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    続き。デリカシーの無い誘い方をするルがいます。

    変人結婚協奏曲(2)『神代類スクープ! 共演女優と密会!?』



     ――こういう時、フリーランスって後ろ盾が無いから厄介だ。

     そのニュースを類が知ったのはえむによる一報だった。先日の舞台は満員御礼で無事に終了したが、休む暇なく次の仕事が待っている。えむが電話をくれたのは、司が出かけたのを見送った後、ノートパソコンでメールのチェックをしている時だった。

    「類くん類くん! 大変大変大変!!」
    「うんうん、大変なことは伝わったよ。どうしたんだい?」
    「大変なんだよ~!!」
    「うんうん、そうだねえ」

     大慌てのえむの話を要約すると、類の不倫報道が流れたらしい。
     送ってもらったURLに飛べば、ゴシップ記事を扱う週刊誌のウェブ版が開かれる。類ともう一人の人物が写った写真に添えられた、つらつらと書かれた文章。

    『ネオンの光る歓楽街で寄り添う妙齢の男女。長身の美男子は新進気鋭の演出家、神代類だ。隣にいる華のある女性は舞台共演者の俳優らしく、二人は終始仲睦まじい様子でホテル街へと消えていった。神代類は俳優である天馬司と今年の春に結婚を発表したばかりで、この短期間で美女と浮気とは、いやはや羨ましい限りだ――』

     ……なるほど、よくあるネタだ。盛り上げようとして無駄に飾り立てた文章が癇に障る。
     この共演女優というのは先日の大阪で行われた舞台に出演していたから、もちろん類とも面識がある。写真は最終日に行った打ち上げの様子だろう。上手く二人だけが切り抜かれているが、周りには他の役者やスタッフもいた。ザ・捏造だ。

    『類くん? 大丈夫……?』
    「ああ、ごめんね。ちょっと考え事をしていて」
    『うーん……あ! うちの芸能部門に対応手伝ってもらおっか? 相手の人との調整もあるだろーし!』
    「ああ、それは助かるよ。お願いできるかな?」
    『りょーかい、任せて! も~類くんも司くんも忙しいのにこういうことするの、困っちゃうよね!』

     びゅびゅんと解決するよ! という頼もしい声に笑って、少し会話を交わした後に通話を切る。正直面倒なことになったと思っていたからありがたい。えむは事務所の後ろ盾を持たない類のことをいつも気にかけて、こうやって融通を利かせてくれたりする。
     それにしても――まさか自分がこんなゴシップのネタにされるとは。
     十中八九、司との結婚の影響だろう。売れっ子俳優の結婚は大分ニュースになったから、その相手がスキャンダルなんて格好の騒ぎだ。煩わしいことこの上ないが。

    (そうだ、司くん)

     パートナーなのだから、絶対に司にも迷惑がかかる――むしろもう記者が張り付いているかもしれない。早めに伝えておかないと、と焦ったのだが。

    『そうか、わかった』

     類の連絡に対する返事は素っ気ないものだった。肩透かしを食らった気分だ。

    『類は大丈夫なのか?』
    「え、ああ、うん。今日は外に出る用事も無いし、大人しくしているよ。司くんこそ気をつけてね。何かあったらすぐに連絡してね?」
    『わかった。じゃあな』

     そう言ってあっさり切られてしまった。拍子抜けだ。
     通話が終了して暗くなった画面をぼんやりと見つめる。

    (……僕に女性との噂が立とうがどうでもいいってことなんだろうか……)

     どうせ本当のことじゃないと思っているから動じなかったのかもしれない。類が浮気したと信じられてしまうよりは断然マシだが、ちょっとくらい気にしてくれてもいいんじゃないだろうか。偽装とはいえパートナーなのだから、この対応はちょっと面白くない。これが類なら絶対に嫉妬する。噂だろうと嫉妬する。

    「はあ……」

     大きくため息を吐きながらスマホでSNSをざっと流し見たが、幸い世間の目は好意的だ。類に限って浮気は無いらしい。どういう信頼の仕方なんだ、と思わなくもないが、これなら公式文を発表してしばらくすれば直に収まるだろう。
     それよりも司の反応の方が気になる。類だって司のすべてを知っているわけではないが、それにしたって先程の態度はおかしかった。何か他に原因があるんだろうか。体調が優れなかったり、嫌なことでもあったんだろうか。

    (心配だ……)

     仕事をしようとしてもちっとも集中できない。パソコンのキーボードに手を置いたままぼうっとしていたら再びスマホの着信が鳴って、類は弾かれたように手に取った。えむだ。

    「もしもし、えむくん?」
    『あ、類くん! これから担当さんがメール送るから確認してだって!』
    「ああ、ありがとう。すごく助かるよ」

     流石鳳グループ、仕事が早いと感心していた類に、えむが様子を窺うようにして声を掛けてきた。

    『類くん、やっぱり大変だよね。嫌なこと言われたりした?』
    「……いや、そうじゃないんだけど……」

     そう、有象無象の誹謗中傷などどうでもいい。類の頭を占めるのは司のことだけだ。
     年下の仲間に心配かけるのもどうかと思いつつ、司の考えなんて類がいくら考えてもわからないのだ。少しばかり話してみるのもいいかもしれない。

    「司くんにも記者がつくだろうから、僕の不倫報道が流れたことを伝えたんだけどね。やけに反応があっさりしているというか、通話もすぐに切られてしまって」
    『ほえ~司くんが~……』
    「彼を煩わせたいわけじゃないから、別にいいんだけど、いいんだけどね」
    『うんうん』
    「……反応が無いのも、ちょっと面白くないっていうか』
    『そっかあ~』

     言葉の合間に挟まれる相槌が心地よくて、ついつい子供みたいな言い分まで出てしまった。えむの軽やかな声には、包み込むような優しさがある。
     情けないことを言ってしまっただろうかとちょっと後悔していると、『う~ん』と唸っていたえむが口を開いた。

    『司くんも、面白くなかったのかも』
    「うん?」
    『だって類くんと結婚してるのは司くんなのに、他の人とお似合いですよ~なんて言われたらむぎゅぎゅーってしちゃうよ!』
    「うーん……そうかな?」
    『そうだよ!』

     絶対に、と太鼓判を押されて、偽装結婚だと言い出せない類は曖昧に微笑んだ。のだけれど。

    『司くん、類くんと結婚してからキラキラがいっぱいで、大好きだ~っていうのがすっごく伝わってくるもん! きっと類くんのこと心配させないようにって思ったんだよ』
    「…………そ、うなんだ」

     えむの言葉に、類はぎゅっと胸を掴まれた気がした。他人から見て、しかも人の感情に敏いえむが、司は類のことが好きだと言っている。聞いた瞬間、にわかに鼓動が激しくなった。

    (いやいや、え……?)

     ドクンドクンと。心臓が騒ぎだして、顔が火照ってくる。
     いや、えむは大好きと表現しただけで、司が類のことを友人として好きなことはわかっているつもりだ。そう。だというのに、やけに心臓の音がうるさくてたまらない。

    (勘違いするな。……勘違いって何だ?)

     友人としての親愛の話だ。それ以上もそれ以下も無いだろう。
     そもそも嫉妬したと言っても友人同士なのだから、仮に相手に恋人ができたとしても何ら問題は無い。寂しく感じることはあるだろうが、心から祝福できるはずだ。大事な人に、愛する人ができて。類だって、もし司に好きな人ができて結婚を解消したいと言われたら、笑顔で――。

    「……」

     笑顔で。
     無理かもしれない。想像だけで腹の辺りがチクチクと痛んでくる。
     だって司のことが大好きなのだ。唯一無二の親友で、偽装結婚のおかげで一緒に暮らせて、何の口実もなくそばに居られて。出会ったころから考えると、今や彼にとってかなり近い関係だと自負できるくらいには時間を共にしてきた。
     それなのに、未だ見ぬ恋人が、いつか司をかっさらっていく。
     到底許せるわけが無い。そんな相手より、類の方がもっともっと、何億倍も司のことが好きなのに。それなのに、恋人だからというだけで司の隣を類から奪ってしまうのだ。嫉妬? するに決まっている!
     ずっと――ずっと司のそばに居続けるにはどうすればいいのだろう。彼はどう思っているのだろう。えむの言った通り、類のように、嫉妬してくれていたのだろうか。
     一緒にいたいと、思ってくれているだろうか。

    『……類くん?』

     スマホ越しに心配する声音が聞こえて、類はハッと我に返った。

    「ごめんね。……えむくんのおかげで、ちょっとわかったかもしれない」
    『ホントっ? 司くんとお話しできそう?』
    「うん、本当にありがとう」
    『どういたしまして!』

     がんばってね、と軽やかな別れの挨拶に微笑を浮かべて、類はスマホを耳元から下ろした。画面に表示された時刻は、司に電話してからまだそれほど経っていない。

    (――司くんが、どう思っているか。僕は、どうしたいのか)

     目を閉じて、ゆっくりと息を吐く。
     しばらくした後、類はメールを確認するため、再びパソコンに向き直った。





     司が帰って来たのは日付も変わりそうな夜も深まった頃だった。先に寝てていいとメッセージは貰っていたが、類はリビングのソファに座って待っていた。何も手につかないままぼうっとしていたから、ガチャリと鳴った玄関の音にすぐに反応して立ち上がった。

    「おかえり」
    「お、おお……ただいま。起きてたのか」
    「ちょっとね。でもこのくらいの時間ならいつも作業とかしてるよ」
    「それは早く寝ろ」

     軽く笑って鞄を置く仕草はいつも通りに見えるが……類と目を合わせようとしない。

    「食事はどうする?」
    「もう遅いからスープだけ飲む」
    「わかったよ」

     常備してあるレトルトのスープを用意する。と言ったってスープボウルにフリーズドライを開けて沸かしたお湯を注ぐだけだ。
     椅子に座った司の目の前にことりと置くと、「ありがとう」と言ってゆっくり口をつける。
     沈黙。
     類は向かいの席に座って、ちびちびと舐めるように飲む様子を眺めていた。少し疲労の色は見えるが……他に変わった様子は無い。静かに口を開いた。

    「……司くんは記者に追いかけられたりしなかった?」
    「大丈夫だ。なるべく外には出なかったし、事務所のマネージャーに車を出してもらった」
    「迷惑かけてごめんね」
    「類のせいじゃない。ただ……」

     器を置く音が、コトンと鳴る。司はじっとスープを睨みつけてしばらく躊躇っていたが、覚悟したように顔を上げた。帰宅してから、橙色の瞳とようやく目が合った。

    「結婚、やめたくなったらいつでもやめていいからな」

     ……時間が止まった気がした。
     これは、あれだろうか。世間で言う、三下半を叩きつけられているのだろうか。

    「ち、ちょっと待って。ホント、え? 僕何かした!?」
    「わっ、急に元気になったな」
    「元気どころか貧血で倒れそうになったよ! 急にどうしたんだい? マスコミに何か言われた? それとも、僕が、嫌になった?」
    「そんなことない! 類といるのはすごく楽しいんだ!」

     楽しいんだが……と言い淀む司を辛抱強く待つ。何を言われるのか、類はバクバクと鳴る鼓動を抑えるように胸元をぎゅっと掴んだ。
     結婚生活は順調だと思っていた。司に呆れられないように家事だってできる限りのことはしたし、たまに意見が食い違ったとしても話し合いで解決してきた。類はこの生活を続けるために、かつてないほどの誠意を見せてきたつもりだ。何か、気に障るようなことをしてしまっただろうか。
     そうでないとすれば、やはり、あの不倫報道が切っ掛けだろうか。誰かにまた男同士であることを揶揄されたとか。それで嫌になってしまったとか。
     ――あるいは、好きな人ができた、とか。

    「類の幸せを願うなら、と思って……」

     だから、その言葉を聞いた時、類は全身の力が抜けたような気がした。というか、「はあ?」とガラの悪い返事をしてしまった。案の定ムッとした司が反論する。

    「はあ? とはなんだ! 人が真剣に考えているものを!」
    「えーと……その幸せっていうのはどういう意味で?」
    「類はちゃんと自分を好きになってくれる人と結婚すべきだと思ったんだ」
    「司くんは僕のことが好きだろう?」
    「それはそうなんだが、そうじゃないんだ!」

     ちがーう! と叫びながら頭をかき混ぜる司がコミカルで、ぷっと吹き出してしまう。いやいや、笑っている場合じゃない。案の定、司が類をぎろりと睨みつける。

    「オレ達の『好き』は友達の『好き』だろう。結婚する『好き』じゃない」
    「『好き』の種類ね……。僕は司くんのことが好きで、結婚してよかったと思っている。それじゃあダメなのかな」
    「ダメというか……もしもの話だ。いつか類も恋をするかもしれないだろう」
    「それってもしかして、今回の不倫騒動と関係ある?」
    「まあ……」

     類にしてみたら司の発言は青天の霹靂だったから、尋ねてみたら案の定だ。どこがどう作用して恋人云々の結論に至ったのか類にはわからないが、司が変わった思考回路を持っているのは今更である。
     それにしても、人の評判を下げようとしたり仕事を増やしたり、挙げ句の果てに離婚を仄めかされたりと、ゴシップなんて百害あって一利なし、だ。
     ガセネタに心の中で悪態を吐きながらも、類は穏やかな表情を作って続きを促した。

    「僕とあの女性に何かあると思ったのかい?」
    「いや、類が違うと言ったんだ。それは信じていない。……ただ前々から思っていたから、切っ掛けではあったのかもな」
    「恋愛して、結婚することが僕の幸せだって?」
    「そう……だな。少なくとも、嘘をつき続けるよりは」
    「ふうん……」

     珍しく司の歯切れが悪い。トントン、と指でテーブルを叩きながら類は思案した。
     恋、恋ね。特定の人物に夢中になって、心を奪われること。この先の未来で、本当にそんな人間と巡り合うのだろうか。というか――。

    「類?」

     ちらりと目の前にいる司に目線を戻す。眉根を寄せて、真剣な眼差しで類の返事を聞き逃すまいと気を張っている。出会ってから、いつだって類の心の中心にいる人。大好きで、そばにいたいと思う人。

    「――なるほど」
    「おお、わかってくれたか!」
    「うん。僕と司くんが恋人になればいいんだよ」
    「はああああ!?」

     司のでっかいデシベルに耳を塞ぎながら、なんていいアイディアなんだろう、と類は頷いた。まさに灯台下暗し。類と司が恋愛関係になれば別れる必要もないし司の杞憂も晴れて一石二鳥だ。
     類が自分の発言に悦に浸っている一方で、司は頭を抱えながら目を回している。

    「ち、ちょっと待て。展開に追いつけん」
    「君の言い分ではそうなるじゃないか。恋をすればいいんだろう。君は僕が見知らぬ誰かと恋仲になって結婚することが幸せだと思っているようだけど、僕は司くんと一緒にいたいんだよ」
    「う……でもだな」
    「ねえ」

     反論する司を遮るようにして類が言葉を被せると、思いのほか口調が強かったのか司が大きな目をパチクリとさせた。背筋がビシッと伸びて、類の言葉を待っている。
     それが何だか飼い主の命令を待つ子犬のように見えて、類は雰囲気を和らげるように微笑んだ。

    「君が僕のことを大切に思ってくれているのはわかったよ。でもね……僕、今とっても幸せなんだよ」

     フフ、と類の口から自然に息が漏れる。目の前の司が一所懸命に類の言葉を聞こうとしているのが、なんだかすごく、愛おしく感じてしまって。

    「君といると、僕は一番僕らしくいられるんだ」

     ――思えば二人が高校で出会ってから、もう十年も経っている。あの頃の類は他人に期待することを諦めていて、すべての物事を一歩引いた目線で見ていた、可愛くない子供だった。夢なんて叶わないと鬱屈して、なのに希望が降ってくることを待ち望むばかりの日々だった。――そんな類のもとに、司が嵐のように現れたのだ。
     視界が開けた気分だった。司は類の心をぐちゃぐちゃにかき乱して、振り回して。そうして一番真ん中にでかでかと居座ったのだ。まったく迷惑な話だ。たった一人の存在が心を揺さぶるなんて、類は生まれて初めて知った。
     それからだ。類の世界は急速に色づいて、座り込んでいた腕を無理矢理引っ張られて、たくさんの景色を見せられた。たくさんの人と出会って、世界は素晴らしいのだと教えてもらった。そうやって経験するうちに、司と同じ景色を見ていたいと願ったのだ。彼の隣に立って、ずっと。
     こんな人、もう二度と出会えない。
     それを幸せと呼ばないで、何と言うのだろう。

    「……他の誰かじゃない。君といるから、幸せなんだよ」

     そう静かに告げると、司は表情を隠すように顔を伏せた。ちらりと見えた司の目は膜が張ったように潤んでいて、ずずっと鼻をすする音が聞こえる。

    (ああ……)

     類の想いは違わず、司に伝わったらしい。感受性が豊かで涙腺の弱い司はちょっぴり泣き虫だ。でも、それがいい所だと類は思っている。こうやって気持ちが伝わっていると感じさせてくれるから、愛おしいとさえ思う。

    「フフ、白状するとね……最初にあの、酔った冗談をみんなに誤解されてしまったあの日、僕はまったく困ってなかったんだ。チャンスだと思ったんだよ」
    「……チャンス?」
    「そう、君と一生一緒にいられるチャンスだ。結婚してしまえば君を僕の隣に縛り付けられる……誓ってわざとそそのかしたわけじゃないよ。……いや、どうだろう……酔っぱらっていたから僕も記憶が曖昧なんだ」

     軽蔑したかい? と類が問いかければ、顔を上げた司が静かに首を振った。潤んだ瞳が照明を反射して、キラキラと光った。

    「そんなわけない。オレも納得して結婚したんだ。オレも、類と一緒にいられるのが楽しくて、嬉しくて、ずっとこのままでいたいって思ってた。幸せだったんだ。……お前のためなんて聞き分けのいいことを言ったが、きっと、お前が離れていったら泣いてしまうし、素直には喜べないと思う」

     泣いてしまう、なんて言いながら、司はぱちぱちと瞬いて何とか目を乾かそうとしている。すーはーと呼吸をして、何度か唾を飲みこんで、ようやく濡れた声を絞り出した。

    「重いと思うか?」

     躊躇いがちに放たれた言葉は、類を舞い上がらせただけだった。司が自分に執着してくれている、素晴らしい響きだ。なんたって類はその数倍は並々ならぬ想いを抱いているのだから。
     類は司の手に自分の両手を重ねるようにして包み込むと、いたずらっぽく笑った。

    「泣くだけ? 僕はきっと廃人になるよ。食事も喉を通らなくなって、いなくなった君に呪詛を吐き続ける」
    「それは……重いな」
    「重いだろう?」

     冗談めかした類の言葉に二人でクスクスと笑い合う。もっとも、類としてはまったくの冗談ではないが。
     だって、司と過ごす幸せを知った今、類はもう元の生活には戻れない。甘やかして、ふにゃふにゃにとろけさせておいて捨てるなんて、無責任じゃないか。彼のいなくなった部屋で一人、無気力に過ごす自分が易々と想像できる。きっとそのまま、心が痩せて死んだように生きていく。

    「ねえ、恋とか友情とか置いといてさ。単純に一緒にいたいか、いたくないかで考えて欲しいんだ」
    「ああ……」
    「僕は司くんさえよければずっと一緒にいたいよ」
    「……プロポーズみたいだ」
    「プロポーズでもいいよ、もう結婚しているけれど。お互いに大切に思っているんだから、僕たち世界一幸せな結婚をしているよ。それじゃあダメかな」
    「幸せ、か」
    「普通の結婚と始まりは違ったけど、こういうのもいいんじゃないかな」
    「そうだな……」

     類の言葉に頷いた司は目を伏せて、肩に入っていた力をゆっくり抜いた。握りしめたままの手は緊張に冷え切っていたが、段々と温もりを戻していく。類は指を絡めとって、司の薬指をそっとなぞった。

     この重たい感情を何と呼べばいいのか、本当のことを言うと類にも形容できない。今までお互いを一番の友人だと思っていたし、今だってそうだ。でも、たぶん、世間一般の友情とは違っている。
     執着にまみれたこの心を恋と呼ぶ気もするけど、じゃあいつから恋をしていたのだろう。
     だって、この眩しくて、光輝く星に惹かれてしまう気持ちは。きっと、ずっと前から――。

    (――まあ、いいや)

     これが恋でも、友情でも。司がそばで笑っていてくれるなら、何でもいい。ずっと一緒にいられる関係が結婚だというのなら、そこに収まるだけだ。名前を無理に当てはめる必要も無い。
     仮に恋だとしても、それは今しばらく置いておこう。いつからか芽生えていたその感情を、これから先、司と一緒に育てていくのもきっと楽しいから。

    「ねえ、改めて結婚しよう。司くん」
    「……プロポーズもされてしまったしな」
    「そうだよ。僕の一生に一度のプロポーズだ。がっかりさせないでくれ」
    「ふふ……わかった、結婚しよう。これからもよろしく頼むな、類」
    「うん。末永くよろしくね」

     目の端を少し赤くして笑う司が愛おしくてたまらなくて、類は抱きしめたい衝動に駆られたけれど、テーブルが邪魔で手を伸ばせない。でも抱きしめたら司の笑顔が見えなくなってしまうから、これでいいのかもしれない。
     嬉しさと安堵から息をゆっくりと吐き出しながら、類はもう一度司の両手を握りしめて、ふわりと微笑んだ。





     司と類が改めて結婚の約束を交わしたところで、何かが変わるわけじゃない。世間的にはそもそも結婚していたのだし。
     ただ司にとっては心の中の淀みが消え去ったような、何だか晴れ渡った気分だ。

    (類とオレはお互いを大切に思っていて、そばにいてほしいと思っている。こんなシンプルな話だったのに、何を難しく考えていたのだろう)

     恋愛だとか友情だとか一回取っ払った後に残った、類の隣にいたいという想い。その心に従うままでよかったのだ。
     ただ本音を言うと類から恋人関係を提案された時、司の胸に何とも言えずそわそわした気持ちが湧き上がったのも確かだが……ひとまず保留中である。端的に言えば、嫌じゃ無かった。結局有耶無耶になってしまったから、司は心の奥底に厳重に仕舞っている。

     そんな浮かれ切った気分のまま、類の肩に寄りかかってリビングのソファに座っている時だった。

    「デートでもしようか」
    「デート?」

     脈絡のない単語を不思議に思って、すぐ脇にあった顔を見上げる。面白いことを思いついた時のにんまりとした目だ。ちなみに類の腕は司の肩にまわされている。お互いの執着をさらけ出して以来、身体的な接触が今まで以上に増えた気がする。司も少し恥ずかしさはあるものの、心の奥が満たされるような気がして抗えない。それに、類が満足そうな顔をするから。
     司に触れている時の類の甘やかな表情を思い出して、司は咄嗟に首をぶるぶると振った。いけない、これ以上考えるのはよくない気がする。
     類は司の挙動不審な行動にきょとんとしていたが、いつものことかと気にせずに話を続けた。

    「あのゴシップ以来、僕と司くんが本当は仮面夫婦なんじゃないかって話が上がってるんだよ」
    「当たらずとも遠からず、だな」
    「だから世間にラブラブさを見せつけてやろうかと思ってね」

     そう言う類はニマニマと笑っていて、やけに楽しそうだ。まあ司にも特に反対する理由はない。己の舞台は千秋楽が終わったばかりだし、次の大きな仕事まで間がある。類もそこまで忙しいわけじゃないから時間の都合はつくだろう。
     それに本音を言えば、あの不倫報道の記事は司も少なからず癇に障っていた。ガセネタだとわかっていてもショックを受けるくらいには。
     そんな内心をおくびにも出さず、司はにっこりと笑う。

    「いいんじゃないか? 最近休みの日に出かけることなんてなかったからな! いい気分転換だ!」
    「うんうん。そうしよう」
    「どこか行きたい場所はあるのか?」
    「うーん、ウインドウショッピングかな。目撃もされやすいし」

     なんて不純な動機なんだ……とは思ったが、司に異論は無い。世間に見せつけるという目的を考えれば妥当な所だろう。

    「ならオレが類を全身コーディネートしてやろう!」
    「マネキン買いの司くんにかあ」
    「むっ。お前の山帽子には負けると思うが」
    「僕はTPOに合わせているんだよ」

     ああ言えばこう言う、口の減らない奴だ。それに司だって最近は雑誌の撮影なんかで気に入った服を買い取ったりもしている……これも一種のマネキン買いかもしれない。
     言い負かされたままでは面白くないので口を開こうとするも、「楽しみだ」と無邪気に笑っている類を一瞥すると、司は何も言わずにもう一度肩へともたれかかった。





    「類はスタイルもいいしかっこいいから着せ甲斐があるな!」
    「フフ、ありがとう。どうせなら司くんも何か買おうよ。これとかどうだい?」
    「おお、いいんじゃないか?」

     手渡されたチノパンは深い緑色で、類の試着しているシャツと色合いが似ている。せっかくなら一式揃えてしまうか、と店員にアドバイスをもらって、司自身も試着室へと入っていった。

     二人とも予定を合わせたオフ日、当初の予定通りウィンドウショッピングを決行した司と類は、モールの中のとある店でファッションショーを絶賛開催中だ。
     類に何を着せてもかっこいいせいで目移りしてしまっていたが、司の最高傑作が出来上がったと言っていいだろう。その横に並ぶ自分も、相応しい格好をしなければならない。

    「どうだ? 似合っているだろう!」

     シャッと試着室のカーテンを開けてポーズを決める。先ほど類に渡されたパンツに薄手のニット。赤味がかったジレは類が着る差し色と同系色だ。
     外で待っていた類はにこにこで「似合っているよ、司くん」と言ってくれた。スマホを取り出そうとして、あわてて仕舞っている。いつもの癖で司を撮影しようとしたものの、店内であることを思い出したらしい。

    「ね、似合っているでしょう?」

     そんな類を放っといて店員に尋ねれば、満面の笑みで「とってもお似合いです」と返ってくる。むふふ、この天馬司なのだから当然である。

    「ちょっと。僕の誉め言葉だけじゃ不満かい?」
    「お前のセンスはちょっとおかしいだろ。オレが着ぐるみの恰好をしていても褒めるじゃないか」
    「だって司くんだもの」

     ダメかい? と悪びれずに言う類には何を言っても無駄だ。
     試着した服をそのまま着ていく旨を伝えてタグを切ってもらい、精算を済ませる。鏡に映った自分達はなるほど、服が同じわけではないが色が似通っていて、親密な関係だというのがわかるだろう。これが咲希直伝のリンクコーデというやつだ。

    「うーん、バカップルだねえ」
    「バカップルついでに手でも繋ぐか?」
    「いいね」

     半分冗談だったのだが食いつかれてしまった。柔和な微笑みのくせに、「逃がさないぞ」と類の目が光っている。
     思わず苦笑いを浮かべてしまった司だが嫌なわけじゃない。そもそも結婚しているのだから誰に憚ることもないのだし。
     手を握って指を絡ませると、本気でやると思ってなかった類の手がピクリと震えて、司は口を開けて笑ってしまった。





     途中から世間に見せつけるという趣旨を忘れて司は目一杯楽しんでしまったが、そもそもデートとはそういうものだから問題無い。
     それよりも変装は控えめにしていたとはいえ、いつも通りに過ごしてしまった気がする。これで効果はあるのだろうか?

    「まあ確認してみようよ」

     帰宅してリラックスモードの類がちょいちょいと司を呼ぶ。二人してソファに座ると、類のスマホを一緒に覗き込んだ。SNSに投稿された目撃情報というやつだ。名前で検索して、スルスルとスワイプしていく。

    「ほら、あったよ」
    「おお……」

     結構な数の投稿だ。写真は撮られていないが、二人がいた大体の場所と、どんな雰囲気だったかが書かれている。

    『司くんと類くんデートしてた! イチャイチャしまくってた! しぬ!』
    『イケメンのおそろコーデどゆこと??? 足長すぎ顔良すぎ。二人を生み出した御両親ありがとう』
    『あ~もうワンツー結婚して!!』
    『↑結婚してた』

    「これは……成功している、のか?」
    「もちろんさ。偽装疑惑も晴れるしファンの子達も大喜び、僕も司くんと一緒で楽しかった。一石三鳥だよ」
    「なら一石四鳥だな。オレも楽しかったから」
    「うっ……」

     司の一言に類が大げさに胸を押さえる。それに笑いながらスマホの画面を見ていると、毛色の違う文章に目が留まった。

    『オカマ乙。きも』

     類も気づいたのだろう、すぐに画面を閉じて視界から消す。少し硬い声で「気にする必要はないよ、司くん」と言った。
     そうやって心配してくれたのはありがたいが、本当に司は気にしていなかった。それよりも思い浮かぶことがあったからだ。

    「……司くん?」
    「いや、前に似たような言葉を言われたことを思い出して……」

     前の公演の時の、あの役者だ。悪気の無い彼の一言で司は男同士の役割について考え込んでしまって、芋づる式に類との行為を想像して――。
     いやいや、思い出してはいけない! これは禁断の箱だ。性にまつわるなんちゃらの、突っ込んではいけない部分だ。
     と、そう思うのに、あの時の恥ずかしさやら申し訳なさやらが浮かんできて、司の頬をカーッと赤く染める。

    「え、何で? ここ照れるところだった?」
    「ななな何でもない!」
    「余計に気になるよ」

     ごもっとも。類の鋭くて――でも心配さを宿した瞳に見つめられて、司は何度も深呼吸をした。いつかはこの問題にぶつかるのだ。今がその時というだけ。ええい、覚悟を決めろ!

    「その、結婚生活は色々あるだろうが、どうしても、人間の欲求としての、し、子孫を作りたいという衝動があるだろう……」

     恥ずかしすぎてなるべく遠回しに、オブラートに包んで言った言葉を理解してくれた類は、なるほどと頷いた。

    「性的欲求のことかい?」
    「う゛。まあ、平たく言えばそうだ。いや、オレ達は男同士だしな? 元々はルームシェアみたいなものだったし、そういうことは考えてなかったから、話し合いはしておかないと、と思ったんだ」
    「ふむ……」
    「る、類がそういうことを発散したいと思って他に恋人を作るのは有りだからな!? オレのことは気にせずにしてくれ……!」

     言い切ると、目をぎゅっと瞑って、がばりと顔を伏せた。熱くて類の顔が見られない。何を言ってるんだ己は。
     でも、この問題は避けては通れないだろう。健康的な成人男性なのだから、どうしたって溜まってしまう。だから類がそのために女性と付き合うというなら、司は縛ることができない。できない、のだが――。

    (嫌に決まってる……)

     司だけに見せてくれるあの甘い表情を他人に見せるかと思うと、全身の血が抜けるような心地がした。類はどんな人を選ぶのだろう。誰でもいいのだろうか。それなら、どうせなら……いや、どうせならってなんだ! オレは男! 類も男!
     悶々と考え込んでいた所をちょんちょんとつつかれて、司は顔を上げた。類も何やら神妙な顔をしている。

    「そこで何で他の恋人の話がでるのか不思議なんだけど……僕達結婚してるんだよね?」
    「そ、そうだが」
    「じゃあ何で僕と司くんっていう選択肢が無いのかな」
    「んぎッ!?」

     類の言葉に、喉が詰まったような変な声が司の口から出た。よもや類の方からその可能性を示唆されるとは。

    「司くん?」
    「え、や、その……男同士だし……」
    「男同士だろうとセックスはできるだろう」
    「ひぃ~~!」
    「フ、もう、ちょっと面白いからやめてくれよ、そのリアクション芸」
    「芸ではない!!」

     じたばた悶えていた司だったが、類の発言には思わず突っ込みを入れてしまった。一連の流れがもはや癖になっている。
     それにしても、類の口から男同士のセックスなんて言葉が出るとは。もしや司とあれこれすることに抵抗は無いのだろうか。いや、司だってあの役者の発言を聞くまでは考えもしてなかったのだ。あんな、類との行為を妄想など――。

    「色々聞きたいことはあるけれど……もしかして、司くんは僕でそういう想像をしたことがあるのかな」
    「へ!?」
    「しかもその様子だと嫌悪感は無かったみたいだ」
    「なっ、バカ! 人の心を読むなこのナス!」
    「ちょっとそれ、悪口なの? 僕のことナスだと思ってた?」

     人の髪色をなぞった言葉に類は苦笑して、それからじろじろと司の顔を見てきた。

    「うーん……」
    「何か言え……居たたまれない」
    「セックス、試してみる?」
    「ぶっっっ」

     突拍子もない発言に吹き出してしまった。変なところに唾が入ったらしい、ゲホゲホと咳きこむ司の背中を類が優しく叩いてやる。いつも通りの、柔和な笑み。何を考えているのかさっぱりわからない。

    「ま、待て待て! 何故そんな発想になる!?」
    「何事も試してみないとわからないよ。うん……僕、司くんならイケる気がする」
    「あ、ありがとう? ……じゃなーーい!」
    「僕は司くんが好きだし、司くんも僕のこと好きだろう?」
    「好きだ!」
    「なら問題無いじゃないか」
    「そうなんだが~!」

     何故か言いくるめられているような気がする。
     プロポーズは受けたし、これから類と共に生きていく覚悟もある。でも、司の中では友情の延長線上というか、好きの境目がハッキリしないのだ。そんな状態で体を重ね合わせていいものか。
     うんうんと唸る姿に苦笑しながら、類がそっと司の頭を撫でる。その優しい手つきに自然と目が細まって、司はとろんとした目つきで目の前の男を見上げた。

    「まあ僕も男だし、そういう欲求が無いとは言わないよ」
    「お、おお……そう、だよな」
    「でも男同士だろうと僕と司くんという選択肢があるのに、確かめもしないで外に求めるのは早計だよ」
    「……そうかもしれん」
    「流石にいきなりセックスはしないよ。ただお互いがお互いに興奮できれば君の杞憂は晴れるだろう?」
    「こ、興奮って……」
    「だからとりあえず――」

     言葉が途切れて、ちゅむ、と何かが司の唇に触れた。柔らかくて、ちょっとかさついている。それが何なのかなんて、流石にわかる。ただ、いきなりすぎて理解が追い付かないだけで。
     ゆっくりと顔を離した類がはにかんだように微笑む。

    「フフ、真っ赤だ」
    「……お前もな」

     思わず憎まれ口を叩いてしまったが、これは許されるだろう。思い立ったら即行動が過ぎる。何の予告も無く、キスをするとは。
     今更実感が湧いてきて、司は自分の唇を指でなぞった。ここに、あいつの唇が……。

    「ねえ、僕、司くんにドキドキしちゃった」

     顔を赤らめて、瞳を潤ませた類がそっと囁く。内緒話みたいに。いや、これは正真正銘、二人の内緒事だ。
     また類の顔が近づいてきて、鼻先が触れ合う。司の心臓はバクバクと大騒ぎして、口から飛び出てきそうだ。司だって類に、この男にドキドキしている。

    「オ、レもだ……」
    「じゃあ、おそろいだ」

     嬉しそうに弾む声。至近距離で見る類の瞳は、きらきら輝いて、宇宙みたいだった。段々と瞼が閉じられて、そうっと唇が触れる。あたたかい、二度目のキス。どうしてこうなった、と思わなくもないが。

     おそろいなら、まあいいか。と思ってしまった。





    「司くん」

     まただ。

     じいっとこちらを見た類が、何も言わずに微笑んでいる。痛いくらい、唇に注がれる視線。
     司はため息を押し殺すと類のそばへと近寄り、首を少し傾けた。フフ、とくすぐるような笑い声が聞こえて、吐息がかかった後、はむりと下唇を食まれる感覚。

    「ん……」

     意識せずに声が漏れる。はむはむと下唇を弄んだ後、舌先でちろちろと唇の隙間をなぞられて、思わず開けそうになった口をぎゅっと引き結んだ。その間も、クスクスと喉を震わせる音が唇越しに伝わる。開けてくれないかな、とお願いしてくる舌先がくすぐったくて、力が抜けそうになるのを必死に耐える。
     早く終われ、と念じたのがようやく伝わったのか、一つリップ音を鳴らした類がやっと顔を離した。にんまりと、三日月型の瞳が司を見下ろしている。熱い。

    「司くん、いってらっしゃい。今日も頑張ってね」
    「いってきます……」

     これが、最近の習慣である。





     類とのファーストキスを終えた日から、二人のルーティーンにキスが加わった。別に、それ自体は司にとって問題無い。相手が大切だという愛情が伝わってくるから、むしろ好きなくらいだ。好きなのだが。

    (最近のはちょっとやらしすぎないか!? 毎回ドキドキしてしまう……いつか倒れてしまうんじゃないだろうか)

     最初の唇同士をくっつけるのなんて、序の口だった。回数を重ねるにつれ、唇を食まれたり、猫のようにぺろぺろと舐められたり、バリエーションに富んできている。何があいつをそんなに研究熱心にさせるんだ。
     司の心臓は毎回大騒ぎしてしまって、少しは手加減してほしいと思いつつ、類の満足そうな顔を見ると何も言えなくなるのだ。

     そんな刺激的な『いってらっしゃいのキス』を受けた司は現在、ドラマ撮影の待ち時間を用意された椅子に座って過ごしていた。舞台役者がメインではあるが、こうやって定期的にテレビメディアでの仕事も貰っている。探偵物の主役に抜てきされたため台詞量は多めだが、舞台に比べれば一度に覚える量はそれほどでもない。
     背後で司の髪をいじっていたヘアメイクの担当者が雑談交じりに話しかけてくる。

    「最近の天馬さん、演技に迫力がありますよね。こう、説得力があるというか」
    「そうですか? 嬉しいですね」
    「きっと結婚したおかげですね~」
    「そ、そうかもですね……」

     急に突っ込まれたせいで今朝の類を思い出してしまった。キスで少し湿った唇と、弓なりに細まったイエローの瞳。焼け付くように司を見つめる視線。
     顔に血が上っていくのが自分でもわかる。

    「顔真っ赤! え、惚気? 惚気ですか天馬さんっ?」
    「惚気ではなーーい!!」

     揶揄うような言葉に思わず大声で否定してしまった。あわてて周囲に「すみません」と頭を下げたが、司の大声に慣れ切ったスタッフ達は笑って流している。
     メイクをしているせいで顔を手で覆うこともできず、司は誤魔化すように息を細く吐いた。まったく、いてもいなくても司を振り回す男である。





     無事に本日分の撮影を終えた司がマネージャーの用意してくれた車に乗り込むと、ちょうど手に持っていたスマホが着信音を鳴らした。電話だ。

    (咲希じゃないか!)

     最愛の妹の名前に気分が上昇し、いそいそと通話ボタンをタップして耳元に当てる。

    「もしもし、咲希か! 久しぶりだな!」
    『お兄ちゃん久しぶり! 元気にしてた?』
    「もちろんだとも。体調管理はバッチリ、すこぶる健康だ。咲希は風邪ひいてないか?」
    『ふふ、アタシも元気だよ~』

     明るい咲希の返事に自然と司の目が細まる。最近は滅多に体調を崩すことは無くなったが、いつだって妹のことは心配になってしまう。兄の性だ。
     主にお互いの仕事に関して近況を言い合った後、何やら電話の向こうでムズムズと言い出したそうな雰囲気を感じて、司は「どうした咲希?」と促した。

    『ね、お兄ちゃん。るいさんとは上手くいってる?』
    「あー……、なんとかな」
    『お兄ちゃんってば結婚以来お家に帰ってこないから、お母さんもお父さんも寂しがってるよ~。たまには顔出しなさいだって! たぶんるいさんとお話したいんだろうけど』
    「そうか……」

     本題はこのことだったらしい。咲希もバンドが忙しくて中々会う機会が無かったが、両親の顔もしばらく見ていない。結婚の報道初日に両親から連絡があって一度挨拶には行ったが、それきりだ。
     父も母も、司が結婚相手として類を連れて行ったときはそれはもう喜んでいた。高校生の頃から知っている顔だしこれ以上の相手はいないと言って、涙ぐんでいたぐらいだ。いや、父は実際に大泣きしていた。
     だから、後ろめたかったのだと思う。
     愛し合って結婚した両親に、本当は違うのだと隠しながら会うのが、心苦しかった。
     でも今は違う。オレ達はお互いを大切に思っていて、幸せな結婚をしたのだと胸を張って言える。

    「……そうだな。近いうちに会いに行く」
    『ホント? じゃあアタシも都合がつけば会いたいから、教えてね! パーティーしちゃおう!』
    「ふふっ、わかった。じゃあまたな」

     別れの挨拶をして通話を終了しても、コロコロと鈴を転がすような声が耳に残っている。妹の明るい声は、いつも司の心をあたためてくれた。

    (もう一度、ちゃんと挨拶したいな……)

     もちろん、類の両親にも。家に帰ったら早速相談してみよう。
     司は自然と笑みを浮かべながら瞼を閉じて、座席にあずけた体から力を抜いた。





    「ということがあってだな」
    「へえ」

     寝る前にノンカフェインのお茶を飲みながら、司と類はテーブルに向かい合って座っていた。両手でマグカップを包みながらふうふうと息を吹きかける類を、目を細めながら見る。
     類はちびちびとお茶を飲みながら、「うーん」と言った。

    「じゃあ、結婚式しようか」
    「は!? どういう流れだ!?」

     また変なところに唾が入って咳きこむところだった。類の突拍子の無い言動にはいつまでたっても慣れる気がしない。

    「僕も改めて挨拶はしたいと思っていたんだよ。他ならぬ司くんのご家族だもの。それにえむくんや寧々、他のみんなにも。それならいっそのこと結婚式を開いた方がいいんじゃないかってね」
    「うーむ、一理あるな」
    「それにね、昔結婚式の演出を代打でしたことがあっただろう?」
    「……ああ! オレの代わりに冬弥にエキストラで出てもらった時だ」
    「そうそう。あの時思ったんだよ。結婚式って幸せを分かち合える特別で素敵なショーだなって。いつか司くんが結婚するなら僕が演出したいなって」

     あの話は司もよく覚えている。冬弥と、それに彰人と白石も一緒になって類の演出で結婚式を盛り上げたんだったか。大分昔の話だ。そう、高校の頃の――。

    「ってそんなこと考えていたのか! いつの話だ!?」
    「だからあの時だって」
    「まだ高校生じゃないか!」
    「うん。……その時は司くんの隣には素敵な女性が立っているんだろうなって思ってたんだけど」
    「素敵な演出家だったわけだ」
    「フフ、ありがとう。とにかく司くんの結婚式を演出するのは僕の夢だったんだ。司くんに好きな人ができた時のために結婚式は挙げない方がいいかなって思ってたんだけど」

     照れくさそうに類が頭をかく。高校生の頃だなんて、そんな司が結婚するかどうかもわからないものを随分前から思い描いていたらしい。健気というか気が早いというか。
     まあ、そんな夢を叶えてやるのもスターの役目だろう。

    「ふふん、なら今が夢の叶え時だな!」

     司がにっこりと笑いかけてやれば、類の顔もぱあっと明るくなる。

    「せっかくならえむくんのお言葉に甘えてフェニックスワンダーランドを借りようか」
    「いいな! これも名誉宣伝大使の一環だ。ネオフェニックス城を使った盛大なショーをしようではないか!」
    「ストーリーはやっぱり僕と司くんの馴れ初めかなあ」
    「ふっふっふ、ならばえむと寧々にも協力してもらわんとな」
    「フフ、腕が鳴るね」

     フェニックス城を使えるなら、演出はどうしよう。ベタだけれど花火はマストだよな、やっぱり司くんには飛んでもらいたいねえ、なんてポンポンと意見が飛び交う。やると決めたばかりで今から楽しみにしても仕方ないのだが、類と一緒だとあれもこれもやりたくなるから困ってしまう。

    「幸せだなあ」

     会話の途中、ぽつりと零れた類の言葉が、とん、と司の胸を優しく打った。

    「一生一緒にいたい人と結婚できるなんて思わなかったよ。僕は幸せ者だ」

     そう言って司を見る視線が、表情が、仕草が。全身で司を愛していると伝えてくるから、言葉に一瞬詰まってしまった。何だか、泣きそうだ。

    「……これからもっともっと幸せになるんだぞ。この天馬司が全力を尽くすんだからな!」
    「なるほど、僕も頑張らないとね」

     声が震えてしまわないように、司は腹にぐっと力を込めて言った。類も柔らかな表情で返してきて、とてもいい雰囲気だった。はずなのに。

    「ついでにセックスもそろそろ試してみるかい?」
    「ぶっ、……ゲホッ、、え?」

     今回こそは変なところに入った。お茶を口に含んでいたら目の前の男に浴びせていたところだ……運に感謝してほしいくらいである。いや、こいつの場合それすらも計算してしゃべったに違いない。
     爆弾発言をした本人は何でもないような顔でお茶をすすっている。

    「司くん心配してたじゃないか。性生活の不一致で別れるカップルはいるだろう? 結婚式の前に確認しようよ」
    「そ、それは、言ったか!? 言ったかもしれんがな!? べ、別に今のままでいいんじゃないか、不都合は無いし……!」
    「でも司くん、この前の朝に中々起きてこないと思ったら、布団の中で……」
    「デリカシー!!!」

     もはや悲鳴のように叫んだ。
     この前というのはあれである。司が朝の生理現象を自室で処理していた所を、類にうっかり見られてしまったのだ。目が合って気まずくなったのだが、何も言わずにドアを閉めて出て行ったから、見なかった振りをしてくれたと思ったのに。というか、ノックして返事を聞く前に開ける癖を直してほしい。

    「ほら、生理的にそういうことは起きるだろう? 発散するために体の関係は外で、なんて僕は嫌だよ。司くんが僕以外の人と深い仲になるなんて、想像もしたくない」
    「お、オレも、類が他人とっていうのは、嫌だから、気持ちは、わかる……」
    「司くん!」

     がばっと身を乗り出して司の両手を握ってくるから、マグカップから少しお茶が零れてしまった。どうどう、と大型犬を宥めるように話しかける。

    「待て待て、やっぱり今のままでいいじゃないか。オレは外にそういうのを求めないし、類もしない。オールオッケーだ」
    「じゃあ僕ら二人で求め合えばなおさら効率的じゃないか。何がダメなんだい?」
    「う゛う~ん……」

     こればっかりは恥ずかしいから、としか司も言いようがない。類を好きなのは確かで、他人に嫉妬するくらいには重い感情も持っている。ただこれまでずっと友人として過ごしてきたのだ。じゃあ試してみよう、とそこまで振り切れる気がしない。

    「ね、キスの時と一緒だよ。案外嫌悪感が無いかもしれないし、視覚的に耐えられないなら目隠ししてもいいよ」
    「最初からそれはハードすぎるだろう!」
    「コミュニケーションの延長だと思えばいいんだよ。例えばチンパンジーの一種であるボノボは遊びや社会行動の一環として性的行動をとるんだけど……」
    「その話長くなるか?」
    「君が嫌ならやめよう」
    「あー……そもそも、お前はどうしてそんなにしたいんだ?」
    「もちろん、セックスにおける司くんの反応を知りたいからだよ」

     ……言ってることが最低だ。そんな人を観察対象のように。

    「……お前、それオレ以外の奴に言うなよ?」
    「司くん以外に言う訳ないだろう? 僕は司くんだから知りたいのに」
    「うううう……」

     一片の曇りもない顔で見つめられた司は、唸り声を上げるしかなかった。こんな言葉を嬉しいと感じるなんて、同じ穴の狢だ。その時点で負け確である。

    「えーいわかった! 受けてたとう!」
    「そうそう、何事も挑戦だよ」
    「なんかうまいこと乗せられた気もするが……」

     司を散々振り回してくれた類はと言えば、にっこにこの満面の笑みだ。どれだけ嬉しかったんだか、と思うが、ここまで執着されて満更でもないのがどうにも……。

    「僕で満足できたら、他の人間を探そうなんて思わないでね? そんな暇があるなら僕を構ってよ」
    「うーむ……」
    「まずはちょっとずつ準備しよう。ワクワクするなあ!」
    「何でそんな遠足みたいなテンションなんだ」

     はあ、と大げさにため息をついても、興奮した類は気にもしていない様子だ。何をしようかあれこれと考えているのだろう、これほど類の目の輝きを恐れたことはない。どんなアブノーマルな目に合わされてしまうのか。
     ――でもまあ、類が楽しそうならそれでいいか、と思うくらいには司も絆されてしまっているみたいだった。

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