sc16受「噂」ライスコ その日の彼は荒々しかった。普段は怪しくも柔和な色の表情はむっすりとしていて、大きな目元はそれはもう据わりこんでいる。田舎のコンビニ前のヤンキーにも劣らない。口もへの字に曲がっている。誰がどう見ても不機嫌だとわかる様相だ。そんな彼が大きく開いた足をわざとらしく踏み鳴らして進む先は都心部にある低層マンションだった。ズカズカと素早くそして粗暴にエレベーターに乗り込み最上階のボタンを押した。同時に彼の柳眉がグッと寄る。扉を閉めるためのボタンに描かれた向き合う三角マークですらいまの彼には苛立ちの後押しにしかならない。
ワンフロアに単身用住戸が五戸、上階二階のみワンフロアにファミリータイプの住戸が一戸。この建物に住む人間のほとんどは上階二階にすむ人間を知らない。正確には誰が最上階に住んでいて、誰がその下の階に住んでいるのか判別が出来ていない。理由は簡単だ。その階から乗り込む人間もその階に降りる人間も確認出来たことがないからだ。上階二階の住人が同じ人物であるなど、知りもしないのだ。
最上階にとまったエレベーターの扉が開くと同時に彼は滑り込むようにエレベーターから抜け出して、奥にある玄関扉の前で立ち止まった。ひとつ呼吸すると用意しておいた鍵でゆっくりと解錠する。あまり音は響かなかった。
差し込んでいた鍵を抜いてスラックスの後ろポケットへもどすと、彼はノブに手をかけてこれまたゆっくりと静かにその重い扉を開いた。ちなみに彼の目はいまだにずっしりと据わっている。
玄関扉を開いた先は明かりがついていなかった。少し先に見える扉の隙間から明かりが少し漏れている。彼はドアクローザーの力を借りながら音を立てずに慎重に玄関扉を閉じると、ひんやりとした暗い廊下へと上がり込んだ。靴下越しに感じる冷たさがしばらくこの廊下を誰も通らなかったことを教えてくれた。
彼は足をしならせながらことさら静かに、それこそ忍者のように息を殺してゆっくりと奥の扉の前へと進んだ。
ぴっとりと扉へ耳をつけてその先を音で覗き見る。すぐさまふふ、と笑う声が聞こえた。
「この間はライがやってくれたからな、今日はオレが頑張るよ」
「それはそれは」
「あ、こら。ちゃんと寝てろよ、動くな動くな。リラックスして……だからこっち向くなってば」
「注文が多い」
「多くない! ただそこに寝てろって居てるだけじゃんもう」
流れ込んできた会話に彼の右手の指先がぴくりぴくりと動き出す。慌てて左手で押さえつけるように手首を捕まえてもう一度向こうの声に集中する。
「ん、どう?」
「……ああ、」
「ああ、じゃわかんないって。あ、このへん? こういう方が好き?」
「む、ん…………ん」
「お、イイカンジ? ン、ふふ」
あまりにも。
「あまりにもベタ過ぎでしょうが!」
いい加減押さえつけられなくなった声が転がりでて、ついでに扉も押し開けてしまった。バタン、と大きな音を立てて開かれた廊下への扉に二対の視線が向く。
リビングの大きめのソファにうつ伏せで寝そべる男とそれにまたがる男。荒々しく扉を開けた彼は想像通りの体勢の二人に、わざとらしく額に手をあてながら首を振った。
「そういうことをしているから、変な噂がたつんですよ」
はあ、とあからさまなため息を吐いてみても、向こうのふたりには全く響かない。ぱちぱちと不思議そうに瞬く始末だ。
「戻ってきて早々どうしたんだよバーボン。ちゃんと手は洗ったか?」
「……まだですけど」
「うがいも忘れずにな、ボウヤ」
「ボウヤって……年ほとんどかわりませんよね? しにたいんですか?」
「こらライ。すぐ挑発するのやめろよ。それに体起こすなって言っただろはい寝た寝た! バーボンもいきなり怒鳴り込んでくるなんてどうしたんだよ」
「……」
ズン、とバーボンの目がまたも据わりこんだ。
「あなたたち、組織内でたってる噂を知らないわけないですよね」
「噂ぁ?」
「心当たりがありすぎてわからんな」
「あなた達の関係についてですよ。あれこれ聞かれる僕の身にもなって貰えませんかね」
バーボンはそれはそれはとても優秀な情報屋だ。組織内で上からの命令としてその仕事をこなすのはもちろん、彼は個人的な依頼も受け付ける。それが同僚や下っ端からの依頼でもきっちりと報酬を差し出されれば彼は仕事をせざるを得ない。仕事は選んだって構わないのだが、ひとつ断れば「あの情報屋安室透が断った」と噂がたつ。築き上げたブランドに傷をつけるのは極力避けたいものだ。
そしてココ最近彼の元へ来る依頼がある。依頼者によって個々の背景があり様々な表現をするがすべてひっくるめて言ってしまえば「ライとスコッチは懇ろな関係か」という俗世にまみれた噂の真偽についてだった。この噂の原因はこの二人自身にあるし、さらに言えばライが一番の元凶であるということもバーボンは知っていた。
ライはスナイパーとしての高い技術と矜恃があり、頭もよく回る上にとても合理主義的で口に出す言葉も最低限。簡単にいうとひととなにかをするには性格に難があった。何度も彼と組んで仕事ができる人間はかなり限られている。その数少ない人物の中にスコッチがいた。このスコッチがまた不思議な男で、日本人らしい少し幼い顔立ちと、犯罪組織の幹部とは思えない爽やかさと人懐こさがあった。
ライはスコッチと仕事をしてからは、同じスナイパーと仕事をするとなると必ずスコッチを指名した。するとすぐさま組織内で噂がかけぬけた。「あのライが指名した」「同じ人間を指名した」「ライがスコッチを気に入っている」「二人は夜も共にしている」スピードをあげてあれよあれよと上り詰める噂をバーボンはじっと黙って聞いていた。変に口を挟めば何かを知っているのかと食いつかれて面倒だ、と。
だというのに、ここ数日その噂は天元突破してしまった。
「あなたたち二人はもう愛の誓いまで済ませて国外で挙式をあげているなんて噂までたってるんですよどうしてくれるんですか!」
「なにそれ! あはは!」
「なに笑ってるんですか。『憎いライに寝取られを味あわせてやりたいのでバーボンに間男になってもらいたい』なんて馬鹿げた依頼も来たことあるんですよ。責任とってください」
「バーボンはそんな依頼までこなそうとするのか、尊敬するよ」
「するな! だいたい受けてないですよそんな依頼! こんな噂がたってるのも二人が普段から自然にベタついてるからでしょう。改めてくれませんかねえ!」
三人で拠点のひとつとして利用しているこの部屋に他の人間が入ることはもちろんないが、ここの中でだけにおさまらず彼らは外でもそれはそれは仲が大変によろしかった。本人たちにその気はなくとも、あの人付き合いに難のあるライが長時間横にいることを許している時点で周りからは大変懇ろな関係に見えてしまうのだ。
「んーそんなにベタベタしてるつもりはないんだけど……ね、ライ」
「ああ。くだらない噂なんて放っておけ。どうせ周りもすぐに飽きて話さなくなる。それよりスコッチ、マッサージの途中だが?」
「あーもうはいはい。バーボンもそんなぷりぷりしてないで早く手洗っておいで。ごはんあっためたら食べられるようにしてあるから」
ソファに寝そべっているライの背中にスコッチの指が沈む。すぐさま抜けるように盛れる息が微かに耳に届いて、バーボンは踵を返した。彼の目はやはり据わっている。
くだんの噂は、もうしばらく収まりそうにない。