夏に溶けて「以蔵さん……」
朝起きた時も、嫌々歩く通学路にも、自分の隣に彼はいなかった。少し前であれば、起きるのが苦手な自分をわざわざ起こしに来たり、他愛もない話をしたりしながら一緒に学校へ向かっていたのだ。
彼が姿を消してから、どのくらい経ってしまったろうか。一週間、一ヶ月、一年……。世界はぐるぐると進化を続けていく中で、自分はずっと彼との記憶に閉じ込められていた。忘れようとも思えず、忘れることもできないもどかしさが、余計に辛くなった。彼は何も告げずに消えてしまって、何処にいるのかまるで見当がつかない。
「おーい、坂本。また『イゾウさん』のことか?」
「えぇ、僕そんなに顔に出てるかな」
お前気づいてないのかよ、と同級生の後藤は前の席に腰を下ろした。昼休みに入っても上の空で弁当に手をつけない自分を心配してくれたのだろう。ようやく弁当を食べ始めたところで、後藤はぼそりと呟いた。
「……そんなに心配なら探しに行けばいいだろ」
「何度も考えたさ。でも、以蔵さんがいなくなってから僕の成績ガタ落ちしちゃって。『以蔵くんのことは忘れなさい』って親が言ってきたんだ。だから、高校を卒業するまでは我慢かな」
後藤は、それだけかと言いたげな顔で此方を見ている。彼には何回か以蔵さんのことについて話したことがあった。
だからこそ、「坂本龍馬」が「岡田以蔵」に向けた想いが、それだけで抑えられるはずがないことも分かっていた。
「……坂本さ、確か夏休みにどっか行くとか言ってたよな」
「うん。隣県の祖父母の家にね」
すると後藤は、少しばかり声の調子を下げてある提案をした。
「お前が『イゾウさん』のこと探せるチャンスは、この夏休みだ。失踪してすぐ、県内至るところ探しても見つからなかったって言ってただろ。だったら隣県まで捜索範囲を広げるべきだ。……それに、昔から仲良くしてたお前に何も言わないってことは、多分『会いに来てくれる』って信じてるからじゃないのか。話聞く限りだと、嫌われてた感じはしないしさ」
以蔵さんのことは僕の話からでしか聞いたことが無いはずなのに、彼の推理は当たっているような気がした。心理学科を志望しているだけあって、この手の問題も得意なのだろうか。
「……流石だよ。うん、行ってみる。助言ありがとう、後藤探偵」
飯食ったからって数学寝るんじゃないぞ、と後藤は念を押して自分の席に戻っていった。空になった弁当箱をしまって、ふと顔を上げた。まるで一つの絵のように、雄大な入道雲が真っ青な空のキャンバスを埋めつくしていく。飽きるほど見てきたこの光景が、今は何だか清々しく思えた。
広がる田園と海、山が名物である祖父母の家周辺は、自分が最も好きな場所だ。両親も、実家に帰るときはあまり勉強を強制してこないため、充実したプライベートタイムというわけだ。ここにいる間の一週間で僕は以蔵さんを見つけなければならない。だが、県の四分の三が森林で覆われたこの土地では居住地区は大体限られているため、探すのは案外楽かもしれない。
何はともあれ、まずは情報収集が先だ。以蔵さんは自分より二つ年下で、家族構成は父、母、弟、彼の四人。これだけの移住者がいれば、狭い地域コミュニティの中ではとっくに話題に上がっているはずだ。考えをまとめて集会所や公民館へ向かうも、誰一人いない。ドラマの刑事のように聞き込みをしようかとも思ったが、まず人が見当たらなかった。
「田舎すぎるのも考えものだ……」
炎天下でゆらゆらとアスファルトが蠢くのを踏みしめて、駅の方面へ足を運んだ。涼を取りたかったのもあるが、たまには電車に揺られながら景色を眺めるのも悪くはない。
町の高台を走る電車からは、壮大な海と太陽を見上げる向日葵が一望できた。青と黄のコントラストに目を細めていると、あるものが目に飛び込んできた。
白い半袖の学生服。背の高い向日葵畑の真ん中に、一人の学生が立っていた。自分の第六感が脳内で警告を出している。あれは、あれは。
「以蔵さん……!」
最寄り駅で電車を降り、無我夢中で駆けていく。軽い熱中症でも起こしているのか、思考が上手くまとまらない。今は早く、彼に会いに行かなければ。先程の向日葵畑を見つけ、ガサガサと奥へ入った。肩のあたりまで育っている向日葵のせいで確証は無かったが、ちらりと白が動いた方へ歩みを速めていく。
「以蔵さん……! 僕だよ、龍馬だよ……!」
縋るような声しか出ない喉を恨みながら、必死に叫ぶ。彼が向日葵の海に溺れる前にと手を伸ばす。
「りょ、うま……?」
振り向いた学生服の彼は、間違いなく自分が探し求めていた人だった。
「……い、以蔵さん! やっぱり以蔵さんだ……」
彼は以前会った時に比べて大人びていたが、幼い頃の面影は残ったままだ。話したいことはたくさんあるはずなのに、気持ちばかりが先に行ってしまい、口がもつれてしまう。
「……龍馬、どういてここに居るがじゃ」
田舎の方言が混じって多少低くなった声だったとしても、間違いなく以蔵さんのものだった。
「……なんだろ、言いたいことはいっぱいあるんだけど、上手くまとまらなくって。でも、以蔵さんのことずっと探してた。すごく心配してた。せめて一言くらい、言って、ほしかった……」
今までせき止めていた防壁が決壊したかのように、ぼろぼろと涙が溢れていた。格好つかなかったとしても、それでも良かった。昔の泣き虫だった自分が、彼の前でまた出てしまっただけだから。
「……ダサいのう、龍馬。相変わらずの泣きみそ龍馬やいか。……何も言わんかったのはすまざった。急な親父の転勤やったき。けんど、おまんに『さよなら』らあて言ってしもたら、もう会えん気がしてな……。そがなことになるくらいやったら言わんほうが良いよにゃあ、ち思うたんじゃ」
それに、と言葉を紡いでいく彼は今にも消えてしまいそうな笑みを浮かべていて、思わず腕を掴む力を強めてしまう。
「……どうせ、死んでも探しに来てくれるち、信じちょったき」
「……当たり前だろ。君がいなくなってから、身体の半分が無くなったみたいな気持ちだったんだ。大げさなんかじゃなくて、本当に……」
気を張っていたのがふわりと抜けて、地面に寝転がる。以蔵さんは年下とは思えないほどしっかり立っていて、何だか自分が馬鹿みたいだ。
目線を上にやれば、黄色い花弁の間から青空が覗いている。幼い頃にも二人で同じようなことをしたのを思い出した。彼も、きっとあのことを忘れていなかったのだろう。
通り抜けた潮の香りが、新しい僕等の夏を祝福しているようだった。