タイトルはまだ未定 月冴ゆる頃、基経は自邸の庭に面した縁側に立ち、一人空を見上げていた。凍てつく上空の闇に浮かぶ二十六夜月は白く輝き、まるで刃のようだった。冷えて澄んだ空気は身体の熱を奪っていくものの、月や星をくっきりとさせる。基経は競うように煌々と輝く夜の者たちを眺めていた。
そんな中、ひょう…と吹いた風と共に梅の香りが基経の前を舞った。
もう梅の時期か、と基経は空から目の前に広がる庭へと視線を移した。けれどそこに梅の木はない。当然だ。庭のこの辺りに梅の木があった記憶はないのだから。
梅の香りは気のせいだったのだろうか。
はーっと白い息を丸く吐き出す。目を閉じると、脳裏に浮かび上がるのは一人の青年の姿。学生の象徴とも呼べる桔梗色の頭巾を被った青年。他の学生の頭巾の結び目の先の布はへたりと下がっているというのに、その青年だけは天を向いている。貪欲に知を求め続ける青年の性格を表しているようだった。
そういえば、その青年の初めての歌は梅の花を詠んだものだったと忠臣から聞いたことがある。きっと梅の花が好きなのだろう。
無性にその青年の顔が見たくなった。
❇︎
基経は菅家の敷地内へと足を踏み入れていた。皆、眠っているのだろう、菅家は静まり返っていた。そんな中、一つの対屋(たいのや)だけが仄かに明るいことに気づいた。そちらに目をやると、その対屋の外と内を仕切る御簾にその場にいる者の姿がぼんやりと映っていた。どうやら、その者は灯をつけて文机に向かっているらしい。影は文机とその者を横から見た形を作っていた。
これほど月が高く登っているというのに、未だ眠らず文机に向かっているとは。
基経は足の下の砂を敢えて踏み鳴らす。静かな夜に、その音は大きく響いた。
すぐにその音に気づいたのだろう、影は俯いていた頭を起こした。それからしばし動きを止めたものの、文机に手をつくと、すくりと立ち上がった。そして基経が見つめる御簾に、己の姿を大きくはっきりと映し出していく。間もなくして、影を映していた者の手が上から垂れている御簾を避けた。
「道真」
「基経様…!?」
基経の姿を目にした道真は、目を見開いて驚きを露わにした。全くの予想外の人物だったのだろう、動揺が手に取るように分かった。
「何故……」
「そなたの女房に案内してもろうた」
白梅か桂木か…と道真はきゅっと唇を噛む。こんな時刻でも基経が来たとなれば、案内をするしかないだろう。二人に非はない。
「今日の夜は身体が凍えそうだの」
「え、あ……は、はい……」
基経の言葉に道真は戸惑いながら返事をした。けれどその後に我に返ったのか、慌ただしく御簾を上げた。
「基経様、お上がりください。火鉢があります故…」
「そうしよう」
道真は声を潜めて基経を招く。基経は満足げに頷くと道真のいる対屋へと上がった。
❇︎
火鉢で温まった部屋は、冷えていた基経の身体を温める。
心地よい温もりに、ほ…と息をつく基経の前で道真は突然の予想外の来客に狼狽えていた。この場には円座があるだけだ。参議である基経に無礼に当たると思ったのだろう。何かもてなしをと、道真が腰を上げた。けれど基経はそんな道真を、よいと一言で制す。
「ですが…」
「よいと言っておる」
それでも納得しない様子に、基経は眉を顰める。同時に基経の纏う雰囲気が重くなった。
「は……」
道真はこれ以上基経の機嫌を損ねてしまう訳にはいかないと判断したのか、上げていた腰を下ろした。
座った道真はじっと基経を見つめる。まるで相手の出方を伺っている猫のようだと、基経は目を細くした。今日のようなことが初めてという訳でもないのに、と。
「道真。そなたは何をしておった」
先程、基経は外で御簾に影として映った道真の姿を見ている。何をしていたのかはおおよそ分かってはいたが、知らない風を装った。
「…私ですか…?」
「そうだ」
「……私は、勉強を」
「ほう、相変わらず熱心で関心よの」
「いえ、そんな……勉強は学生の本分ですから…」
道真は照れたように薄く頬を染めると、基経から目を逸らした。本人はもう大人だと言うが、その仕草は童のようだ。
基経は檜扇を口元に当てると、ゆっくりと瞼を下ろす。風もないのに、邸で嗅いだものと同じような香が漂っている気がする。
基経がぽろりと零すよう言った。
「屋敷の縁側で庭を見ていた時、梅の香りがした」
「え…?」
突然の話題の転換に道真は戸惑ったような声をあげた。
「だが、梅の香りがしたというのに、近くに梅の木はないのだ」
「はぁ……」
「良い香りであった」
基経の言わんとしていることが掴めないのか、怪しいと思っているのか、道真の顔が険しくなる。まさか、基経までもが鬼の仕業とでも言のだろうか。
すっと、基経の瞼が上がり、眉に皺を寄せる道真を見つめた。
「知っている、好みだというのに、自分の傍には無い梅が似ていると思うた」
「え……」
檜扇を下ろし、基経は膝を立てて半歩前に足を出すと、前に座る目を丸くしている道真の頬へ手を添えた。
「私はそんな梅を取りに来たのだ」
そのまま、ゆるく己の方へと寄せるとその薄い唇を覆った。その唇は乾燥しており、いつもより硬くひやりとしているのが唇を通して分かった。僅かに空いた隙間から舌を滑り込ませると、道真の身体は小さく跳ねる。基経の舌が萎縮するように奥で強張っている舌へ伸び、絡みつく。水音が漏れる度、じわりじわりと道真の冷えていた頬が熱を帯びていった。
小さな音を立て、透明な糸を紡ぎながら二つの唇が離れると、道真は水を張った瞳を基経へと向けた。その目はどことなく物足りないと訴えるようで。いじらしい姿に基経は顔を綻ばすと立ち上がり、道真へと手を伸ばした。
「道真、そなたの御帳台へと案内してくれぬか」