LOST 後日譚◇
昼から降り始めた雨は、日が暮れてから雨足が強くなった。
例年よりも一週間早く暖かな気候になり、先週末には各地で満開になった桜も、この雨で随分散ってしまっただろう。窓を叩く雨の音に耳を傾けながら、零は誰もいない店の中で小さくため息をついた。今年は結局花見には行けないままだ。
店の中は外から見て分かる通りこじんまりとしている。カウンターに四席、ボックス席が二つ。窓際にあるボックス席には、リラックスして座れるソファを備え付けている。ひとりで店を回すには、これくらいがちょうどいい。
洗い物を全て済ませ、布巾で拭き上げて棚にしまう。閉店時間には少し早いけれど、今日はもう閉めてしまおうか。零はカウンターから出て、外に置いてある看板を店の中に入れようと扉を開けた。カランカランと、ドアのベルが小気味良い音を鳴らす。
「……もう閉店ですか」
男の声に顔を上げた。聞き慣れた声だった。彼はこの雨のなか傘も差さず、扉の前に立っていた。
「……風見」
呼び慣れた、けれど随分長い間呼んでいなかった男の名前が、零の口からこぼれ落ちた。驚いた表情を隠さない零に、男は「いやぁ」と大げさに声を上げて、頭を掻いた。
「すっかり降られまして。雨宿りを探していたんですが、もう閉めますかね」
下手な芝居だ。雨は昼からずっと降っていたのに「降られた」とは。それにここは最寄駅からも少し歩くし、通りすがりに雨宿りを探すような場所ではない。
零は苦笑を漏らしながら、「どうぞ」と店内へ男を招き入れた。そして濡れた看板を店の中にしまい、入口の電気を落とす。
「カウンターのお席、どうぞ」
店の中をまじまじと見渡しながら木偶のように立っている男を、席に促す。零はカウンターに入ると、さっき棚にしまったばかりのコーヒーカップとソーサーを出した。特別な意匠も何もない、シンプルな白のカップだ。
注文も聞かず、ポットに水を入れて火をかける。慣れた手つきで手挽きのミルに豆を入れて挽く。男は濡れたジャケットを脱いでカウンター席の椅子の背にかけると、静かに席に着いた。店の中には豆を挽く音と、外から漏れる雨音だけが響いている。
中粗挽きにしたコーヒー豆を折ったペーパードリップにセットしたくらいで、ちょうどお湯が沸く。細く伸びた注ぎ口からほんの少しお湯を垂らす。挽き立ての豆は、まるで息を吸い込んだ肺のようにふつふつと膨らんだ。蒸らす間に、カップに湯を注いで温める。水滴の付いたメガネをハンカチで拭きながら、男はその淀みのない動きを黙って見ていた。
ゆっくりと湯が注がれ、ドリッパーの中の豆からは細かな泡が浮き上がる。立ち上る芳醇な香りが、小さな店の中を満たす。
ぴた、ぴた、と雫が落ちて、ガラスのポットにコーヒーが出来上がっていく。落ち切らないうちにドリッパーを上げて、零は温めたカップにそれを注いだ。
「どうぞ」
「……まだ、注文していませんが」
「サービスです。お代は頂きませんから」
カウンターに出されたコーヒーと零の顔を交互に見て、男はカップを持ち上げる。湯気で眼鏡が曇る。構わずその香りを吸い込んで、ひとつ息を吐くと、ひとくち口に含んだ。
「……美味しいです」
「良かった」
ポットに残ったコーヒーを自分用のカップに淹れて、零はカウンターを出た。そして男の隣の椅子に腰かける。
ふたりは並んで、しばらく無言のまま、コーヒーを飲んだ。
雨は相変わらず、店の窓をぱたぱたと叩いている。
「……すまなかったな」
先に沈黙を破ったのは零だった。
男はカップに残ったコーヒーに視線を落として黙っていた。あとひとくちを飲み干さないまま、もうすっかりと冷めてしまっている。
彼は一度、鼻から大きく息を吸うと、その吸った息をまた鼻から吐き出した。ゆっくりと、長く、慎重に。そして唇を湿らせてから、「何がですか」と言葉を絞り出した。
言いたいことは色々あるだろう。零が記憶を取り戻し、この国に帰ってきてから三年経つ。郊外にこの小さな喫茶店を構えて、毎日コーヒーを淹れて。これまでの降谷零では考えられないほど、穏やかな時間を過ごしている。
その間、零が彼に連絡を取ることはなかった。連絡を取るどころか、連絡先も居場所も知らせなかった。つまり二人が会ったのは、あの北欧の隠れ家以来だ。
言いたいことは山程あるだろう。男はそれを飲み込んで、やはりじっと、コーヒーカップに視線を落としていた。
「……君には迷惑ばかりかけた」
「迷惑だと、思ったことはありません」
迷惑、という言葉を、彼はすかさず否定した。どこか反抗的な声色に、零は苦笑を漏らして、「そうか」とだけ答える。先に飲み干したカップをカウンターの上に置いて、席を立った。
「悔しいんです」
カウンターの中に入ろうとした零に、男はようやく顔を上げた。ずれてもいないメガネを中指で押し上げる癖は相変わらずらしい。
「悔しい?」
「……自分は、結局あなたの力にはなれなかった」
「なぜ、そう思う?」
零の問いに、彼は押し黙った。静かな空間に、やはり雨の音だけが響いている。零はただじっと、男が話し始めるのを待った。
言葉を選んで、選んで、考えるうちにわからなくなったのか、彼は片手で頭を抱えた。もう上司と部下でもないのだから、今更遠慮する必要なんてないだろうに、と零は心の中で呟く。どこまで行っても真面目な男だ。
やがて彼の方が沈黙に耐えかねて、店の中を満たす雨の音をかき消すように咳ばらいをした。
「……赤井さんができたことが、自分にはできなかった。ただ、それが悔しいんです」
短く、簡潔にまとめられた言葉。いつも報告は簡潔に、明確にと教えていたことを、彼は今も厳格に守っているらしい。
零は黙ってカウンターに入り、ヒーターに少し残っていたコーヒーを男のカップに注いだ。
「君は君のやり方で、僕を守ってくれただろう」
「……」
「嬉しかったよ、とても。あの時も、すぐに僕の意図に気付いてくれたじゃないか」
「よしてください……あの時自分は、本気で赤井さんを逮捕するつもりだったんですから」
APTX4869の数が合わないと部下から連絡を受けた時、真っ先に赤井の顔が浮かんだ。その薬の偶発的な作用、それが、降谷零を蝕む病を打ち消す可能性を、風見もまた考えていたからだ。
降谷零が唯一、その完璧さを揺るがせる存在。弱点と言ってもいいその男のことを、風見はよくは知らなかったけれど、何となく彼が、それを持って降谷零を探し出し、救ってくれると思えた。だから時間を稼いだ。
ところが結局は、赤井も降谷も行方は知れぬままで、間に合わなかったのか、あるいはAPTX4869で死んだのか、どちらにせよ赤井は降谷零を救えなかったのだと思った。そう思うと許せなかった。
そして赤井の行方を捜索し始めた。降谷の時とは違い、その男には押収品を盗んだ容疑がかけられている。公安の力で、どんな手段を使ってでも見つけ出す。ことの顛末を聞き出さなければ、降谷零がどのように死んだのかを聞き出さなければ、いつまでも先へは進めない。
死に物狂いでようやく見つけた手がかりを追って北欧へ飛んだ。その時はもう、赤井を逮捕することしか考えていなかった。
それがまさか、生きていたなんて。
風見は眼鏡を軽く上げて、指先でつまむようにして目頭を押さえた。ぐったりしながらも立っている降谷零の姿を思い出しただけで、こうして涙が込み上げる。あの時の光景を、風見は今でも鮮明に思い出すことができる。
結局、赤井はその行動で持って降谷零の命を繋ぎ止めた。自分がしたかったこと、けれどしなかったことを、果たした。それがやはり、悔しかった。
「風見」
どれくらいの間、沈黙が続いたかはわからなかった。ほんの少しであるようにも、ひどく長かったようにも感じた。それを破った零の甘やかな声に懐かしくも名を呼ばれて、けれど彼を見ることができなかった。なぜ、どうして。答えのない問いが今にも喉を裂きそうだった。
なぜ、自分は、あなたを守ることができなかったのか。
「君が守ってくれたのは、僕の信念だ」
零の言葉に、風見は切長な目を見開いた。降谷零としての個ではなく、降谷零が信じ貫いてきた正義を守る。風見がAPTX4869がもたらす僅かな可能性を取らなかった理由を、この元上司は理解している。
降谷零がいつもその胸に抱き、風見に示していた信念は命と同義である。それを守ることこそが、自分にできる降谷零の命の守り方だった。
顔を上げると、カウンターの分少し上から見下ろす形の零が、今まで向けたことのない柔らかな表情を浮かべていた。
風見は改めて、店内を見渡した。
元は築年数が経っている物件なのだろう。天井や壁には年季が窺えるけれど、きれいに修復され手入れされており、置かれたテーブルや椅子と調和している。カウンターの中の棚には美しく並べられた食器類。シンプルな白い陶磁器だろうそれらはまるで眠っているように役目を与えられるのを待っている。あちこちにさりげなく置かれた小さな観葉植物たちの葉に埃などはなく、座った時に視界に映る緑の量が計算されているとわかる。そして、カウンターのふちは丁寧にやすりがかけられ、自然の木目が映えるように塗装が施されている。
この店を構成するもの全てが、隅々まで、彼が一から作り上げたもので、その緻密さ、丁寧さ、優しさが見える。
ここに、確かに降谷零がいる。
「……今は、何とお呼びすればいいんでしょうか」
「好きにしろ。降谷でも、零でも。君の方が歳上だしな」
「……わかりました」
風見は手元のカップを持ち上げて、残ったコーヒーを飲み干した。そして静かにソーサーの上に置いて、席を立つ。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
まだ湿っているジャケットに袖を通して、風見は丁寧に椅子の位置を戻した。そして扉を開ける。カランカラン、と心地よい音が鳴る。
さっきまであんなに降っていた雨が、すっかりやんでいた。
「……降谷さん」
上空で吹く風が雨雲をさらい、隙間から星すら瞬く空を見上げて、風見が零の名前を呼んだ。以前と変わらない音で、以前よりもどこか柔らかく。振り返った男の表情は、この空のように晴れやかだ。
「また来てもいいですか」
「もちろん。今度は何か注文してくれ」
「はい……必ず」
風見は軽く頭を下げて、店を出ていった。
「ただいま」
軽快にドアの鐘を鳴らして、赤井が帰ってきた。黒のシャツにライダースジャケット、お決まりのニット帽。この男のスタイルはどこで何をしていても変わらないらしい。零は洗い終わったカップを水切りカゴに置きながら、「おかえり」と返した。
赤井は、その憎たらしいほど長い脚で五歩もあれば辿り着く、一番奥のカウンター席に座る。そこは彼の指定席だ。最早専用と言っても過言ではない灰皿を我が物顔でカウンターの中から取り、やはりいつもの銘柄の煙草をジャケットの内ポケットから取り出して火を付けた。
「何かあったのか?」
「え?」
「嬉しそうだ」
不意にかけられた言葉に、零は目を丸くする。表情に出したつもりはなかったけれど、赤井はそのわずかな変化に気付いたらしい。「そう見える?」と返した零に、彼は煙草をひと吸いしながら手のひらを向けた。
「待ってくれ、当てよう」
「ふふ。どうぞ、探偵さん?」
「誰か訪ねてきたのは確かだ。雨に濡れた看板が店内にしまってあるのに、入り口からカウンターの間にまだ新しい、濡れた足跡——大きさからして男、割と長身。君がカップを洗っているということは、去ってからさほど時間は経っていない」
「ホォー?」
「男はカウンターの席に座って、君はその隣に座った。君のカップの跡がここに残っているからな……閉店した店に招き入れ、君が隣に座るような仲の長身の男……風見くんだな?」
つらつらと謎解きをして、自信満々に答えを告げた赤井に、零は「ご名答」と苦笑を漏らした。彼専用のカップを持ち上げ首を傾げて見せると、赤井はうんと頷く。
棚にある赤い缶を取り出して、零はまたポットに水を入れて火をかけた。これはメニューに載っていない、赤井専用のブレンドだ。
「彼とは仲直りしたのかな?」
「別に喧嘩していたわけじゃないけど……まぁ、そうかな」
手際よくミルでコーヒー豆を挽く零をどこか幸せそうに見つめながら、煙草の煙がかからないように吐き出す。ミルを挽く音、しゅんしゅんとお湯が沸く音。無駄な動きがないということは、無駄な音も立たないということ。この店には音楽なんて必要ない。彼がコーヒーを淹れる音こそが、ここでは至上の音楽なのだ。
その音に耳を澄ましていると、外から聞き覚えのあるエンジン音が聞こえた。
手元からドリッパーを落とした音がガチャンと響き、零の視線は店の外へ向けられる。地を這うような心地よい重低音が轟いて、夜を映す窓ガラスにヘッドライトの光が過ぎる。
姿が見えずとも聞き間違えるはずもない。それは、降谷零の象徴とも言うべき車のエンジン音だった。
それはほんの少しの間、店の前にとどまり、やがて去っていった。静寂が戻った店内で、零は溜め息を吐く。
零は愛してやまなかったかの車を、公安を去ったその日に手放していた。中古で市場に出回らないよう、廃車されるように手を回したのに。右腕が、降谷零の帰還を願って回収、保管していたのだろう。
「……あいつ」
誰の中にも残らずに、背負わせずに消えたかった。
志しも、正義も、誰にも引き継がせたくなかった。その思いは今も変わらない。複雑そうに眉を顰める零に、赤井は煙草を灰皿に押し付け火を消した。
「……The Spirit of ZERO、か」
「……」
「RXの名前の由来、君はもちろん知っているんだろう?」
「……Rはロータリーエンジン、Xは……」
未来を象徴する記号。
顔を上げると、いつの間にか席を立った赤井が、カウンター越しに零を覗き込んでいた。その翡翠色の瞳を優しく細めて、指の背でなだらかな頬を撫でる。その指先は、少し冷たい。
「それを引き継ぐかどうかは、彼が自分で決めるだろう」
君がそうしたように。赤井の言葉に零は少しだけ息を止めて、やがて深く、長く息を吐いた。
ずっと引き継ぐ側だった。引き継がれる側になるというのは、何だか落ち着かないけれど。
胸の奥がじわりと、熱くなるのも確かだ。
それに、好きにしろと言ったからには、文句を言うのも野暮だろう。
「……そうですね」
苦々しげに笑みを浮かべた零に、赤井は顔を寄せて、その薄い唇を重ね合わせた。
終