逃した魚は大きく、恋した悪魔は手強い【ディアルシ】 腕を引く仕草がたまらなく優しかった。一度や二度の話じゃない。俺に触るとき、彼はいつもそうだった。
だから、そういうことなんだろうと思った。
悪魔のくせして妙に誠実な男だから、まるで人間みたいに手順を踏もうとしているのだと。
そういうのは嫌いじゃないし、悪くない。
けれど、彼の出方を待たずにこちらから手を伸ばすことを決めたのは、自分の欲望に素直に従った結果だ。
彼はとびきり俺の好みだからさっさとモノにしたかった。そう言うと伝わりやすいだろうか?
いつも楽しそうで、けれどどこか寂しい影をはらむこの男を早く手に入れてしまいたかった。
だから、相変わらず優しく俺の腕を引こうとする手を掴み、じっと見つめてから体を寄せたわけだ。
「ルシファー?」
驚いたのか、少しはねた声が俺を呼ぶ。心地よい響きだった。何度でも聞きたくなるくらいに魅力的だ。
「俺にこうされるのは嫌か?」
「嫌だなんて。そんなわけないよ。でも、どうしたんだい? 具合でも悪い?」
「いいや、いたって健康だ。君と絶品のディナーを楽しんだばかりだしな」
「それはよかった……あの……じゃあ、少し、近くないかな?」
「なんだ? やっぱり嫌なのか?」
「嫌じゃない。嫌じゃないんだが……」
うーん、ええっと、と言葉をにごしまくるディアボロの態度が可愛くて、さらに身をすり寄せた。服があるからかろうじて健全な友人付き合いに見えるだろうが、気分は香水だけをまとってベッドに沈んでいるのと同じだった。
「……酔ってるかい?」
だからこそ、彼からそんな往生際の悪いセリフが出てきたのには驚いた。
ちょっとうんざりしながら、彼の瞳を見つめる。
きらきらと夜闇に輝く俺の宝石。美しい、俺のディアボロ。
「あの程度で酔うと思うか?」
「思わないけれど……」
「なら、わかるだろう? 君は子どもじゃない。もちろん俺も」
ひそひそと囁くように告げると、ディアボロは目に見えて狼狽えていた。可愛いと思うけど、焦らされているようで、ひどくたまらない気持ちになった。
「なんだ、今さら。さんざん俺をもてなしてくれたじゃないか。抱くのか抱かれるのか君の好みはまだ知らないが、俺と寝たかったんじゃないのか?」
いい子ぶるのをやめた俺を見て、ディアボロは驚いたように口を開けていた。
「私……私は……」
「ディアボロ?」
「っ、すまない」
次の瞬間、俺は見慣れた自室のベッドに腰かけていた。ぽかんと呆けてから、転移魔法を使われたことに思い至り、さらに呆けた。口説いてる最中にこんな扱いを受けたのは初めてだったからだ。
「……なんなんだ」
同じように魔法を使って魔王城に乗り込んでもよかったが、バルバトスに事情を説明する手間と、少し傷ついた自尊心がそれを躊躇わせる。
しばらく逡巡して、結局、バスルームへと向かうことにした。
いいさ、どうせ明日は丸一日ディアボロとの打ち合わせだ。今夜の続きと、俺を追い返すという暴挙に至った理由は、そこで解決すればいい。
「おはようございます、ルシファー。坊ちゃまは体調が優れないご様子ですので、恐縮ですが今日の予定は延期でお願いいたします」
早々に出ばなをくじかれた気分だ。
戦地に赴く気分で議場の扉を開いた俺を出迎えたのは、恭しく頭を下げたバルバトスだった。
「……そうきたか」
「はい?」
苦々しい呟きを聞き留めたバルバトスが頭を上げて、不思議そうに首を傾げている。
この執事が事情をまったく知らないとは考えにくい。だが、ディアボロがあんなことを誰かに明け透けに聞かせるというのも……想像しづらい。
どうしたものかと唸っていると、バルバトスが「恐れ入りますが」と声をかけてきた。
「私はそろそろ戻ります。2番を置いてはきましたが、長らく坊ちゃまをお一人にしておくのも心配ですので」
「ディアボロは……ディアボロの容態はどうなんだ?」
「頭と胸とお腹と背中が痛むそうです」
「そうか……」
それはおそらく仮病なんじゃないか……ちら、とバルバトスに視線を送る。ふ、と秘密めいた微笑みが返された。
「あまり坊ちゃまを悩ませないでください、ルシファー」
さすがというか何というか。俺たち二人の間で何かしらが起こったことを、彼はすでに把握しているようだった。
「……悩まされているのはこちらだ」
「おや。坊ちゃまが、彼の偉大なる暁の明星、ルシファーを? それはそれは……ほんとうならば、執事としては喜ばしい限りですね」
「からかわないでくれ……ディアボロはどうしてる?」
「ずっとベッドにお籠りですよ。昨夜お帰りになってからずっとです。食事くらいはとってくださるよう、あなたからお願いしていただけませんか?」
あなたのお願いなら聞くでしょう、と続けたバルバトスに、黙って首を横に振る。
「いや。昨日、強制的に館に帰されたんだ。加えて、今日の予定はオールキャンセルときた。よっぽど俺に会いたくないんだろう」
「どういうことです……坊ちゃまに何を……?」
バルバトスの纏う空気に炎の気配が見えた。まったく、敵に回したくない悪魔だ。
改めてそう思いながら「君が心配するようなことは何も」と告げて、また首を横に振る。
「少し……目論見が外れたというか……なあバルバトス、俺はディアボロの『お気に入り』だよな?」
「はい、それはもう。眩いばかりのご寵愛かと」
「悪魔っていうのは、そういう『お気に入り』と性愛はきっぱり分けているものなのか?」
「いいえ。むしろ曖昧だと思います。気に入ったらその分だけ深く愛したいものでしょう。わかりやすいと思うのですが……坊ちゃまに拒まれでもしたのですか?」
「ああ。口説いてみたんだが……随分と狼狽えさせてしまった」
「妙ですね……差し支えなければ、どのような口説き文句だったかお聞きしても?」
とはいうものの、バルバトスの顔には「差し支えがあろうが言いなさい」と書いてあった。逆らう気は毛頭ない。
「俺と寝たかったんじゃないのか、と」
「……傲慢のルシファーらしい、情熱的なセリフですね」
天を仰ぎ、手の甲を額に当てたバルバトスは、深い溜め息をついている。
「承知いたしました。そういうことでしたら、ルシファーに責任を取っていただきましょう」
「責任」
「はい。行動には責任が伴うものでございます」
ヴン……と小さなノイズが聞こえた次の瞬間、俺は魔王城の廊下に立っていた。
主従揃って突然の転移魔法が好きすぎやしないかと思いながら、目の前の重厚な扉をノックする。
ややあって、部屋の中から声が聞こえてきた。
「バルバトスかい? まだお腹が痛いから食事はいらないよ……」
「俺だ、ディアボロ」
シン、と静寂が落ちてきた。数分待ってから、ドアノブに手をかける。
「入るぞ」
「ダメだ!」
「すまないが、もう入った」
「あああ」
後ろ手に扉を閉め、ベッドに目を向ける。聞いていた通りこんもりしていたベッドだが、俺の入室のせいでさらに丸みを増していた。
中でぎゅっと丸くなっているディアボロを想像する。いつか着ていたネコの王の衣装が、今ならきっともっと映えて、それはそれは可愛いだろうなと思った。
ほんとうなら、今すぐにでもベッドに駆け寄って、そこに腰かけて、布でできた小山を撫でさすりたかった。
その衝動を何とか我慢して、ソファに腰かける。できる限りベッドの方へと身を寄せて、ディアボロに問いかけた。
「ディアボロ、怒っているのか?」
「……それは、君の方なのでは?」
布団の中に隠れているせいで、声はくぐもって聞こえる。けれど、その声が深い悲しみに沈んでいることはよく伝わってきた。
驚いてベッドを見つめる。小さな山は、さらに丸くなっていた。
「怒る? 俺がか? どうしてそう思うんだ?」
「私が君を……そういう目で見ていたと……君に知られてしまったから……」
消え入りそうな言葉を聞いて、無意識に唾液を飲み込んでいた。
なんだ、やっぱり俺が『お気に入り』なんじゃないか……じゃあどうして、昨日はあんなことになったのだろう。
「……君を右腕だと、最も信頼できる友だと繰り返したこの口で、私は……君にキスする夢を見た。一度や二度じゃない。数えきれないくらいだ」
「……」
口説かれている、間違いなく。
だというのに、相変わらずディアボロの声は深い悲しみに沈んでいる。山もいまだ崩れていない。
思うに、この布団の厚みは、今の俺とディアボロの間にある思考の違いを表している……のではないか。
俺と彼は深く信頼し合っているし、固い絆で結ばれてもいる。
それでも、心の奥底まで仔細に理解するには、対話が不可欠だ。
かつてまだ俺の翼が白かった頃、チェスで彼に制されたあの日のように。
「ディアボロ。俺は怒ってなんかいない。君が悲しむようなことは、何もない」
「でも……君は明らかに苛立っていた……私に幻滅したんだろう?」
「ああ、それは……いや……なんというか、……確かに苛立ってはいたが」
山がびくんと震えた。まだ丸くなる気だと気づいて、ベッドへと移動する。
「ディアボロ」
ベッドに腰を下ろして呼びかけながら、山を撫でる。張りつめていた空気が、少しだけ柔らかくなった。
「顔を見せてくれ、ディアボロ。俺もバルバトスも、君を心配している」
「君に合わせる顔がないよ」
「……なら、俺がそちらに行こう」
言質は取った。もうさっさと俺のものにしたい。
ディアボロの返事を待たず、布団をめくって中に体を滑り込ませた。その弾みで、肩にかけていたコートがばさりと音を立て、床に落ちていった。
「えっ、る、ルシファー……?」
暗い中で見るディアボロもまたいいものだ。肌触りのよさそうなパジャマに身を包んだ無防備な姿で、寄る辺なく困った顔で俺を見て……なんて可愛いんだろう。
「ディアボロ。よくも逃げ回ってくれたな?」
「ルシファー……私は……」
「……君に『そういう目』で見られるのは、俺にとって喜ばしいことなんだが。君にとってはそうじゃない? 恥ずべきことか?」
「そんなことはない。私は君が……大好きなんだ……愛してる。抱きしめてキスをして……君の奥深いところに入れてもらいたい……」
「そうか」
つまり「抱く方」が君の好みってことでいいんだよな、と自分の中で結論づけてから、ディアボロの髪に手を伸ばした。
ディアボロの髪は持ち主とよく似ている。硬くて真っすぐで、優しい色をしてるのに、真っ赤に燃えるときもある。
「ルシファー……」
髪を撫でる手つきで、俺の気持ちが伝わるといい。そう思って繰り返していたのだが、どうやら叶ったようだ。
俺の手つきに負けないくらいの優しさで、ディアボロに頬を撫でられる。愛しているのだと、そのてのひらから十分に伝わってくる。
「君に恋をしてもいいのか」
「してもらわなきゃ困る。俺はもう取り返しがつかないくらい君に夢中なんだ」
まだ少し戸惑っているディアボロの手に自分の手を重ねる。どちらからともなく顔を近づけ、キスをした。
舌も入れない、ほんとうにくちびるを合わせるだけ。何千年と生きてきて、こんなに初心なキスをするのは初めてだった。
「君が好きだ」
キスの合間にぽろりと零れ落ちた愛の言葉が、じんわりと胸に沁み込んでくる。なるほど、機微を理解してなかったのは俺の方だったわけだ。
「俺も、君のことが好きだ」
じわじわと体中に広がっていく愛しさとか慈しみとか。そういうものが滲んだ声を受け取ってくれたディアボロは、ひどく恥ずかしそうに笑っていた。
20220223