楽園【ディアルシ】「何か俺に言うことがあるんじゃないのか?」
そう言ったルシファーはとても怒っていた。もしも私が人間だったら、きっと畏怖で気絶していたと思う。
「る、ルシファー……君、そんないつも通りの格好で暑くないのかい? 売店にアロハシャツも売ってるよ……?」
「俺の服装なんてどうでもいい。今は君の話をしているはずだ」
一応の気遣いをぴしゃりとはねつけられ、しょぼんと眉毛が下がるのを感じた。
う、とルシファーは呻いたけれど、詰問を止めるつもりはないようで、腕を組んだまま私をぎろりと見下ろしている。
ちなみに現在、私はアルバイトの合間、カフェで休憩を取っているところだった。
黄昏空が見えるテラス席で、スモーク暗黒ガチョウのクロワッサンサンド(ピクルス抜き)を食べるこの時間は、ここ最近の私のお気に入りだ。だから、カフェに来たときは大体これを注文するのだけれど……さっきまでとても美味しく食べていたけれど……音もなく忍び寄ってきたルシファーに詰め寄られている今は……味がちょっとわからないな……。
「えーっと……君に言うこと……」
クロワッサンサンドを皿に戻し、指についたパンくずを払う。うーんうんうんと首を捻って心当たりを一つ一つ探っていった。
可能性その1。私が魔王城を離れてこの島に来ていること……でもこれはたぶん違うんじゃないかな。
だって、伊吹に見せてもらった人間界の景色があまりに素敵で魅力的で「私も南の島に行きたいなぁ」と言ったら、ルシファーは「いいんじゃないか。南……かはわからないが、バカンスを楽しめる島なら魔界にもあるんだし」と機嫌よく答えてくれたから。
可能性その2。私が供もつけずに一人で旅に出たこと……も、当てはまらない気がする。
だって、荷造りしている私に「魔王城からバルバトスに扉をつないで送ってもらえばいいのに」とアドバイスをくれたんだよ。それはつまり「バルバトスは一緒に行かない」とわかっていたということだろう?
だから、可能性その3、ここでアルバイトをしていたこと。彼の逆鱗に触れたのは、これなんじゃないかと私は推測している。
ルシファーは、私自身よりもよっぽど私の立場だとか体面だとかを気にする傾向がある。彼を熱心に口説いていた頃、幾度「君にはもっとふさわしい相手がいる」と言われたことか。
私にふさわしいのはルシファーだけだし、ルシファーにふさわしいのは私だけ。そんなすごく簡単なことをわかってもらうまでに経た長く辛い道のりを思い返し、私はごくんと唾を飲み込んだ。
大事な私の宝物。愛しい私のルシファー。彼を傷つけるのはまったくもって本意ではない。早くなんとかしないといけない。
「ルシファー、すまない。見知らぬ土地で軽率にアルバイトをするなんて次期魔王としてはいささか思慮に欠ける行動だったかな? でも、別荘のコーディネートなんてとても楽しそうだったから、つい……それにアルバイト自体は魔界でもしているし、そんなに怒らなくてもいいんじゃないかい?」
「……は?」
うーん、さすがは地獄の七大君主トップだな、と言わざるをえない迫力満点の声だった。マモンがこういう声で叱られているのは何度も目にしたことがあるけれど、直接これを浴びせられるのは珍しい。
それくらい怒ってるということなのだろうけれど、私の行動はそんなにいけないことだったのだろうか。申し訳ないが、いまだピンときていない。
「あの、ルシファー。すまない。君がどうしてそんなに怒っているのか……わからなくて……」
「わからない……だと?」
「うん。すまない。私に非があったならきちんと謝りたいから教えてほしい」
ピンクと紫が混じったような色の空が、ルシファーの向こうで揺らめいている。天使だった頃の彼と黄昏時に会ったことはないけれど、さぞや幻想的な光景だったのだろうと想像する。
ふと、楽園という言葉が頭をよぎった。彼を手離した憐れな地を、人の子は羨望をもってそう呼ぶ。
私に言わせれば、楽園に彼がいたのではない。彼があったればこそ、そこは楽園たりえたのだ。
楽園の主人が口を開く。覗いた赤い舌が少し震えていて、艶かしかった。
「……全部だ」
まあ、そこから出てきた言葉は私を打ちのめすには十分だったのだけど……。
「ぜ、全部……全部……かい?」
「ああ、全部だ」
「ここにきたこともダメだった?」
「当たり前だろう」
「もしかして私が一人なのも怒ってるのかな」
「怒らないでいられるか」
「アルバイトは……」
「話にならないぞ、ディアボロ」
ああ、ほんとうにすごくすごく怒っている。これ以上はしばらく口をきいてもらえないかもしれないと焦っていると、ルシファーの視線が落ちた。
ガーデンライトが淡く照らすウッドデッキを敵のように睨みつけて、彼はこう言った。
「……アロハシャツならとっくに持ってる。君が贔屓にしているブランドのやつを片っ端から買ったからな」
「え、そうなのかい? 着ないのか? なぜ?」
思わず声を弾ませると、ルシファーの発する空気が鋭くなった。私はただ……弾ける夏色をしたシャツはきっとルシファーによく似合ってるから、いいなぁ見たいなぁと思っただけだったのに……。
私のしょんぼりをよそに、ルシファーの言葉は続いた。
「君が一人で島に向かったと聞いて驚いた。何かしら俺を招く準備でもあるのかと思って一週間は我慢した。でも君からの誘いは全然なくて、それどころか、どこの誰ともわからない悪魔のために精を出して働く君の写真が届く始末だ」
大きく息を吐いて、ルシファーはそこで一旦言葉を切った。そうして再び顔を上げて、また視線同士がぶつかった。
夜闇に鮮血を混ぜた彼の瞳は、少しだけ潤んで見える。それがたまらなく綺麗だった。
「君と旅行に行けるのかと、楽しみにしてたんだ。なぁ、馬鹿みたいだと思うか?」
「そんなわけ……ないよ……」
なんてことだろう。
ルシファーは確かに怒っている。でもきっとそれ以上に悲しくて、寂しかったのだろう。ここの空のように、怒りと悲しみのあわいを漂っているのだ。
誰よりも大切にしたい相手にそんな思いをさせるなんて、それこそ次期魔王として……いや、一人の男として不甲斐ない。
「すまなかった、ルシファー」
ウッドチェアから立ち上がり、愛する人に手を伸ばす。大人しく腕を掴ませてくれはしたものの、怒りと悲しみに満ちた瞳が私を見ていた。
「なんと言えばいいのか……君を誘うという選択肢自体が私の中にはなくて……」
「……君、今ものすごくひどいことを言っている。わかっているのか?」
瞳の熱が大きく悲しみに傾いている。それを美しいと思ってしまうのは、私が悪魔だからだろうか……。
「だって……こんな素敵なところで君と過ごしたりしたら……私は、君に色んなことをしたくなってしまうと思ったんだよ」
ルシファーの瞳が見開かれる。こぼれ落ちそうで心配していると、ルシファーがキョロキョロと周りを気にし始めた。
「ディアボロ、その、」
幸い、テラス席には私たちの他に1組お客がいるだけだ。それも距離は離れているし、そもそもルシファーがきた時点で秘匿の魔法を使っている。
私のために感情を揺らすルシファーを見るのが私は大好きだ。だけど、それを余人に見せる趣味はない。これは私だけの宝物だから。
安心させるように笑みを浮かべ、彼の細い腰を抱き寄せた。それだけですべてを察したのか、ルシファーは甘えるように頭を肩に乗せてくれた。
なんて可愛い、愛しい……思わず感動している私を見つめるルシファーの瞳は、まだあわいを漂っている。
ただし──。
「……色んなことをされるのを待っていたと……言ったら……?」
黄昏を背にして期待と情欲に潤む君はとても、とても綺麗だ。
20220116