空蝉の鳴いた日【ディアルシ+男留ルシ】 西日の差し込む小さな部屋の片隅で、悪魔が一人泣いている。
随分と色褪せてしまった壁に手をかけて、しばらくその姿を眺めていた。
かける言葉はいくつも用意してきたはずなのに、いざ震える背中を見てしまうとだめだった。舌はもつれ、喉は詰まり、汗がしたたり落ちる。しゃわしゃわと空気を震わす音が絶えず胸をざわめかせた。
「……ディアボロか?」
D.D.D.越しではない声を聞くのは、ここで彼らと別れて以来だった。涙に濡れた声は、記憶よりも少し細い。ずっと泣いていたのだろうか。もう帰ってくる者のいないこの部屋で、たった一人きりで。
「ルシファー。久しぶり、と言うべきなのかな……私にとってはほんの数日前のようだが、君にとってはそうではないのだろうね」
「そうだな……久しぶりと言う方がしっくりくる。ああ、もうずっとずっと昔のことのようだ……」
ルシファーがゆっくりとこちらを振り向いた。記憶にあるままの美しい顔を涙に濡らし、肩を小さく震わせている。黒いシャツに黒のパンツを合わせた姿は、喪に服す者のそれだ。
彼の首の角度が変わったことで、その向こうにあったフォトフレームが視界に映りこむ。真っ白なチェストの上に置かれた写真には、黒いリボンがかけられていた。
写真の中の彼は少し見ぬうちに年老いていたけれど、見覚えのある幸せそうな笑みを浮かべている。彼らの蜜月が如何に素晴らしいものだったのか。その写真が何より雄弁に語っている。
「いい写真だね」
「これは俺が撮ったんだ。海に行ったときに、伊吹に頼まれて。浜辺を歩きながら魔界の夏の話をしたよ。真珠を探したのが随分と楽しかったらしい」
そう言って、ルシファーはまた正面に首を戻した。腕がゆっくりと動いている。おそらくは遺影を撫でているのだろう。優しく、慈しむように、何度も何度もそうしていた。
「だんだん髪に白いものが混じってくるのを、ひどく気にしていたよ。俺はそんなことはどうでもよかった。どんな彼も俺にはいつだって眩しく見えた……すぐに変わる人間の姿形なんて、俺たちにとっては些末なことだ。そうだろう、ディアボロ」
「ああ。君の言う通りだとも。人間の輝きはすなわち魂の煌めきだ。彼は……伊吹は美しい魂の持ち主だった。君が心奪われて然るべき人だ」
足を踏み出し、ルシファーの傍に歩み寄る。震える肩に触れた手は振り払われなかった。それにどれだけ安堵したか、ルシファーは知らなくていい。
「十分にお別れはできたかい?」
「ああ。ずっと手を握っていた。伊吹が眠るまでずっと……眠ってからも……しばらくはそうしていた」
「そうか。伊吹はなんて言っていた?」
「また会えるよ、と」
肩に重みが加わった。ルシファーが頭を預けてきたのだと頭で理解するより早く、手が射干玉の髪を撫でていた。体の向きを変えたルシファーが背中に腕を回してくる。縋りつくような抱擁だった。
「伊吹に会いたい……ディアボロ……会いたいんだ……」
肩口をしとどに濡らす涙を止めてやることもできただろう。けれど、そうはしたくなかった。愛する半身を失ったばかりの彼の悲しみに、心から寄り添ってやりたかったのだ。
「ルシファー、大丈夫。大丈夫さ。忘れたかい? 君と彼は契約を交わしている。永遠の別れではない。伊吹の魂は君と離れはしないよ」
「でも……魂だけだとあいつらと7等分だ……とてもムカつく」
「ふふ、少し調子が戻ってきたかい?」
形のよい後頭部から首筋をたどり、背中へと手を滑らせていく。何度かその動きを繰り返していると、ルシファーが肩から頭を上げた。
「ディアボロ……立場ある身でありながら人間界で伊吹と暮らしたいと……そんな俺のわがままを叶えてくれたこと、感謝している」
「やめてくれ、私と君の仲じゃないか。それに、伊吹もまた私にとっては大切な存在だ。それだけだよ」
「それがうれしかったんだよ。ありがとう、ディアボロ」
「うん」
しばし無言で抱き合った。彼の体温と匂いが体の隅々に染み込んでいく。ほんの数日会わなかっただけでもこんな愛おしい者を、置いて逝かなければならなかった伊吹の心中は察して余りある。
──自分が死んだら、ディアボロがルシファーを迎えにきて。
──約束して、絶対にディアボロがくるって。
伊吹と別れる前に交わした約束だ。二人だけの秘密の約束だった。
即頷いたディアボロに、伊吹は「よかった。そのときがきても安心してお迎えを待てる」と笑っていた。彼はほんとうにどこまでも、強く美しい魂の持ち主だった。
「ルシファー、その写真を持って、」
帰ろう、と言いかけて、声が途切れてしまった。持って行こう、と言うべきなのか。彼にとっては、まだここが帰る場所であるのならば……。
逡巡するディアボロの思考を見抜いたのか、ルシファーはまだ涙に濡れた瞳をふっと細めた。
「持って帰る。俺の部屋に飾るんだ。あいつらには……まあ、たまには見せてやってもいい」
「そうか」
ルシファーが手を掲げる。呪文の詠唱とともに、部屋が光に満ちていく。ルシファーの魔力の胎動を感じながら、彼の行動を見守った。魔法によって小さくなった遺影がルシファーの胸の中に吸い込まれていくのを、じっと見ていた。
「……愛しているよ」
大切な者にしか聞かせない声で、ルシファーが囁く。恭しく胸に置かれた方とは逆の手を掬い上げ、ディアボロはその甲にそっと口づけを落とした。
「君たちが守り抜いた愛を、私は誇りに思うよ」
「……ああ」
ぽろりと新しく零れた真珠の涙を指で拭い、形のよい顎に手をかける。差し込み続ける西日からルシファーを隠すように体を寄せ、顔を近づけた。濡れたまつげに自分のまつげをくっつけたのは、少しでも彼の悲しみを抱えたかったからだ。
「愛しているよ、ルシファー。伊吹をひたむきに愛した君を、とても愛してる」
「……ディアボロ」
ぼろぼろと零れ落ちる涙を袖で拭い、ルシファーが囁いた。
「俺より先に死ぬな。一分でも一秒でもいい、絶対に俺を置いていかないでくれ。もう見送るのは……嫌だ」
リリスと伊吹との別れは、彼の心に大きな傷をもたらしている。伊吹と約束したときそうしたように、ディアボロはすぐさま頷いた。
「私が死期を悟ったときは、君も一緒に連れていくよ」
「……急に物騒な話になったな」
そう言って微笑んだ彼の手を握る。そうすることで伝わるものがあればいいと願いながら。
「帰ろう、ルシファー」
こくりと頷いたルシファーの手を取り、扉へと足を進める。その先は魔界に繋がっている。ドアノブを掴み、ガチャリと回した。時空がぐにゃりと歪んでいく。
「……ねえ、うちの隣って前から空き地だったよね?」
「そうだよ。急にどうした?」
「なんか最近、前より夕日がきつい気がして……何かなくなった? みたいな……」
「いやいや取り壊し工事してたら気づくじゃん。空き地だったよ」
「そうだよねー……ごめん、変なこと言った! ごはんにしよっか」
20211016