らせたアシェラッドのまなざしに迎えられた。
激戦だった。フローキの依頼で加勢した戦だったが、アシェラッド隊は最前線に配置され、しかも相手は強かった。ビョルンが狂戦士のキノコを服用して大暴れしなければ、おそらく押し返しもできずに敗走するはめになっていたことだろう。
――戦場では、勝ち負けがすべてだ。
どれほど働いたところで、負けてしまえば戦後の稼ぎはない。勝てば給金は倍増だ。ならば勝つために、どんな汚い手だって使うのは、戦士としては当然のことではないか。
起きられるか、とアシェラッドが囁く。左腕を支えに半身を起こすと、背中に手が添えられた。差し出された盃の中に入っていたのは、酒ではなくカモミールだった。不服そうに口の端をゆがめたのが目に入ったのだろう、彼が苦笑する。
「気休め程度にしかならんだろうが、飲んでおけよ。頭も痛むんだろう?」
「ワインくれェで……これ以上、熱が上がったり、するもんか」
「わからんぜ? 狂戦士のキノコの毒で、今お前のからだは弱っている。すこしでも、養生することだ」
飲み干すまで監視すると言わんばかりに、アシェラッドは椅子を引き寄せて腰を下ろす。しぶしぶ、ビョルンは口をつけた。熱のせいか、カモミールの風味はまるで感じられない。ただぬるい液体が、喉から胃袋の中へと流れてゆくことだけはわかった。
喋るのはつらいだろうから、返事はしないくていい。そう前置きして、アシェラッドはまた口を開いた。
「さっきも言ったがな、ビョルン。お前もう、あんなものに頼るのはやめてみたらどうだ」
――何言ってんだ、あんた。
精一杯の怒気をこめて睨んだが、例によって彼は肩を竦めて苦笑しただけだった。
「お前だって気づいてるんだろう? 前よりも症状がひどくなってる。前は発熱しても、こんなに高熱にはならなかったはずだ。あれの毒のせいだってことは、どんな間抜けだって察しがつく。去年のフェローのときだって、あれから船倉で二日間寝込んだろ。」
「……」
「人間に自我をなくさせるような毒だ。あれの毒がどんな影響を人体におよぼすのか、よくわかっていねェのは、使った人間が証言を残す間もなくくたばっちまったってことだろ。このままあれを使い続ければ、そのうちお前のからだだけじゃなく、頭も蝕まれちまうかもしれねェ。からだ壊して船に乗れなくなったら元も子もねェし、オレに殴られても、正気を取り戻せなくなることだって、ないとは言えねェぜ?」
「そんな、しょっちゅう……食ってる訳じゃねェだろ」
「頻度の問題じゃアねェよ。それにお前を正気に戻せるのがオレだけってのも、結構問題なんだぜ?」
口答えしたせいか、アシェラッドはからになっていた盃を取り上げると、野良犬でも追い払うような手つきで右手をひらひらさせる。早く横になれ、ということなのだろう。おとなしく、ビョルンは毛皮の中にもぐりこんだ。
「素面のお前にだって、敵うヤツなんてうちにゃいねェんだ。あのキノコを食ったお前に、束になったって歯が立つはずねェだろ。もしオレがそばにいないときに、お前を正気に戻さなくちゃいけない局面になったらどうする? 手がつけられねェ状態のお前に、連中が何をするかは……わかるだろ」
「……」
「おっと、長くなっちまったな。とにかくだ。狂戦士のキノコみたいな危ねェモンに頼らなくても、お前はじゅうぶん強ェだろ、ってことだ」
さっさと寝ろ。そう言われるがまま、ビョルンは目を閉じたが、腹の底では割り切れぬ思いが渦巻いていた。
――あんた、わかってるくせに、……アシェラッド。
そう、すべては彼のためだ。彼の名声を高めるため、彼に恥をかかせぬため。あの毒物にビョルンがすがるのは、いつだって彼のためだった。自分が並より強くて、頭も回る人間だということは、ビョルンもわかっている。しかし自分の持てる力以上の働きが必要なときもあるし、アシェラッドがそういったことに気づいていないはずはない。
しかし人の心を読むことに長けているくせに、彼は本音を嫌う。自分の本心を容易に口に出さないだけではなく、他者のまっすぐな気持ちに向き合うことも避ける。それはおそらく、過去に彼が受けた傷のせいだということを、ビョルンはおぼろげながら察している。尋ねたりは、絶対にしない。それこそ彼の逆鱗に触れるだけだ。
そして、ビョルンが察していることは、もうひとつある。今、彼は機嫌が悪い。むやみに喋るときは機嫌が悪いか、本心を隠したいか、あるいは両方か。何年もそばにいると、それくらいのことは読めるようになった。
――フローキに、なにか嫌味でも言われたか。
自分たちのような傭兵を見下す、傲慢で陰湿なあの男のことを、アシェラッドが軽蔑しているのは、よく承知している。それでもフローキに恩を売るのは、スヴェン王のお覚えめでたいあの男をつてに、ゆくゆくはデンマーク王宮に出入りできるような地位を築くためだろう。それにしては、それほど頻繁にフローキの仕事を請け負っている訳ではないのが、疑問だが。……
思いを巡らせるうちに、また引き潮に漂うように、眠りへと誘われる。そして意識が途切れそうになったそのとき、突然何かが毛皮の中へと滑り込んできて、ビョルンは一気に覚醒へと引き戻された。
濃密に、月桂樹が香った。咄嗟に身じろいで、手の甲に触れた素肌に、思わず目を見張る。こちらを見上げるアシェラッドの凪いだまなざしと、むきだしの白い肩が、薄暗がりのなかでぼんやりと浮かび上がる。そのまま彼は両の腕を回し、ビョルンにしがみつくようにぴったりと身を寄せた。
「アシェ……」
「お前は服を着たままでいろ。汗かかなきゃ、熱は下がらねェ。汗かいたら、着替えさせてやるから」
なぜそこまで、と問うビョルンの目に、彼はめんどくさそうに鼻を鳴らす。そのくせどこか甘い雰囲気が、まなざしに宿っている。
「高熱のせいで寒がるヤツを、人肌であたためてやるのは常識だ。みんなやってるだろ」
「……」
「くどいぞ、ビョルン。今お前にいなくなられたら、オレが困るってだけだ」
いい加減、さっさと寝ろ。そう言い捨てたきりアシェラッドは黙り、やがて規則正しい寝息が胸元から聞こえてきた。
弱い光を放つ灯火に照らされて、彼の長い睫がきらきらと輝いている。とっくに見慣れた光景のはずなのに、その輝きはとても新鮮で、得難いものに思えてならなかった。アシェラッドとはもう、ずっと前から懇ろの間柄である。しかし肉欲のためだけと割り切った交合よりも、今こうしてさらりと乾いたからだを寄せあっているほうが、はるかに彼を近くに感じるのだ。寒がるビョルンをあたためるためというよりも、むしろアシェラッドがみずから望んで、こうしているようにすら見える。
すがりつく手を、そっとおのが掌で包む。自分が今感じている安寧を、彼も感じてくれていれば嬉しいと思った。
了