散花、果てで君想うゆらり、と揺れる陽炎に万里は頬を伝う雫を雑に拭き取った。今更拭き取ったところでもう汗がずっと流れているけれど。暑い。今夏、最高気温は35℃を上回る日が続き、熱が体力を永遠と奪っていく。幼い頃はもっと涼しくて過ごしやすかった気がするこの土地も、地球温暖化の煽りを受けてか最高気温を上げているらしい。踏切を越してそこから待つ坂道に少しうんざりした気持ちになって、万里は転がった石を年甲斐もなく蹴った。本当ならば、バイトに明け暮れていたはずであったのに大好きだった祖父の背中を思い出すと断れなかったのだ。海に生き、海を愛した祖父の背中は偉大なものだったし、それはもう当然の如くカッコよく見えた。何にも夢中になれなかった自分が祖父の生き様に憧れてしまうほど。荒れていた高校時代は手に負えなかったであろう自分をじっと見守ってくれていた存在でもある。じいちゃん!とついて回る万里を傷だらけの無骨な手が撫でる。その感触を思い出して、万里はひっそりと笑った。大体撫でるのも雑で祖母に嗜められている姿もそれはそれでよかったから。
「ついた」
盆も超えた、8月下旬。万里は2ヶ月前に修繕したばかりの祖父母の家の扉を開けた。
去年の冬に祖父が亡くなってから祖父母が住んでいた家の管理を任されていた万里は、こうして2ヶ月に一度のペースでこの土地を訪れていた。ガタが来ていれば修繕の手筈を整え、掃除をしたり覆い繁る草木をとっぱらったりとやることは多い。大学4年の就活を終えた今だからこそできることだが、社会人となればそうは行かないであろう。
「じいちゃん、ばあちゃん、ただいま」
今にもおかえり、と迎えてくれそうだが2人はいない。勝手知ったるとばかりにリビングへと向かい、掃除道具を出した。2ヶ月となれば埃もそれなりに溜まるだろうし、そうなれば靴下の裏は真っ黒になるだろう。窓はきた時に開けたからモップを出してフローリングを拭き始める。エアコンの掃除は2ヶ月前に来た時に掃除して使ってみたが、フィルターは開けてみないとわからない。これからやるべきことのタイムスケジュールを立てながら万里は手を動かした。
夕方だというのに気温はそれほど下がらず、いまだに30度以上はありそうな外を万里は歩いていた。ただ海風に当たりたかったというのもある。祖父もこうして夕方になると歩いていたから、ここにいる間にその習慣が移ってしまったのだろうか。とはいえ、ここにいる間限定だけれど。ぽつぽつと灯り始めた街灯の柔らかな光にもう夜がくるのか、と感傷に浸った。ふと横を向いた時、万里と同じように海を見つめる青年がいた。半袖の白シャツと黒のスラックス、これからくる夜に溶け込んでしまいそうな紫の髪。なにより、きらりと輝く金色が脳に刻み込まれるほど印象深かった。歳の頃は、万里よりも少し下であろう。隣の万里に目もくれず、踵を返して海岸線を歩んでいく青年に変わったやつがいんだな、と思いながら家に向かって歩き出す。その様子をじっと金色が見つめて、それから海沿いの堤防へと上がった。
わぁわぁと叫ぶ声にまだ朝の6時を過ぎたばかりだというのに子供は元気だ。きっと夏の朝の象徴のために歩いて近くの広場まで行くのだろう。付き添う保護者も暑さと早い時間にきっとうんざりしていそうだ。コットンケットの中で寝返りを打って、目を閉じる。昨夕の海の音と初めてみた美しい金色を思い出して、万里はがばりと起き上がった。なぜ、今。ばちり、と音を立てたような感覚の電流に息が詰まった。こうなっては二度寝などできない。深く吐いたため息と共にコットンケットを蹴り上げて体を起こす。カーテンの隙間から覗く太陽が、さて気温を上げようかしらと気合を入れていた。
「コーヒーでも飲むか」
風を通すためにリビングとダイニングの窓を開けると、広場の方から体操の音と蝉が鳴く音が聞こえる。ドリップしたコーヒーを飲みながらトーストが焼けるのを待ちながら、昨日の青年を思い出す。あんなに特徴的な青年、一目見れば忘れられないくらい印象に残るというのに今まで見たことがなかった。万里が直近で来たのが2ヶ月前。となると彼は、ひと月前に引っ越してきたのだと考えるのは妥当だろう。愛想の一つもなかった青年のことを思い出す。もしかして、あの時間になると自分と同じで散歩をしているのだろうか。いい趣味をしていると頷いていれば、すでに焼けているトーストが食べないのかとこちらを見ていた。
あ、と声を上げた万里を金色が見つめる。眉間の皺が深い。
「昨日もこの時間にいたよな」
「……」
だんまりかよ。まぁ、知らねーやつに話しかけられたらそらそうなるか。ぼんやりとそう思っていると、青年は口を開いた。
「……海がみてぇって思ったから」
至極簡単な理由だった。それににんまり笑った万里に青年は恥ずかしかったのかふい、と視線を逸らす。俺も一緒、と言った万里は青年を見つめる。青年は万里を見てそれから踵を返した。
「明日もここにいんの」
「さぁ」
さぁってなんだよ、さぁって。挨拶もなく立ち去っていく青年がふと足を止めた。海風でよく聞こえなかったけど、万里はそれがこれから先の約束だとわかった。
青年は兵頭十座というらしい。夕暮れ時に会う5回目くらいの時にようやく名前を教えてもらった。かなり強引ではあったために青年の眉間には皺がいくらか刻まれていたが。歳はやはり万里と5つくらい離れているらしい。らしいというのは十座がやたらと誤魔化すので万里の憶測だ。謎が多すぎる十座に万里がヤキモキしていると青年はそれが面白いらしくくすくすと笑ったし、万里は十座が笑うだけで楽しかった。