面影 そのとき、びょう、と風が吹いて、目の前に立っている男の長い外套のすそが、ばさり、と翻った。
また、しっかり釦をとめていないのか。こんな雨の中だというのに。
「濡れます、前をちゃんととじて」
「さっきから暑かったのだ。これでちょうど良いくらいだ」
振り向きもしないで、けして素直に頷きはしない上官は、そう歌うように応える。
「酔っているからそう感じるだけで、すぐに冷えます。風邪でもひいたらどうするんです」
男が自分の上官だということはすぐに分かった。自分の言うことを聞き流すだろうことも。
上官、なんて持ったこともないのに。
「まったく、煩いおとこだ」
笑いを含んだ答えがまた返ってくるが、目の前の男は一向に雨を気にすることもなく、相変わらず外套の裾をはためかせている。
こんな目を眇めなければならないほどの雨風だというのに。
男の、少し長めの髪が、やはり風にあおられて乱れる。
何か拭くものを、と手元を探るが、何もない。背嚢に入っているかもしれない。そう気づいて、背中から荷物を降ろす。
見たこともないその荷物は、だが何故か見知ったもののようで、地面に片膝をつきながら、なるべく中身が濡れないように体で庇って手拭いを探す。
「なあ」
しゃがみこんだ自分の上の方から、男の声がかかる。
視線を少しだけあげると、ふりむいたらしい男のつま先が目に入った。
「なあ、そんなことはせんでいいぞ」
ひどく穏やかな声だ。似合わない、穏やかなこえ。
「なにを言ってるんですか。どうせあなた手巾くらいしかもっていないでしょう」
「もう、そんなふうに私の面倒をみなくてもいい」
な?と促すように、肩に手がおかれる。
大きな、温かい手だ。
ぶ厚い上着ごしにも熱いくらいで、男の体が冷え切っていないことにほっとする。
「馬鹿を言っていないでほら、あなたの影で背嚢の中が見えないじゃないですか」
「もういいんだ」
何を馬鹿なことを言ってるんだ。今だって濡れた頭を拭く事も思いついていないくせに。髪をそんなふうに伸ばしているくせに濡れたままでは風邪をひくことも思い付かない。
「わたしのことは、もういいから」
長い両腕が、体をつつむ。
な? 耳元で、促すような声がする。
手を止めてはだめだ。
この男の為に、手拭いを探さねば。首元を温める襟巻でもいい。そうだ、確か前にしまっておいたヴォッカがあったはずだ。あれは体があたたまる。残しておいて良かった 。
「いままで、ほんとうに世話になった」
聞きたくない声が、耳に流れ込む。
顔をみてはだめだ。頭をあげてはだめだ。
「…なあ、こっちを見ろ」
嫌だと思うのに、首がのろのろと動くのがわかった。
みてはだめだ。みたら、全てが終わってしまう。警報のように、そんな考えが頭に鳴り響く。
だが自分の体は動くのを止めない。
伏せていた目を上げかけた瞬間、またびょう、と風が強く吹き付け、思わず目をつぶる。
夢はそこで終わった。
また、男の顔を見ることは無かった。