「約束したからな」と笑顔で彼は頷いた ただいま、とマンションのドアを開けてすぐに違和感。センサーで反応した温かな色味のライトはいつも通りだし、ダイニングキッチンへ続くドア越しに明かりが見えているということは、司くんは帰宅している。だというのに、玄関は静かなままだ。
(えーっと……)
疑問は残るけれど、とりあえず手を洗おう。鞄を廊下に置いて右手側にある洗面所へ向かい、石鹸で丁寧に両手を洗う。次はうがい。物音を立てているから僕の存在に気づいているはずなのに、大きな「おかえり」の声は聞こえてこない。
ふーっと大きく息を吐いて鏡の前の自分に気合を入れると、リビングへ続くドアを静かに開けた。
「ただいま~……」
「……おかえり」
普段と比べると大変に静かで元気のない返事だ。僕の恋人はむすっとした顔でソファに座っている。両手で抱えている星型のクッションは彼が実家から持ってきたお気に入りで、その黄色い星をむぎゅむぎゅと大きく歪ませながら「……類」と僕を呼んだ。
いかにも怒ってますよという仕草。呼ばれるまま横に座りつつ肩を抱こうとしたら、ぱしりと弾かれてしまった。
「類! オレは怒っているんだぞ!」
「うん、それはわかるんだけど……何かしてしまったかな?」
「胸に手を当ててよーく考えてみろ」
「ふむ」
言われた通りに左手を胸に当てる。とくとくと脈打つ、人間らしい正常な心音だ。
目の前の司くんは怒りを表しているのか、柔らかなほっぺたをぷくーっと膨らませている。
(……かわいい)
まん丸の頭にまん丸のほっぺた、極めつけに大きな瞳で睨む様が、可愛くないわけがない。これで本人は『かっこいい』を自負しているのだから不思議だ。
ぷくぷくの頬を突きたくてうずうずしていると、司くんの元気な眉毛が吊り上がっていく。
「えーい、真面目に考えているのか!」
「もちろんだとも。司くんのかわいらしさを再認識できたよ」
「ちがーーーう!!」
思わず心の声をこぼしたせいで、ぷくぷくの司くんをますます怒らせてしまった。とはいえ満更でもなかったようで、薄っすらと頬を染めた司くんは唇を尖らせている。
「……プリン、食べただろ。冷蔵庫にあったやつ」
「プリン?」
予想外の言葉に、ううんと記憶を掘り返して。
「ええと、二個あったから僕のだと思って食べたんだけど。違ったんだね、ごめん」
「いや、類のもので間違いない」
「え?」
僕が疑問符を頭の上に浮かべていると、何でわからないんだ、とでも言うように司くんがぎゅむっとクッションをつぶした。
「類と一緒に! 食べようと思って買ったんだぞ!」
そう言い放ち、ふんっとそっぽを向いてしまった、その横顔が。
(……は)
つんと尖った唇に、ちらりとこちらを窺う蜂蜜色の瞳。思わず胸元を押さえる僕に構わず、司くんが追い討ちをかけてくる。
「さ、最近ゆっくりする時間もなかっただろう? 類は甘いもの好きだし、美味しい店だって聞いたから、二人で一緒に食べれたらと……」
言っているうちに恥ずかしくなってきたらしく、ぽぽぽっと頬を染めて、視線をうろうろ。下唇まで噛んでしまっている。このままだと甘え下手の司くんは発言を撤回し、何事も無かったように振る舞ってしまうだろう。
居ても立っても居られなくなった僕は、司くんが抱えているクッションごと力一杯抱きしめた。
「いたたたたっ! 痛いっ類っ!」
「司くん! ごめん! 今度は僕がプリン買ってくるから、一緒に食べようね?」
「わ、わかってくれたなら、いい……っ! こら類っ、んむ……っ、ちょっと離れろ!」
辛抱できなくなって顔中にキスの雨を降らせると、まるで大型犬を構うかのように頭をわしゃわしゃと撫でられる。いっそのこと舐めまわしてあげようかな。
僕の不埒な考えなどわかるはずもなく、司くんはくすぐったそうに笑っている。
「るい~っ、いい子だからやめろ~っ」
「え~しかたないなあ……わかったよご主人様。ところで、司くんこそ土曜日のこと忘れてないよね?」
「ふん! ちゃんとカレンダーに花丸マークをつけているから問題ない! ……というかお前が何度も言うから忘れようがないだろう」
びしっと指差した先、壁にかけられたカレンダーには、彼の言う通り赤色のマーカーで書き込みがあった。でも、と僕は口を尖らせる。
「司くん、忘れっぽいから。今までの記念日だって……」
「えーい! 忘れっぽいのは認めるし、それはオレが悪い……が、付き合って一か月だの、は、初キスから五十日記念日だの、お前は細かすぎるんだ! お前の言い分に付き合っていたら毎日が記念日になってしまう!」
「いいじゃないか、毎日が記念日で」
「よくない!」
「え~」
とってもいいことのようだけれど、司くんはそう思わないらしい。憐れみを誘う上目遣いですり寄っても、司くんは頑として首を縦に振らなかった。
「いいか、物事にはメリハリというのが大事なんだ。毎日お祝い事なんかしていたら、ありがたみが薄れるだろう?」
「ふうん。そういうもの?」
「そういうものだ!」
いまだ納得しきれていないけれど、司くんが言うならそうなのだろう。それよりも彼が『同棲一年目記念日』を覚えてくれていたことの方が重要だ。カレンダーの花丸マークからは、彼のワクワク感が十分伝わってくる。フフ、僕と一緒だ。
嬉しくなってこめかみにちゅっとキスを落とすと、司くんがくすくす笑う。機嫌はすっかり良くなったみたいで、そのままくたりと僕に体重を預けてきた。温かい、人ひとり分の重みが僕の肩に。
ああ、なんて幸せ者だろう。
■
ああ゙あ゙ぁあ゙あ゙ああああ゙ぁあ゙!!!
「――うるさいなあ」
灰色の空の下、喉から振り絞るような叫び声が響く。癇に障る声だ。僕に裁縫の心得があれば、この耳障りな音の発生源を縫い付けられたんだけれど。
じゃあ司くんなら、と頭に過るが、彼にこんな醜悪な絵面を見せるわけがない。綺麗で清らかな司くんに。想像するのもおぞましい。
僕が自分の空想に眉をひそめている合間にも、足元では一人の男が痛みに喘いでいる。背中から生えた、折れ曲がった白い翼――天使だ。
「……ねえ」
「あ゙あ゙あ、ぐッ……あ゙ぁ!」
「ねえってば」
呻くばかりでは話にならない。試しに風切羽を摘まんで強く引っ張ってやると、怯えた顔で押し黙った。僕も鬼じゃないから引っこ抜いたりはしないけど、いい脅しにはなったようだ。天使はふうふうと息を荒げながら僕を睨みつけている。
「この――悪魔め!!」
吐き捨てるような台詞。蔑んだ眼差しに、にっこりと微笑みかける。
「うんうん。でも命までは取ってないし、優しい悪魔じゃないかい?」
「ほざけ! お前らは人間を誑かす害悪でしかない! 速やかにあの子から手を引け!」
「……へえ」
翼の折れた天使は力が入らないらしく、横たわったままじたばたともがいている。人のいないビルの屋上とはいえ、だいぶ滑稽で無様だ。
強い風に煽られた白い翼は力なく揺れ、その度に呻き声が漏れている。自身の髪を手で押さえながら、僕は努めて冷静に口を開いた。
「君が言っているのは、司くんのことかい?」
「ああ……。あの子は天に相応しい魂の持ち主だ。彼ほどの清らかな魂は滅多にないから、きっと素晴らしい天使になる」
「だから、今すぐ天界に連れていくって?」
「遅いか早いかの違いだろう?」
そう言って向けられたのは、何の疑念も抱かない透き通った瞳。
(これだから天使ってやつは……)
自分達が絶対に正しいと信じて譲らない。大義に則り、人間の短い生を奪ったとして悪びれもしない。肉を捨て、神に侍ることを至上の喜びとしている。
はらわたが煮えくり返る言い分だが、早めに処理できたのは僥倖だろう。ここ数日、司くんの周囲を飛び回る不快な虫に、いい加減辟易していたのだ。大の虫嫌いなんだから、司くんに近づく虫は退治しないと。
「二度と僕の司くんに近づかないでくれ」
さて、この天使を消滅させるのは簡単だが、司くんに顔向けできないことはしたくない。彼は僕の正体を知らないから、どうにでもできるんだけど……お人好しが移ってしまったのかもしれないな。
苦笑をおくびにも出さずに手をかざすと、天使は引き攣った顔で笑った。
「はは、わかった、わかったぞ!」
「何がだい?」
「お前、悪魔のくせに人間を好きになったんだろう?」
「……」
「残念だったな。いくら貴様が堕落させようとしても、主に愛された人の子が易々と堕ちることはない」
「……そうだね」
「だったら――!?」
だったらどうだと言うのだろう。いいや、天使の戯言など、聞くに値しない。
紡ぎかけた言葉を遮るように再び手をかざし、ぐっと力を込めると、天使はみるみる輪郭を無くしていく。ついにはピンポン玉ほどの丸い光になった天使は、ふらふらと浮かんで空へと消えていった。幼体になるまで力を搾り取っただけだから、あと百年もすれば元に戻るだろう。僕も甘くなったものだ。
ふう、と息を吐いて腕時計を確認する。司くんが僕の誕生日にプレゼントしてくれた、皮ベルトのシックな色合いだ。人間社会に溶け込むため僕も仕事というものに就いているわけだが、使いやすくてかなり重宝している。司くんのセンスにしては派手じゃない、と言ったら怒られるかな。
時計の短針は真下に差し掛かる頃合いだ。明日は土曜日、約束していた記念日を満喫するためにも急いで帰らなくては。
踵を返そうとして、屋上のコンクリートに散らばった白い羽根が目にとまる。人間には見えないから問題ないだろうが、見ていて気持ちのいいものではない。司くんを天に迎えようとした奴の痕跡。
「……わかっているさ」
天使の言葉が頭の中で何度も繰り返される。彼が堕ちることはない、と。
他人に言われずとも、司くんが地の底に落ちないことなど僕の方がわかっている。あの魂の輝きは、決して汚されることはない。彼と出会って恋に落ちてからずっと。悪魔である僕とは絶対に相容れないなんて、わかっている。
だから――彼が死んだ瞬間に刈り取る。僕のものにする。
清らかな魂が見せるほんの一瞬の隙だ。肉体を離れた僅かな時間、曖昧な存在の魂を僕と同じところまで引きずり落とすのだ。そうすれば、死後も一緒にいられる。
「フフッ」
ああ、なんて甘美な夢。司くんはきっと怒るだろう。それとも、あまりのおぞましさに泣いてしまうかも。黒く汚れてしまった魂を抱いて、僕を恨んで。はらはらと涙を流して、永遠に憎んでくれる。
そしたら――二度と彼の笑顔は見られない。僕の一等大好きなきらきらの笑顔。周りを照らすような眩い光。
司くんにはずっとずっと笑っていてほしいのに、僕は悪魔だから、醜い欲望を捨てられない。
「……どうすればいいんだろう」
ぽつりとこぼれた言葉は、誰に受け止められることなく風に消えていった。
■
ただいま、とマンションのドアを開けると、それはそれは元気な「おかえり!」の声が返ってきた。と同時に開くリビングのドア。エプロンをつけた司くんがぱたぱたとスリッパを鳴らしながら出迎えてくれる。いい匂いがするから、夕飯の支度中だったのかも。自分の頬がゆるむのを感じながら、手に持っていた箱を差し出した。
「何だ?」
「この前のプリンのお詫びだよ。買って来たから後で一緒に食べよう?」
「おお、ありがとう!」
にっこり笑って受け取った顔がかわいくて思わず抱きしめようとしたら、すかさず「手洗いうがい!」と叱られてしまった。僕は風邪なんてひかないんだけど、正体を知らない司くんに通用するわけがない。
すごすごと洗面所へ向かい、逸る気持ちを抑えて丁寧に手洗いとうがい。上着をぽいっと自室に放り投げたら、愛しい人が待つリビングに直行だ。キッチンスペースでオーブンを眺めていた司くんに抱き着こうとすると……。
「ちゃんとスーツはハンガーに掛けたか?」
「う……」
さすが司くん、わかってらっしゃる。
僕は二度目の退散にすごすごと自室へ戻り、上着を床から拾い上げてハンガーに掛けた。言われる前にブラッシングもしておこう。シャッシャッと適当にブラシをかけたら今度こそリビングへ戻る。司くんは呆れた顔でため息をつきながら、「まったく……」と出迎えてくれた。
「司くん……」
司くんの怒ってる顔が好きでわざと怒らせることもあるけれど、こうも頻繁だとうんざりされるかもしれない。そうして、いつか僕に愛想を尽かして、別れようなんて言われたら……。
ぞっと背筋が凍るような想像に勝手にショックを受けた僕は、できるだけ肩をすぼめて上目遣いで見つめた。ごめんなさい、今度から気をつけるよ、ゆるして、の意味を込めて見上げると、司くんの口元がもごもごと動く。
「~~っ怒ってないぞ! ほら、ただいまのハグだ!」
「……うん!」
お言葉に甘えて、ちょろかわいい司くんを両腕で抱きしめる。僕より少し小さくて、でもしっかりと鍛えている体。首元に顔を埋めると、ふんわりお日さまの匂いと……。
「司くん、香ばしい匂いがするね」
「豚肉を焼いていたせいかもな。さあ、今日は御馳走だぞ!」
「フフ、楽しみだ」
「というわけで早く放してくれ」
「そんなあ……」
ぺしっと背中を叩かれ、しぶしぶ体を離す。駄々をこねて司くんの機嫌を損ねたら元も子もないからだ。
なんたって明日は『同棲一年目記念日』。丸一日デートの約束はしているけど、その前夜祭として御馳走を用意してくれるなんて……否が応でも愛しさが溢れてしまいそうだ。冷蔵庫から出された彩り豊かなサラダは見ないフリをして。
「そんな、あからさまに目を逸らさなくてもいいだろう。野菜たっぷりサラダ、美味しいぞ」
「こればっかりは相容れないんだよ、司くん。きっと前世で因縁があったんだろうね」
「スケールがでかいんだか小さいんだか」
呆れたように笑う司くんは「今日はお祝いだから食べなくていいぞ」と言ってくれたけど、うきうきでディナーを用意してくれた彼を想えば、一口くらい……いや、でも……。
僕が憎しみと愛の狭間で葛藤している間に、ピーという電子音が鳴ってオーブンが動きを止める。司くんがオーブンのドアを開けると、肉の焼けるジューシーな香りが漂ってきた。ガーリックも一緒に焼いたのか、食欲をそそるいい匂いだ。
「どうだ、ローストポークだぞ!」
昨日から下拵えした自信作だ、と言いながら料理を確認している司くんの後ろ姿は、エプロンの結び目が動きに合わせて揺れている。ゆらりゆらりと動くから、どうにもムズムズしてしまって……。
「……類」
「えっ? ど、どうかした?」
くるりと振り返った司くんに、ドキッとして手を引っ込める。危ない、誘惑に負けてリボンを解いてしまうところだった。
不埒な手を背中に隠して笑いかけると、僕の不審な動きに気づいていない司くんは、何故か恥ずかしそうに頬をかいている。
「実はだな、少々レシピを見落としていて……もう十分ほど余熱で火を通さねばならないんだが……」
「そうなんだ? でも食事の用意してたらあっという間だよ。せっかくだからちょっといいグラス出そうか?」
「う~~、そ、それもそうなんだがっ」
僕が的外れなことを言ってしまったようで、司くんはスリッパを履いた足で床をトントンと叩く。ほっぺを膨らませて、そのままプイっ。恨めし気に横目で僕を見てくる。
「……十分あれば、ハグの続きができると思うんだが」
「え」
「じ、冗談! 冗談だ! ハッハッハッ! 早くディナーの用意をしようではないか!」
「待って!」
「どわあ!?」
撤回なんてさせてなるものか。急いで正面から司くんを抱きしめると、最初はかちこちに固まっていた体から、次第に力が抜けていく。遠慮がちに僕の服を掴む仕草がいじらしくて、両腕にぎゅっと力を込めた。司くんの甘えんぼタイムはとっても希少だから逃すわけにはいかない。
ちゅっちゅっと音を立てながらこめかみや丸い額にキスを落としても大人しいままだ。真っ赤に染まった耳に優しく噛みつけば、ひくりと震える。
「司くんも忙しいのに、こんな素敵な料理を作ってくれてありがとう」
「んっ……記念日、だからな。類、楽しみにしてただろう」
「フフ、すごく嬉しいよ。ねえ……今夜も楽しみにしてていいのかな?」
「……」
返事はない、けれど僕の腕から離れることもなく、むしろ首元に頭を擦りつけられる。言外に、満更ではないですよ、と。照れ隠しのつもりだろうけど、動物がマーキングするような仕草。
なんて小悪魔だ。
悪魔である僕が恐れおののいているのに、当の司くんはむふふと満足そうに笑っている。絶対に煽っている自覚がないし、今手を出したら猛烈に怒られるだろう。
愛しい人の温もりを感じつつ、昂ぶりは鎮めねばならない。僕は司くんが作ってくれた料理に思いを馳せながら、誘惑の十分間を耐え凌いだのだった。
■
滑らかな肌。筋肉の起伏に手を這わせ、薄っすらと割れた腹筋を何度もなぞる。中央の小さな臍に唇を落とすと、子供のようなむずがる声がした。くすぐったい、でも体を動かすのは億劫、といったところだろう。
顔を上げて体を起こすと、くったりと横たわった司くんが薄目を開ける。真っ白のシーツに散らばった金色の髪に、力なく投げ出された手足。仄かな灯りに照らされた肢体はすごく綺麗だ。ため息が出るくらいに。
「司くん……」
「ん……」
体を繋げた直後の司くんは疲れてしまったようで、僕の呼びかけにも甘えたの子犬みたいな鼻息を漏らすだけだ。
「フフッ」
司くんの手料理を食べて、一緒にプリンも食べて。愛情たっぷりの食事に精がついて、少し張り切り過ぎたかもしれない。でも司くんだってこれ見よがしにガーリックなんて使ってるんだから、彼も期待していたと考えていいだろう。
都合よく責任転嫁を終えると、再び覆い被さって薄い腹を撫でる。ああ。
(子供でも作っちゃおうかな……)
そうすれば君を縛り付けられる。悪魔の手にかかれば、体も常識も、書き換えるなんて簡単だ。枷ができれば、ますます僕から離れられなくなる。
僕は臆病な悪魔だから、未来が怖いんだよ。
なんて、勝手な欲望を隠すように目を閉じてもう一度臍にキスを落とすと、司くんがくすぐったそうに体を震わせ、そっと両手で僕の頬を包んだ。
「るい……どうしたんだ」
「……何でもないよ」
「なんでもなくなさそうだ」
眠いのか、舌足らずのやわらかい声だ。力の入らない両手で顔を持ち上げられ、大人しく従い見つめ合う。半分閉じた瞳は影がかかっているけれど、僕の大好きな、宝石みたいな光。
ずっと側にいられればいいのに。
「司くん……死んでも一緒にいようね」
にっこり笑って、冗談っぽく。きっと眠気で意味がわからなくても、本心だと悟られないように。まあ意識がはっきりしていたとして、司くんはこう見えてリアリストだから、一笑に付すだろうけど。
案の定、ぼんやりとした司くんの目は段々とぱっちり開いて……あれ?
「わかった」
「え?」
「類が言うなら予約されてやる」
「え?」
司くんのしっかりとした声音に僕が狼狽えていると、それが可笑しかったようで「ははっ」と笑いながら僕を抱きしめてくる。必然的に下にいた司くんを押しつぶす形になり、苦しそうな呻き声が聞こえた。
「ぐえっ、重いぞ類!」
「ええ……不可抗力じゃないかなあ」
「いいからちょっとよけろっ」
「はいはい」
横暴な言い分に頷いて、ごろりと体を転がす。僕と司くん、お互いに向かい合って横になる恰好だ。顔にかかった髪を耳に掛けてあげると、司くんはくすぐったそうに笑う。
司くんは冗談のつもりで死後の約束をしてくれたのだろうけど、僕はその一言で満たされた心地だった。できることなら悪魔の契約で縛りたいくらいだ。そんな騙し討ちはしないし、できないけれど。
丸い頭をなぞるように撫でていると、眠気がぶり返してきたのか、司くんの目がとろんと半分閉じる。
「よかった……」
「司くん?」
「類はたまに寂しそうな顔をするからな……。何を不安に思ってるかはわからんが、約束ぐらいいくらでもしてやる」
「……僕、本気にしちゃうかも」
「オレは構わん」
男前な司くんはふふっと笑うと、僕の背中に手を回して小さく叩き始めた。とんとん、とんとん、と子供を寝かしつけるみたいに。僕の瞼もゆるゆると閉じていく。
「……類は寂しん坊の甘えん坊だからな」
「そう?」
「ああ。だから一緒にいてやる。天国だろうと地獄だろうと、類と一緒なら楽しそうだ」
「……そっか」
僕と一緒なら。――君がそう言ってくれるなら、それでいいや。
じわじわと濡れていく目を隠すために瞼を閉じると、僕が眠りに落ちたと思ったのだろう。司くんは一等優しい声で「おやすみ」の言葉をかけてくれて、さほど時間を置かずに規則的な寝息が聞こえてきた。フフ、寝つきがいいのは彼の長所だ。百歳のおじいちゃんになるまで長生きしてほしいな。
起こさないように擦り寄って、首元に顔をうずめる。きっとまた不安に思う時は来るだろうけど、その度に司くんの言葉を思い出そう。そして最期の時、司くんが笑って「うん」と頷いてくれるような、とびきりの口説き文句を考えておこう。彼を看取る、その時まで。
すうっと息を吸い込めば、シャンプーの香りに混ざって司くんの匂いがする。穏やかな心臓の音を子守唄に、僕はとろとろと眠りに落ちていった。