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    night201910

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    night201910

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    花怜×体育倉庫×初恋.



     あ、と聞こえた小さな呟きが、仕事に集中していた謝憐の意識を現実へと引き戻した。
    「どうしました?」
     手にしていた赤ペンにキャップを戻しながら隣の席へ視線を向ける。謝憐よりも一足早くテストの採点を終え、早く上がれることに上機嫌で帰り支度を始めていた師青玄が、今度はへにょりと眉を下げて「どうしよう」と頭を抱えていた。
    「当直だったの、すっかり忘れた……これから空港まで兄を迎えに行く約束してるのにぃ……」
     今からタクシーに乗るよう連絡する?いやでも飛行機の中じゃ無理かぁ……と絶望に染まった声でスマートフォンを手に百面相を繰り広げている。生徒たちを相手にしても大人ぶるところを見せず、屈託なく接するところが人気の師青玄だ。謝憐もそんな同僚の付き合いやすさを好ましいと感じている。採点途中だったテスト用紙の残りを数えた謝憐は、仕方がないと聞こえよがしに溜息を零した。
    「良かったら、代わりましょうか」
     でも今回だけですよ、と微笑んで見せることも忘れない。師青玄は救世主が現れたと言わんばかりに瞳を輝かせ、持つべきものは友だ、今度ご飯奢る!と大げさに感謝を述べて職員室を後にした。



     一人、また一人と業務を終えた職員が去っていく。それら全てに「お疲れ様です」と声をかけ、ふと気付いて周りを見渡せば、職員室に残るのは謝憐だけとなっていた。師青玄のおかげで週明けに持ち越そうと思っていた採点も片付いている。クラスごとに分けた紙の束を鍵付きの引き出しに仕舞い、謝憐は「さて」と大きく伸びをして腰を上げた。
     当直とは、テスト期間のみに割り振られる役割だ。部活動も禁止となっている期間に残っている生徒がいないか、鍵を掛け忘れた窓はないかを見て回る。最終的な防犯システムを作動させるのは夜間の警備担当だが、彼らが出勤するまでには数時間の空きがあった。そこで教師の一人が最終下校時間まで残り、事前の施錠確認をしていくのだ。
     職員室内の壁に掛けられたマスターキーを手に、謝憐はさっそく巡回へと乗り出した。放課後、無人の校舎はしんと静まり返っている。女性教師陣は気味が悪いと嫌がるけれど、夕日が差し込む学び舎はどこか幻想的で、異世界に足を踏み入れたかのような錯覚を起こさせる。謝憐は自分の足音のみが響くこの時間もそれほど苦手とは思わなかった。
     まずは教室棟をまわり、目視で全ての窓を確認する。次いで足を踏み入れる特別教室棟はテスト期間に生徒の出入りがない場所だ。各所の施錠さえきちんとされていれば問題はない。最後に訪れた体育館は念のため、という程度だが一応ぐるりと一周する。ステージ裏の小部屋や下の道具置き場に施錠のための鍵はなく、体育館を使い慣れた運動部の生徒たちは昼休みによくこの場所を利用していた。
     ステージ横の短い階段を下り、半地下になっている空間をちらりと覗き込む。するとどうだろう。目線の高さほどの場所にある小窓が僅かに開いているではないか。謝憐は今度こそ呆れ混じりの溜息を吐いた。おおかた、昼休みにこの場所を利用した生徒の誰かが換気のために開けた窓を閉め忘れたのだろう。こういう万が一があるから当直という仕事はなくならないのだ。今度、運動部を担当している先生方に注意をしてもらわなければ。
     積み上げられたマットレスや予備の椅子を避けながら進めば、足取りは自然と慎重なものになる。薄暗い室内では、等間隔に並んだ曇ガラスから差し込む午後の日差しが照明代わりだ。奥へ足を踏み入れるほど体育館特有のすえた匂いがいっそう濃く謝憐に纏わりつき、太陽光を反射した細かな埃がちらちらと舞い上がる。
     小窓はもう目の前だ。あと数歩で壁に手がかかる。窓の外から吹き込む風に乗って震える声が飛び込んできたのは、丁度その時だった。

    「好きです」

     不意に聞こえた言葉に、思わず足が止まる。咄嗟に息を殺し、首を伸ばして小窓の奥を覗き込めば、女子生徒のものと思しき細い足首と焦茶色のローファーが見えた。
     半地下になっている空間の、目線の高さにある窓。ここは体育館裏の地面の真横に位置している。状況から察するに、恐らく彼女は一人ではない。彼女の目の前には相対する誰かがいるのだろう。謝憐は先程の師青玄のように頭を抱えたくなった。
     放課後、最も人の少なくなる時期に体育館裏での告白。シチュエーションを考えれば微笑ましい青春の一ページだが、生憎、謝憐は教師だ。しかも、この仕事を終えなければ帰れないという不運に陥っている。よりによって生徒が居残りをしているなんて。
     頼むから早く済ませて下校してくれ、と項垂れて、仕方なく折り畳まれたマットレスに腰を下ろす。決して出歯亀をするつもりはない。本来なら声をかけなければいけないところを黙認する代わりに二人が帰るのを見届けるためだと、居心地の悪さは硬すぎるマットレスのせいにした。

    「ごめん」

     だが、告白を受けたもう一方の声を聞いた瞬間、謝憐は女子生徒と同じタイミングで息を呑んでいた。その声が、謝憐にとって懐かしい、良く聞き慣れた男子生徒のものだったからだ。
    (三郎……)
     無意識に思い浮かべたその二文字は、彼の本名ではなかった。彼の生徒名簿には花城という名で登録されている。そんな彼を、謝憐はなぜ「三郎」と呼ぶのか。今から、十年ほど前の出来事だ。

     当時、謝憐はまだ学生で実家暮らしをしていた。その頃、隣のアパートに一時的に住んでいたのが花城とその母親だった。
     初対面の彼は非常に人見知りをする子どもで、引越しの挨拶に訪れた際もずっと母親の影に隠れていた。よろしくね、と声をかけても全く顔を見せてくれず、この子と関わる機会はそれほど無さそうだと判断した矢先、近所のコンビニでひとりお弁当を買う彼を見かけたのだ。
     聞けば母親が多忙で、食事はほとんど一人きりで食べているという。その事実に衝撃を受け、謝憐は会計を終えた花城をほとんど無理やり自宅に連れ帰って一緒に夕飯を食べた。もちろん、事後報告ではあるが彼の母親に断りを入れることも忘れなかった。申し訳ないと遠慮されそうになったけれど、そこは人の良い謝憐の母も是非にと協力してくれた。
     それから花城は少しずつ心を開き、家庭内で呼ばれている「三郎」という呼び名を謝憐に明かしてくれた。そして二人は花城が再び引っ越してしまう数年間を兄弟のように過ごした。お別れの日には二人でめいっぱい抱き締め合い、絶対にまた会おうねと約束をしたのだ。哥哥が大好き、誰よりも一番だと強く強く抱き着いてきた彼の腕の感触を忘れたことはなかった。
     暫くは手紙でのやりとりが続いたが、その後、花城の母親の再婚をきっかけに彼らは海外へと引っ越し、事前に教えられた住所が宛先不明で戻ってきた時──恐らく花城が書き間違えたのだろう、他に連絡手段のなかった二人のやり取りはそれきり途絶えてしまった。
     しかし数年後、謝憐は偶然にも花城との再会を果たす。謝憐が教師として籍を置いているこの高校に、彼が入学してきたのだ。
     いつの間に、そしてなぜ戻ってきたのかはわからない。けれど、気付いたときの喜びはひとしおだった。見上げるほど背が伸びていても、顔立ちが大人びていても、ひと目で花城だとわかった。
    「三郎……!」
     再会が嬉しくて、謝憐は入学式を終えた廊下でさっそく彼を呼び止めた。久しぶり、ねえ覚えてる? たくさんの生徒がひしめき合う中で声をかけた謝憐は間違いなく浮かれていた。あの小さかった花城が、また「哥哥」と呼んでくれることを密かに期待していた。
    「……あまり人前ではそう呼ばないで」
     だが、返ってきた言葉は謝憐が想像していたものではなかった。低く心地の良い声で、花城は子どもの頃の懐かしい呼び名を優しく拒絶した。呆然とする謝憐に花城は続けて何かを言いかけたが、それも近くにいる女子生徒の集団が「二人は知り合いなんですか?」と会話に入ってきたことによって遮られてしまった。
     あれほど親しくしていたにも関わらず、彼はあの頃のことを忘れてしまったのだろうか。直後は落ち込みもしたけれど、大きな環境の変化や成長を考えれば仕方のないことだと割り切るしかなかった。彼は黙って立っているだけでも注目を集める外見をしていたし、昔よりも集団行動に慣れて周りとの関係も良好なようだった。もう謝憐だけを見つめてくれる幼い彼がいるわけではないのだ。
     だから謝憐も、懐かしい記憶を深追いせずに思い出としてしまっておくことにした。昔話はせず、花城を一生徒として扱った。幸いなことに彼は成績も良く、謝憐の授業も人一倍熱心に聞いてくれる。気付けば、あと半年ほどで彼は卒業だ。順調に行けばきっと良い大学に進学できるだろう。教師という立場から見れば、彼は教え甲斐のある誇らしい生徒だ。花城の卒業の日に、謝憐は遠くからひっそりと見守ってあげるつもりでいた。

    「あの……」
     謝憐の回想を遮ったのは、女子生徒の控えめな声だった。

    「理由を、聞いてもいい?」
    「好きな人がいるから」

     抑揚のない声が、謝憐の鼓膜を震わせる。姿など見えるはずもないのに、無意識に小窓を見上げていた。謝憐が聞いていることなどつゆとも知らず、外から聞こえる二人の会話は静かに紡がれてゆく。

    「ちなみに、その好きな人って」
    「……そこまで言う必要ある?」
    「う、噂で聞いたの……花城くん、誰に告白されてもそう言って断るんでしょう? だから」
    「理由は断るための口実だ、って?」
    「……」

     恐らく図星だろう。女子生徒はそれきり口を噤んでしまった。もしかすると、頷くか何かをして花城の言葉を肯定したのかもしれない。重苦しい沈黙とは裏腹に、謝憐の意識は外にいる二人から──正しくは花城から離れられなくなっていた。彼はなんと答えるのだろう。本当に、体のいい断り文句なのだろうか。

    「あっ、あのね……もしそういうのが面倒なら、いっそのこと試しに彼女とか、」
    「好きな人がいるのは本当。嘘じゃない」

     女子生徒の声を遮って花城が口を開く。鋭く響いたその声色に、女子生徒だけでなく謝憐までもがびくりと身体を強張らせた。
     口調に滲んだ苛立ちは、食い下がる彼女に対してのものではないような気がした。譲れないものがあるときに自分の意見をきちんと主張するところは昔からちっとも変わらない。彼は、彼の「好きな人」を軽視されたことに反論せずにはいられなかっただけだ。花城の言葉からは、「好きな人」を大切にしたいという想いが真っ直ぐに伝わってきた。
    (……変わらないな)
     懐かしい記憶が蘇り、つい微笑ましい気持ちになる。同時にいつかの胸の痛みが思い起こされ、謝憐は再び顔を下向かせて体育倉庫の床を見つめた。

    「じゃあ……その好きな人ってどんな人なの?」

     それを聞いたら諦めるから、と相手の語気も強くなる。簡単には引き下がれないという意志が迷いのない口調に現れていた。
     花城はどうするのだろう。程なくして聞こえてきたのは、どこか諦めを含んだ、溜息とも吐息ともつかない音だった。

    「卒業まで、誰にも言わないって約束してもらえるなら」
    「わかった」

     女子生徒は即答する。謝憐はマットレスから腰を上げ、ゆっくりと窓辺に近づいた。数分前の謝憐ならば、生徒のプライベートに聞き耳を立てるなんて、と今の自分を非難しただろう。だが、花城の言う「卒業まで」というワードが妙に謝憐の心を掻き立てた。
     後になって思えば、この時の緊張感は二人の会話への興味や好奇心からきていたものではなかった。入学以来、時おり感じていた彼との不自然な距離感への胸騒ぎだったのだろう。

    「……年上の人。昔、近所に住んでた。その人にずっと憧れてる」
    「その人……今は?」
    「会おうと思えば会えるし、話したい時に話せる。でも告白はできないし、するつもりもない」

     淡々と言葉を紡ぐ口調はまるで独り言だ。どうして、と呟かれた声には純粋な疑問が浮かんでいる。花城は自嘲気味にくすりと笑みを零した。

    「さっきも言ったけど、年上の人だから。俺なんかよりずっと大人で、まだちっともつり合わない」
    「まさか。花城くんに好かれて迷惑に思う人なんていないよ」

     意外そうな声で反論した女子生徒に、花城は今度こそはっきりとした笑い声を上げた。もう彼女に対して苛立っている様子はない。言葉にすることで何かが半分吹っ切れたようだ。先程よりも随分と親しみやすい態度で彼女との会話に向き合っている様子が、続く口調から感じ取れた。

    「迷惑になるんだ。今のその人にとっては。……もし言えば、優しい人だからきっと真剣に向き合ってくれる。でも、その分すごく悩ませる」

     そんな思いをさせたくない。だから今は伝えられなくていいのだと花城は言った。

    「じゃあ、いつかは告白するの……?」
    「うん、卒業式の日に」

     会いに行くんだ。今度こそ。だから、ごめん。きっぱりと告げられた謝罪に相手は口を噤んだ。彼の心に付け入る隙が一ミリたりとも存在しないことは、短い会話の中でも十二分に伝わった。だからこそ彼女にはもう、大人しく引き下がる以外の選択肢が残されていなかった。

    「ううん……教えてくれてありがとう」

     私、先に帰るね、と告げた彼女は花城の返事を待たずに駆け出した。砂利を踏んだ足音が徐々に遠くなり、やがて聞こえなくなる。彼女が完全に立ち去るのを待って、花城も小さく息を吐き出した。己の発言を反芻しているのか、暫くうろうろとその場を歩き回り、やがて彼女と同じ方角へと足を向ける。その場を去る足音に迷いはなく、この時、一連の出来事が彼にとっては単なる日常の延長でしかないのだと物語っているかのようだった。
     ただ一人、窓際に取り残された謝憐を除いて。
    「…、……」
     沈黙が訪れた空間で、謝憐は声もなくその場にしゃがみ込んだ。遅れてやってきた呼吸を浅く繰り返しながら、たった今知ったばかりの真実に握りしめた拳が震え出すのを止められない。
     混乱する頭で、思考の一部は妙に冷静だった。彼の言うことは正しい。真実を明らかにすることが相手のためになるとは限らない。ならば知らないほうが良かったかという問いに対する答えを、謝憐は見出すことができずにいる。
     花城が距離をおいた理由。他人行儀な態度。にも関わらず、他の誰よりも授業を熱心に聞いてくれる真剣な眼差し。今になって思えば、それが授業中に何度も視線が交わる理由になどなるはずもない。花城は、他ならぬ謝憐だけを見つめていたのだ。でも、それを知ってどうすればいい。どうすることも出来ない。
     もう、たった半年だと思っていた。新たな旅立ちを迎えた彼が、教え子ではなくなる日。だが、まだ半年も残されている。彼が迷わず進む道の先に突然立たされた自分は、偶然知ってしまった真実に耳を塞いで目を瞑りながら、残された時間を上手く過ごすことができるだろうか。彼が今までそうしてきたように。
    (卒業式の、日)
     その日まで、彼の想いは秘められたままでいる。




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