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    Samezawa0929

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    Samezawa0929

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    時菫の水族館デート回

    二つの孤独二つの孤独が互いに守り合い、触れ合い、迎え合う。そこに愛がある。
    ――ライナー・マリア・リルケ

     鬼頭時雨は極道の息子だ。それも関東最大の暴力団、鬼頭組現組長の孫。ゆえに常日頃から敵対勢力に命を狙われており、それらの脅威から守るために世話係という名の護衛が就いている。通学路には人目を避けるように黒塗りの高級車が停まっていて、護衛の二人が周囲を見張っている。時雨はそんな日常にうんざりしていて、休日もほとんど外に出ることはなかった。
     しかし、今日は特別だ。今日は同級生の守沢菫と水族館に行く約束をしている。時雨にとって彼女はただの同級生ではない――初恋のひとと言ってもいい。ふたりはこれといった接点もなかったが、菫は首席で入学し、今では生徒会長と弓道部の副部長を務めている優等生だ。大変そうだな。いつも人に囲まれている彼女を見て、他人事のようにそう思っていた。しかし、そんな印象はある日を境にがらりと変わる。
     あの日は雨が降っていた。日頃はまっすぐ、護衛の二人に決められた道順で帰る時雨だが、その日はいつもと違う道を歩いていた。歩道に落ちていた財布を交番に届けていたのだ。極道の息子が何をやってるんだ?ちょっとした善行を積んだわりに自虐的に笑う時雨の目の前を水色が駆けていった。それは未就学児が着るスモッグだった。その先には転がっていくサッカーボールと、まだ赤信号の横断歩道。そして、トラックがこちらに向かってくる。時雨が危ない、と叫ぼうとした瞬間、紺色が視界を横切った。
     キキーッ、と急ブレーキのかかる音。思わず瞑った瞼を開けると、横断歩道に少女と子どもが倒れている。見覚えのあるポニーテールに、心臓が止まったような心地がした。時雨はたたらを踏みながら少女と子どもに駆け寄る。遠くでゴロゴロと低い音が鳴り、ぱらぱらと雨が降ってくる――雷雨だ。冷たい雨粒がアスファルトを濡らす中、時雨は少女の顔を見た。
    「ッ、守沢……!!」
     菫はトラックに撥ねられた衝撃ゆえか、瞼を閉じたままぐったりとして動かない。ひゅうひゅうという浅い呼吸が彼女がまだ生きていることを示すが、このままでは――。脳裏を過ぎる”死”の一文字に思考が止まる。どうすればいい。どうすればいい!
    「――時雨ちゃん」
     ポン、と肩を叩かれて時雨は我に返る。顔を上げると、そこには護衛の二人――御酒本志童と蓬茨虎桐が立っていた。
    「ここは俺達に任せて、若は本邸で待っていてください」
    「警察は呼んだから安心してな。……けど、このままやとちょーっと面倒なことになりそうやしなぁ」
     時雨は極道の息子で、敵対勢力だけでなく警察にも注意されている。護衛である二人は時雨が警察と接触することを避けたいのだろう。
    「っでも、守沢が……」
    「大丈夫。僕らを信じて、な」
     御酒本は時雨の頭を撫でながら、手を叩き落とされないことに驚いた。自分が差していた傘を手渡し、人通りの多い道を選ぶよう伝える。御酒本と蓬茨以外にも見張りはいるが、念の為だ。
    「さーて、お仕事お仕事!」
     後処理は御酒本の得意とするところだ。御酒本は蓬茨が差す傘の下でニコリ、といやに爽やかな笑顔を浮かべた。
     数日後、菫が一命を取り留めたことを知った時雨は毎日見舞いに行くようになった。最初は集中治療室の外から、面会が許されてからは病室で菫の顔を見た。最初は酸素マスクを付け、いくつもの点滴が繋がれていたが、時間が経つにつれ少しずつ外れていった。しかし、鬼頭は菫が起きている時は病室に入ろうとしなかった。クラスメイトでもない自分が毎日面会に来ているなどと知られたら、きっと気味悪がるだろうと考えたからだ。
     ある日の放課後、菫の病室を訪ねるとベッドは空だった。検査にでも行っているのだろうか。時雨はオレンジ色の花束のほかに、彼女の担任から「見舞いに行くなら届けてくれ」と渡された数学のプリントを持っていた。付箋を付けて置いておこう。いつも使っているブルーの付箋に『霧島先生から数学のプリント お大事に』と書き残すと、病室を出ようとした――廊下から近付いてくるガラガラという音には気付かずに。
    「あら、もう帰るの?」
     白いドアの前には点滴台を握った菫が立っていた。
    「鬼頭時雨くんよね?石神井くんから聞いてるわ」
     菫はにこりと微笑むと、点滴台を押しながら時雨に歩み寄る。桃色の花束。ブルーの付箋。積み重ねられるプリント。菫が目を覚ますたびに増えていくそれらは妖精のしわざのように思えたが、看護師から聞くところによるとある青年が置いていくらしい。
    『あの子、菫ちゃんの彼氏さん?』
    『そ、そんな人いませんよ!』
     いったい誰なのよ……!?見舞いに来た石神井に聞いてみると、名前は鬼頭時雨。菫たちと同じ2年生で、B組の生徒らしい。何故そこまで知っているのかと問えば、副会長として全校生徒の名前と顔は覚えているとのことだった。当然だろうと言わんばかりの態度には恐怖すら感じたが、とにかくこれで看護師に伝えることができる――鬼頭時雨が面会に来たら教えてほしい、と。そして好機は巡ってきた。
    「あなた、毎日お見舞いに来てくれてたんでしょう?」
    「俺は、その……」
    「嬉しかったわ。……家族も友達も顔を見に来てくれるけど、さすがに毎日ではないもの」
     くすくすと笑う菫に時雨もはは、と格好を崩した。その日から、菫の病室にあるパイプ椅子は時雨の特等席になった。幼い頃に火事で両親を亡くしていること。その後親戚に引き取られたこと。努力家であること。甘いものが好きなこと。弓道は小学生から始めたこと。子供好きで、面倒見が良いこと。菫の新たな一面を知るたび、時雨は彼女に惹かれていった。
    「またね、おねえちゃん!」
    「うん、またね」
     長いようで短かった夏休みが終わろうとしている。時雨が病院のエレベーターから出ると、入れ替わるようにして親子が乗った。ナースステーションの前にはロフストランド杖を突いた菫が立っており、親子に手を振り返していた。
    「守沢、今のは?」
    「ああ、あの時の子よ」
     見て、似顔絵までもらっちゃった。菫はにこにこと笑いながら時雨にリボンか巻かれた絵を渡す。リボンを解くと、クレヨンで描かれた似顔絵と覚えたばかりであろうひらがなで『ありがとう おねえちゃん』と書かれていた。
    「ああ、よく描けてるな。壁に飾るの手伝おうか?」
    「ありがとう。……でもその必要はなさそうよ」
     菫はロフストランド杖を突きながら、悪戯っぽい笑みを見せる。
    「どういう意味だ?」
    「実は新学期が始まる前に退院できそうなの」
     それは時雨にとっても良い知らせのはず――はずだ。しかし、時雨はああ、ともうん、ともいえない歯切れの悪い返事をしながら困ったように微笑んだ。
    「どうかした?」
    「いや……これからはただの同級生に戻るんだな、と思ってさ」
     まるで菫が退院したら縁が切れるような口ぶりだ。菫はきゅっと眉を吊り上げながらそんなことないわ、と否定しようとした。
    「まあ、それはいいんだ。それより俺は守沢のことが心配だよ」
     心配。時雨はなにが心配だと言うのだろう。首を傾げる菫に時雨は肩を竦めた。
    「……守沢は優しいから。もしまた目の前で子どもが酷い目に遭おうとしていたら、守沢は迷わずその子を助けようとするだろ?」
     この数週間。菫と話す中で、時雨はある確信を得ていた。それは菫にとって、彼女自身の安全や生命といったものの優先順位がとても低いということだ。時雨とて、目の前に困っている人がいれば助けようとするだろう。しかし、菫の善意は普通ではない。トロリー問題に例えるならば、彼女は5人と1人の命を救うために自ら犠牲になることを選ぶ。レールの先にいるのが妊婦でも子供でも、老人でも病人でも、躊躇いなくそうする。裏社会という誰も彼もが自らの利益を求めて奪い合う世界に生きてきた時雨にとっては、異常であることが普通だった。そんな時雨が嗅ぎ取った異常性。守沢菫は破綻している。それでも、願ってしまう。祈ってしまう。
    「俺はもう、きみが傷付くところを見たくないんだ……」
     うなだれる時雨の頬に、小さな手が添えられる。
    「それなら、見張ってて。私がまた無茶をしないように」
     時雨が顔を上げると、菫は笑っていた。残酷なまでに優しい笑顔だった。
    「……わかったよ」
     時雨は溜め息をつきながら手に手を重ねる。ほっそりとした手には弓道の稽古によってできたものだろう、たこの硬い感触があった。爪は短く切り揃えられていて、ハンドクリームの匂いがする。
    「……好きだな」
     この手。心の中で呟くと、どうしてか菫の顔がじわじわと赤くなっていく。
    「な、なに言ってるのよ……」
    「えっ」
     もしかして声に出てた……?時雨が気付いた頃には、ふたりの顔は茹で蛸のように赤くなっていた。手を離すタイミングすら見失い、ふたりして茜色の廊下に立ち尽くす。そこに面会時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。ホール・ニュー・ワールドだ。
    「じ、じゃあ明日も来るから……」
     菫が退院したのはそれから10日後のことだった。


     時雨は年齢のわりに落ち着いていると評されるが、今日ばかりは浮き足立っていた。今日のために新しいドルマンシャツを買ったほどだ。トートバッグにハンカチや財布を入れ、腕時計を嵌める。ブレゲの腕時計は誕生日に蓬茨から贈られたものだ。高校生が持つには高級すぎるが、時雨は昔のように金一封を渡されるよりマシだと受け取った。
    「時雨ちゃん、今日はお出かけ?」
     グルカサンダルを履いていざ出発、という時に時雨に声をかける者がいた――御酒本だ。
    「……だったらなんだよ」
     時雨の予定を世話係である御酒本が知らないはずがない。時雨はまさか引き留める気じゃないだろうな、と思いながら冷たい視線を向けた。
    「いやあ、とうとう時雨ちゃんにも春が来たんやな〜……まあ、まだ夏やけど!」
     うるさいな。御酒本は蓬茨と違い、時雨にリスペクトのリの字も向けられていない。同じ世話係だというのに雲泥の差だ。御酒本はおかしいなあ、と首を捻りながら無言で敷居を跨ごうとする時雨を呼び止めた。
    「ちょい待ち!ひとつ忘れ物やで」
    「?なんだよ、」
     忘れ物という単語に振り返ると、プシュッと霧状の何かを振りかけられた。驚きながら御酒本の手元を見ると、白いラベルが貼られたボトルを持っている。どうやら香水のようだ。
    「恋のおまじない、なんてな!まあ、時雨ちゃんにはもう必要ないかもしれへんけど」
     香水にはあまり良い思い出がない。まだ祖父に引き取られる前――母親と暮らしていた頃。古びたアパートの一室には煙草とアルコール、そして香水のやけに甘ったるい匂いが漂っていた。母親はとっくのとうに正気を失っていて、時雨が成長期を迎えると彼女を捨てた父親を重ねるようになった。
    『ずっと待ってたのよ、××さん――』
     ぷつりと耳たぶを貫く感覚を、あんあんと善がる母親の嬌声を、時雨はどうやっても記憶から消し去ることができない。どぷん、と暗い記憶に沈みかけた時雨をグレープフルーツを搾ったような爽やかな香りが現実に引き戻した。
    「彩梅と選んだから間違いないと思うで。ほら、持っていき」
     彼の妻である彩梅には世話になっている。彼女の名前を出されると、時雨も御酒本のお節介を受け入れざるを得なくなる。煌めく蒼玉のような、アクア・ディ・パルマの香水を受け取ると今度こそ玄関を出た。
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