1LDK 引っ越してきたのは前よりも少し広いだけの部屋。二人では少し手狭な気もしたが、大した荷物もなかったので、特に不便もなかった。食器もカーテンも初日には何もなく、ただ真新しいただの箱のような小さな部屋。けれどそれでよかった。一番隣にいて欲しかった人がいる。だからそれ以上は望まなかった。
「今日、カーテンも買いに行きましょ?」
「わかった」
「カーテンがないだけで、朝こんなにも眠れないものなのね」
そう言って寝ぼけた顔で笑っていた。朝日を浴びて透ける瞳がまだ夢の中にでもいるかのようで、唇を噛んでしまう。けれどすぐ横から伝わる熱も吐息も、確かに現実のものだった。
「おはよう、セト」
「おはよう、ネフティス」
自分の名前がこんなにも心を騒がせるものだと知ったのは、ネフティスが呼んだから。ただ呼ばれているだけで、落ち着かなくなってしまう。それなのに当の本人は何でもないように呼んでくる。
その音を閉じ込めてしまいたくて、まだ赤みの薄い唇にそっと口付けた。
「昨日届けも出したし、あとは細かいものを揃えていきましょう?」
「食べ終わったら出かけるか」
「セトは何か必要なものはないの?」
「俺は特に。何かあるなら、それは任せる」
家具も家電も二人で決めた。正確にはネフティスがいいと言ったものに、俺もそれがいいと言っただけだ。白やグリーンなど、淡い優しい色のものが部屋に増えていく。心地よくてそれが落ち着かない。こんなにも穏やかで、ここにいていいのかという気持ちにさせられるのだ。
「洗うのはやっとくから」
「あら、ありがとう。じゃあ支度してくるわね」
化粧もなにもいらないとは思うけれど、ネフティスが楽しげにしているからそれでいいと思う。彼女が笑っている。それが、いいのだ。
街へ繰り出してあの部屋に足りないもの、似合うものを選んでいく。何もない空っぽだった部屋が、少しずつ彼女の色で埋まっていくのがどこか不思議な気持ちにさせる。部屋に一人でいても、彼女を感じられた。そしてそれに安心している自分がいた。
ネフティスと一緒にいられている。それでこんなにも子供みたいにはしゃいでいる自分というのを、何もしていないのに知ってしまうのだ。
「カーテン、いいのあって良かったわね」
「そうだな」
「お休み取っておいたのに、ぜんぜん時間が足りないわ」
「そうだな」
買出しを済ませ部屋に戻り、ソファに並んで座ってぼんやりと部屋を眺める。さらに淡くなった部屋の中は、ますます夢の中にいるようだった。時間も空気も止まってしまったようで、もう動くことができない。
淹れてくれた紅茶に口をつけるが、味なんてもう何もわからなかった。ただ体の中があたたかい。紅茶の香りに混じって、ネフティスの香りがふわりと香る。部屋のどこにいてもわかってしまう。
「ネフティス」
「なぁに? セト」
名前を呼べば返ってくる。甘やかな声で自分の名前が紡がれる。だから何度も名前を呼んだ。
「セト」
布団の中で眠りに落ちそうな中、ネフティスの腕が伸びてきて、柔らかく抱きしめてきた。だから壊さないようにそっと抱きしめ返す。
「ネフティス」
目を閉じているはずなのに、腕の中の熱が彼女がここにいるのだと伝えてくれる。指先に触れる細い髪も、柔らかい肌も、彼女の香りも。ああ、ここにいるのだとただ感じる。
「セト」
ただ声が聞きたい。
「ネフティス」
「セト」
眠りにつくまで、ただ愛しい名前を呼んだ。
「……ネフティス」
何もなかった部屋に、言葉が積もる。
「……セト」
部屋を埋め尽くしていく言葉の中は、酷く心地が良かった。
「ネフティス」
このまま一つに繋がれたらどんなに。そう思うほどにここは心地が良かったのだ。