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    ヒロ・ポン

    支部ないです。ここに全部ある。

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    POIPOI 147

    ヒロ・ポン

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    過去頒布コピー本再録/判南の南が含まれます

    【耀ふなら】 


    「お邪魔します」
    「どうぞ。まあ俺の家じゃないですが。」
     南方は笑いながら真鍋を迎え入れ、真鍋が腕に掛けていたジャケットを受け取り玄関のハンガーに掛け、室内へ招いた。

    「いいのか、愛の巣なのに」
    「愛の巣って…自分と気恥ずかしい言い回しをしますね…勿論、あなたを招く事は判事には了承を頂いていますよ」
    自分で言う通り気恥ずかしさがあるのか南方は頭を掻きながら真鍋の足元にスリッパを差し出す。

     ある程度の社会的地位を持つ男にありがちな事なのだろうか。まだ玄関と廊下にしか至っていないながらもこの家には「雑然」や「生活感」のようなものとの縁の遠さを感じた。
     手を洗い、ひんやりとしたリビングに通されてふと目に入った壁掛けの時計を見ると、約束していた訪問時間にはちょうどだが目的の時間にはまだ余裕があった。

     多少浮いていた汗が一気に引いて行く心地よさにひと息をついていると南方はなにやら台所で動いて回り、一度屈んだかと思えばグラスを二つ掲げてこちらに笑いかけて来た。
    「先に一杯やりませんか」
    こちらが持ち込んだものを察してだろうかと思ったが、その手にはもう瓶ビールがしっかりと握られている。
    「頂こう」
     ついでにこれも、と保冷バッグを開いて中身を見せる。
    まだ硬さの残る保冷材に囲まれた細身の瓶を見て南方は感嘆の声を上げた。

     ひとまずそれは冷蔵庫へ、リビングのガラステーブルの前を勧められ、腰を下ろしたソファーでキンと冷えたグラスの凍結を指で撫でる。固い感触から指に染み込むような感触に変わるのが面白くて触っていると声を掛けられた。そうだ、コップだから使わねばなと南方からの「まあ一杯」を受ける。
     アルコールというものはストレスを一旦処理できる頭になるまで分散させておくために使うか人付き合いでたしなむ程度だった。
    自分で進んで購入して飲む事は少ないながらも目の前に差し出されると注がれるその黄金色はとても好ましい物に思える。
    「始まるころには枝豆もいい頃合いですよ」
    チン、とグラスを合わせる。
    今は立会人という、同じラインに立つ者同士だが少し前の自分たちは今のこの光景を見ても信じてはくれないだろう。

    「今頃会場は芋洗い状態だろうな」
    喧噪は遠く、グラスや瓶を触る音だけがここにある。
    黙れば無音にさえなる部屋に身体からようやく力が抜けた。
    「今は現地じゃなくても見る方法があるので…と思いましたが、旅の脚が増えたもので、今度はよそからの人間が増えて年々参加者は増すばかりですよ」
    南方はソファーから立ちバルコニーに続く窓を開けた。
     高層階である為か今はそこまでの暑さは感じないが、時間はまだまだ十八時になったばかりだ。
    ここに来るまでの地面は送りの車からこのマンションに至るまでのわずかな距離でも、歩けば地表に残る熱が足の裏を炙り、じんわりと火を通されているような心地だった。
     人通りの少ない住宅街でこの様なのだからそこに人の密集まで重なればひどいものだろう。一つの目的が頭の大半を占めてしまうと人は自分とその手荷物の事以外をろくに考えられなくなる。それが一か所に集えば、どうなることだろうか。

     なんとなく、南方の後を追いバルコニーに出る。
    空いている方のサンダルに足を差し入れ、持ち主であろう人間に頭で詫びを入れながら南方と並んで手摺から遠くの地上を眺める。
    「ここから見える灯りのいくつが残業で、点滅のどれくらいが赤色灯かな」
    片目を瞑り、遠くない場所に見える光の点滅を指で指す。
    どこを見ているのかがわかったのか南方は手摺に身を預けて笑いながら項垂れた。
    「ロマンチックさというものは、大方そういう物で出来ているんですよね」
    「公務員だが、定時なんてものはあってないようなものだからな。私たちもいつかの恋人たちのネタになっているさ」
     あれは確かあの企業が、あちらにはあの企業が。まだ煌々と輝く窓の光にその中で働く存在を思う。
    一般企業でさえ九時五時という時間設定はもう神話か何かの存在になりつつある。
     自分たちの思い出を彩る光が物悲しい光だと、それを美しい物として見ている側はあまり考えないだろう。
    「今の時期の飛行機の窓から見える美しい光の線は、東名高速の渋滞だったりするんだろうな」
    「…たまったもんじゃないですね。渋滞でもなんでもいいから、車間距離だけは開けて欲しいとしか思わないです。」
     思わず南方と顔を見合わせる。所属や歩いて来た道は違えど、警察官としての仕事で思い浮かべた現場の様子は同じなのだろう。

     外気に晒され、グラスに降りていた霜は結露になる。
    手は濡れるがそれを気にするよりもその冷たさが心地よく、雫を払わないまま滴らせているとふと日中の立ち会いを思い出した。

     凄惨さは薄くても不快さは強かったという部分が先に思い出される。
    高層階を撫でる風は涼しい物なのに現場の様を思い出したせいで背中にじんわりと汗が浮いてしまった。
    洞窟でガスなんて使うから空気自体は湿っているのに吸う空気自体はひどく乾いて、それでいながら高い室温のせいで浮いた汗がべったりと肌の上で中途半端に乾いて不快だった。
     立会人はいかなる時であっても決して着崩さず、襟を詰め、ネクタイを締め、袖も下ろしたままだ。以前の身分の時に好んで身につけていた開襟シャツが恋しくなった。
     思い出すとまだじわりと肌が湿ってくる。
     おまけに今日はそんな環境で人がよく燃えたものだから空気中に脂肪も散り、本当に不快で面倒な事だったと思い出す。大抵の酷さや惨さには慣れていたとしても、そこに立ち会った自分がどう思うのかはいつも別の話だった。

     額だけではなく顎にまで浮いて来た汗を手の甲で拭っていると、南方は自分のグラスを呷って空にしたと思えば踵を返し半歩部屋に戻った。
    「今日は現場から直行で来られたんでしょう。血は浴びて無いようですが…シャワーでもどうですか?」
     そう言いながら廊下の中頃にあるドアの中に南方は消えていく。
    バルコニーから引き上げてその後ろを追えば、浴室だったらしい扉の先で大きな背中が丸まったり伸びたりしながら戸棚を触っていた。
    「恋人の不在中に他の男に風呂を貸しても?」
    「…長も冗談を仰るんですね」
     はい、と差し出された分厚いバスタオルを受け取る。
    南方は今日のこちらの立会いを知っている。顛末までは知らないだろうが、もしやただ服を取り換えただけでは匂いが残っただろうかと気づかぬ非礼を内心で詫びた。
    「長居はしないつもりだったが、この様のままでいるのも失礼だな。お借りしよう」
     手で抑える肌は滲む汗を自覚するほどにべたついて感じる。
    清潔であって何も悪いことはない。南方からの厚意に大人しく甘え、タオルと封も切っていない新品の下着を受け取り浴室を借りた。
    *

    「もういい頃合いですよ」 
     シャワーから戻ると南方はバルコニーの窓を開け放ち、そこにアイスペールなどをせっせと用意していた。

    「凝り性なんだな」
    「いやあ…あの人は多分こうやって配置する気でいたと思うので…」
    どうぞ、と半身を開けて勧められた先には揃いの椅子が二脚、それに挟まれてテーブルが置かれている。
     聞けばそれらは見た通りにまだ新しい物だという。
    先日に南方がこの家を訪問した際に何の脈絡もなく置いてあり、その時に今日の予定を訊ねられたらしい。
    「浮かれているな」
    「まあ、私もそう思います」
    「残念だったな。浮かれているあの人も見てみたかった気もするが、その様の時には君と二人きりだろう。叶わない話か。」
    「よしてくださいよ長ぁ…」
     情けない声を上げる南方を笑いながら噛んだ枝豆は半凍りの具合がよく、鞘ごと噛んでみどりの味を頬に含む。
    「長の方は、こういった物を見に誘われたりなんかはしないので?」
    風呂を借りる前に飲みさしで置いたままだったグラスを、南方からの質問を聞きながら飲み干してしまおうと傾ける。
     誘いは無い訳ではなかったが、と過去のやり取りを反芻する。彼はむしろこういう祭りなど、にぎやかな事は好んで参加しようとする男だろう。
     けど時々、彼からのいくつかの誘いの中で自分と彼の中の物事の優先順位や、動かすべきこと、置いておくべき事等にはっきりとした違いがある事がわかって来た。

     七月は彼の方の手が空いておらず、行きずりの相手みたいに性急に交わった夜が一度だけあった。埋め合わせはするというのを何度か聞いてはいたが、八月のこの時期の事はこちらからすればその、彼との認識の違いや摩擦、そういった物の中にある事だった。

    「誘われはした」
    「急用でも?」
    用といえば用だ。けど、自分の用じゃない。
    「――盆の時期に、新しい男と遊びまわるものじゃないといって止めた」
     ポン、と間抜けた音に反応してグラスを差し出す。
    白い冷気を上に、金色の本体を下に、と注がれるビールに思わず目を細める。
    「そ、それはまた…残念がられた事でしょう…」
      他人事なのに戸惑う南方がおかしくてつい口角が上がる。
    「代わりに仏壇がある方の屋敷に酒を送っておいた。台風も迫っているし、暑い時期にあちらこちらへ動くのは性に合わないんだ」
     グラスを半分も一気に流し込めば冷たさで喉がツンと引き絞るように痛む。しかしこの痛みが醍醐味かと、底が空くまでグラスを傾けた。
    「…長のそういうところを、大変気に入られているように感じますよ。外から見ていると」
    「そうか。第三者から見ても妙な奴ではあるんだな、彼は」
    これを聞いて南方は「ああ…」とか「まあ…」とか言い淀んだ。

    「盆は私も忙しいんだ。今年は立ち会いが前から決まっていたから、もう色々と済ませて来た。」
     この立場になる前から既に人生の大半を死に立ち会う、死が傍にある仕事で過ごして来た。
    無くなっていった命のために祈る事は自分でこそしないが、祈る人間の事は理解できた。
    その存在も、意味も無碍にはしない。自分は祈る事をせずとも、その代わりに彼らの為にするべき事は山とあった。
    「…肉、ありますがやめておきますか?」
     脳裏にかつての同僚や部下たちの顔を思い浮かべる中で突然「肉」と聞いて、賞与で牛を買うかどうか考えていた男が浮かんだ。つい、また口角が上がる。今日は顔の筋肉が緩む日なのかもしれない。
    「今の時分、精進は流行らないさ。供養をしなければならない身だが、見逃してくれるだろう。」
     空にしたグラスに南方がビールを注いでくれる。
    「仏前に肉を供えて来るわけにはいかなかったから、頂いて供養としようかな」
     沈み切っていない太陽の光から白さを受けて抱えていた空はいつしか青く、その端が黒くなっていた。

    「しかし花火大会の夜など、若いモンは騒いで、一般人はうかつな事をして、それを捌くので手間取った記憶が先に来ますね」
    「この仕事であればそうともなるか…地元の、若い頃にも花火大会くらいはあっただろう。生まれは地方と聞いたが」
    「ええ、しかし和気藹々と眺めるようなタチでも無かったですし…そもそも今の不良くずれのような軟派な集まりではありませんでしたので、」
    「バンカラ…横浜銀蠅のような…」
    「極端ですね…まあでも、違うけど遠からずといったところで。集まって騒ぐ事で目立つなんていうのは硬派じゃないですからね」
    「そうなのか?門倉立会人は舎弟たちと河川敷に集まって眺めていたと聞いた。馴染みの酒屋に物を運ばせて食堂に折詰を作らせて…」
     ぐっと音を立てて南方が豆にむせる。
    半分ほどになっていたグラスにビールを注いでやると意を汲んでかむせる喉を流し込むビールで黙らせた。
    「…まあ、そういう集まり方…もあるんでしょうね」
     焦りなのか何なのか乾いた笑いを浮かべる南方に、失言だったかと口をつぐんでビールの泡を啜る。
    …もしかしたら誘われていなかったのかもしれない。もしそうなら、悪い事をした。

    *

     南方が腕時計を見るともう丁度の時間だった。
    それに気づいたのは最初の一発が上がってからのことで、いつの間にか打ち上げられていた花火玉が不意を突くように雲一つない夜空に開いた。

    「時間通りだ」
    「しょっぱなから飛ばしますねえ」
     最初に大きく一つ、それから小粒がいくつか、それからも光の集まりは開いては消え、開いては消え、散り散りに燃えて夜に溶けていく。
    「判事は今どこ居るのだったかな」
    「詳しくは聞いていませんが、関東のどこかには。流石にこれは見えてはいないでしょうけども」
     もしかしたら地下かも、というのに頷く。
    賭けの場は不思議と、地下か、または高層階が多い。
    それに現場でもし別の爆発が起きていたりすればいくら花火の火力が強くとも間近の爆発音には勝てないだろう。

     火花が開いて、その後に遅れて音が聞こえてくる。
    これを南方と、と思っていたのなら今日はさぞ残念だったことだろうとこの部屋の家主の事を思い浮かべる。
    自分と南方が握る違うまったく違うデザインのグラスは、恐らく南方の方と揃いの物がもう一つ冷凍庫に入っていると察する。
    「残念だったな。二人で観ることができなくて」
    「あー…いや、まあ」
    「どうした。歯切れが悪いな」
     素直に残念がっても構わないだろうに、と口ごもる南方に向き直る。
    「…これまでの女に、こういう事を散々やってきたもので…あまり胸を張って残念がれないんです…」
    いやはや…とでも言うようにばつの悪そうな顔をする南方がなんだか愉快で、意外だった。「こういう」というのは、現状とは厳密には違うのだろうが。
    「そういう反省もするんだな、君は」
    「反省と言うか、まあ…」
    「悪い男だ。デートのキャンセルを取り締まる法がなくてよかったじゃないか」
     もし、そういった法があったらとでも想像したのか南方は項垂れてしまった。残念がれないとは言うが、南方も今日この夜の恋人の不在は相当に残念に思っているのだろう。

     ドン、ドン、と遠くで平和な爆発音が続く。
    あれは、あれだけは、遠くの空に見え音が山を越えるほどの強烈な爆発をしたとしても人を殺さない火薬だ。
    ストロンチウムの赤は一瞬だけその色を夜空に焼き付けてはぱっと光って白くなり、それきりで燃え尽きて落ちていく。
    「以前は、明日死ぬかもしれないという世界ではなかったので、そういった振る舞いもできたのだと思います。」
     合金の金、混合の紫、銅の青、燃えて消えるだけのそれに人は色を着けている。
    「私の、警察の中でだけ過ごしていた頃の人生ではそうでした。女はいくらでも選べばいいし、捨てても誰かが拾えばこちらの事は忘れるだろうとさえ思っていました」
    「…そうか」
    「内勤が多かった事もあるんでしょうが、明日燃えて尽きるかもしれないとは、それほど思ってはいませんでしたね」

     惜しむつもりではないんですが、と言う南方の、すぼむ言葉尻を真似たように光の筋が緩やかに消えて空が静かになる。どうやら今は地面に近いところで仕掛け花火が着いているらしい。
    「…冷蔵庫を開けるぞ」
    南方は打ち止んだ空を見ている。
     冷凍庫に入れていた酒は道中の保冷から冷凍庫での冷却までがうまく繋がったのか、瓶を透かして見ると少しばかりとろみがついているのが分かった。
    冷凍庫の中の今南方が使っているものと同じ意匠ではないほうのグラスを拝借し、目についたリモコンの常夜灯のスイッチを押してリビングの灯りを落としてからバルコニーへ戻る。
    「このグラスにはどちらがどう、というのはあったかな」
    「…それにはないですね。ありがとうございます。」
     薄い金属が小気味のいい音を立てながらねじ切れる。
    開栓した口をグラスに向けて傾け、さらさらとゆるい霙(みぞれ)が流れてくるのを目で追った。
    水気に触れれば形を失くすほど脆いものではあるが、一度底が出来れば薄い山となった。
     ほんの少しだけ霙の積もったグラスを一度合わせ、また空を見る。
    「…判事が、俺に浴衣を一着仕立てたそうなんですが、今日はここで一人と聞いて家に置いてきてしまいました」
     
     かの恋人と当初の予定通りにここでの逢瀬があったのなら、その贈られた浴衣を着つけた状態で訪問をしようとしていたという事なのだろう。
    これを聞いて真鍋は、南方の事を見た目の厳つさに反して案外可愛げを抱えている男なのだなと感じた。
    そんなものは一見して年若いカップルがするチープなサプライズのようではあるが、自分の贈った衣服を身に着け目の前に現れる、という事を好く思い可愛がっている相手からされて喜ばない男は居ないのではないだろうか。

     面白い、と思った礼にこちらもと話を差し出す。
    「…私の所にも、仕立てたものが届いたよ。なんだ?一緒にショッピングでもしたのか、彼らは」
     自力じゃ着られもしないのに、とこちらはこちらでため息を吐いて居ると、名前は上がらないまま示唆されている二人が肩を並べて買い物をしている様でも想像したのか南方が軽く笑いだした。
    「はは…ありえない話じゃないですね。もう貰うものの価値も考えたくないですが、あの二人なら呉服屋だろうとなにかのついでにサっと買い物でもしそうですし。コンビニに寄るみたいに…」
     頷く。おそらく今南方と自分の脳内には同じような様子が思い浮かべられている事だろう。
    「明らかに夏のものではない反物も届いて、どうしろっていうんですかね。仕立てる先を探そうにも、伝手がなくて」
    「―――そのぶんだと、歳の瀬には絽の反物が届くだろうな。気障な事をする。」
     それを聞いて「はは」と軽く笑う南方だったが、すぐに意味に気が付いたのだろう。真鍋から顔を大きく逸らし花火に目を向けているようで、頬を抑えてあさっての方を見ている。

    「…その前に私らで先に贈ってしまいましょうか。腕のいい外商がいるんですよ。顔写真を見せずとも良い物を見繕ってくれる」
    飲み干した冷たく軽い飲み口が舌根を過ぎて喉の管を落ちていく。
    「勘弁してくれ、君と違って薄給だ」
    警視正様、と付け加えれば南方も「ご勘弁を」と返した。

     








    *
     夜空は漂う煙で霞み始めている。
    花火はもうそろそろ佳境なのだろうか、一瞬と間隔を開けず乱れ打ち、前の姿や煙が消え切らないうちに次が打ちあがり光って流れていく。
     地上にいるほとんどの人間からすれば思い出か、娯楽か、暇つぶしなのかもしれない。
    けど真鍋にとってはこの花火たちの燃えて尽きるまでの眩さはどこか、手向けか供養かと思わせるものがある。
     景気の良い事だと、これは盆にやる意義があると感心した。

    「…あ、」
    「ん、どうしました」
     空になったか、と南方が酒瓶を持つのを手で止める。
    「残暑見舞い申し上げます」
     真鍋は南方に向かい軽く頭を下げた。
    南方はその様に意表を突かれたように一瞬だけ固まりその姿を見つめたが、そのうちにテーブルにグラスを置いて真鍋と向かい合う。
    「…残暑見舞い申し上げます」
     遠くて近い、そんな距離のビルの向こうで夜空にはまた大輪の華が開く。
    クライマックスに向けての大盤振る舞いに本当に景気が良い事だと思う。
     残暑見舞いをを口頭で言われたのは初めてですよ、と笑う南方に、真鍋は掲げる杯をもって返した。

     尺玉が黒檀の天幕に炸裂する。
    町のひと区画くらい簡単に燃えて消える程度の火薬があの足元に集まっているというのに、見ている方は気楽なものだと笑うと、南方も同意して笑っていた。
























    【遠き日よ絢爛たれ】

    「匠に花火デートを断られたよ」
    「…何か、余計な前置きでもなさったのでは?」

     妙な姿勢でノートパソコンを操作してもう二時間になる。
    何故か弁当を持ち込んで食事を始めたこの人を適当に放っておいて仕事をしていたら、放置されている自覚が芽生えたのか棚の蔵書を端から読み始めた。
     しかしその読む速度は常人のそれではないため、ただ文字を眺めて読了とするのみであるのならその手が反対側の端の本に手を掛けるまでさほどの時間は掛からなかった。

     そうしたら今度はこちらへ話しかけ始めて来た。
    空けておいた文章の間に現場の写真を放り込んでいく作業の中で適当に相槌をうつ。
    「盆は故人を偲んで過ごせだと」
    「お相手が正常な感性を持っているようで安心しました」
     賭郎本部のこの執務室にデスクとチェアは一揃いだけ。
    だから今は私の方が応接ソファーに座り、やや低いテーブルに不便を感じながら報告書をまとめている。
    「何も現地に行こうと言う話じゃないんだ。イモ洗い状態で押し合いするのは御免だから、屋形船でもどうだと誘ったんだけどな。その日は外にいるらしいから、花火玉をいくつか買って打ち上げさせようかな…」
    「どこに誘っても返事は同じだと思います」
     行き先ではなく時期の話であって…と思うも彼はそのあたりは特に気にしていないらしく、なるほどこれは二人の間の認識の違いだなと見当がつく。
    「七月は俺の都合が駄目だったし、ままならんものだ。じゃあこれから沖縄はどうかと思ったが、嵐にクラゲにとろくなもんじゃないしな」
     何やら唸りながら椅子に深く腰掛け、くるくると回りながら執務室を斜めに走っていく。長い脚で遠心力を呼び移動して、そのうち鈍い音と共に壁に激突していった。

    「お前と妃古壱と海に行ったのはいつだったかな」
     激突して反省でもしたのか、ようやくその場所で椅子は停止した。
    運転手は天井を仰ぎ、発言に沿う項目の何を数えるにしても到底足りないだろうに指を折り数え始めた。
    「まだ彼の鼻の下に髭が無い頃です」
    「ああ、それにお前の髪が長かったころだったな。三つ編みにした記憶がある。しめ縄のようで愉快だった。」
    「その節はお世話になりました」
     男三人(厳密には黒服があと三十人)で過ごした夏が思い返される。遠い日の事なのは事実だが、浮かべた記憶にはまだ色がついていた。
    「あのアロハシャツ、多分まだ家にあるぞ」
     また椅子を滑らせて動き始めたその人は今度はデスクに至り、天板の上や施錠のない引き出しを好き勝手に漁り始める。
    ちらりと腕の時計を見ればまだ時間に余裕はあるものの、現在の作業のペースとそこからの事を考えるとあまり良い進行具合とは言えない。集中を乱されることなど普段ならまずありえないのに、今日はとにかく相手が悪かった。

     椅子のキャスターの転がる音が近づいてくる。
    それも無視していると、今度は画面と自分との間に縫い目の目立つ手が割り込んだ。
    「銘柄は変わってないよな」
    「…」
     探られる前に自分で懐に手を入れ、その手に煙草とジッポライターを握らせた。
    礼を言いながら離れて行く手はその全てを攫って行き、そのすぐあとに背後でライターを開く音がした。

    「時にお前、時計をやけに気にしているな」
     キーボードを打つ手は止めない。肩は揺らさない。視線も動かさない。特に返事もしない。
    「先代にわざわざ話を通して…入れ上げているじゃないか」
     左頬の側から降りてきた手の、覆うような形で私の眼前にまで来たその指に挟まる吸い口を唇に押し付けられる。
    ふた吸いほどされたそれを大人しく咥え、その手が離れて行く前に唇の隙間から手のひらにひと吸い分の煙を吹きかけてやった。
    「外商に任せないあたり、お前の本気さが見える」
     もう集中などできなかった。
    呼吸の代わりに吸い込んで吐いた大量の白い煙がワープロソフトの画面を真っ白に隠す。
    「着道楽に食道楽…甘やかすのは男の甲斐性です」
     それを聞いて耳慣れた笑い声が上がる。
    歳の差も、甘やかす度合いも、囲っているモノもあなたに比べれば可愛い物ですよとは思う。それに盲目になっているのはお互い様だろう。
    「俺も行く。あいつには藤色が似合うと常に思っていたんだ」
     また背後でライターが開く音がする。自分の手元から灰を落とし、ガラスの灰皿を後ろに貸した。
    「同行されるのであればまずデスクと椅子をお返しください。私がそちらの方に戻ってあたればこの仕事もすぐに終わる事でしょう」

     はーい、と言いながら彼の人は椅子から立ち、デスクと一そろいの位置に戻し、そうしたと思ったら今度は対面に腰を下ろされた。
    「かわいい年下の若い男に入れあげて、いい夏だな」
     この人は心底楽しそうに笑う。
    ―――いつだってそうだ。
    腹にどんなものを飼っていようとも、いつだってこの世の春のような顔をして笑う。
    まるで過ぎ去った春などひとつもないように。
    いや、この人にとってはそもそも、この世は常春、春とは過ぎるものですらないのかもしれない。
     私とて枯れて散ったつもりはないが、いつまでもその瑞々しさを持って生きているのが時々羨ましくなる。どこかでその様に誘われて開く物もあるのだろう。
     こちらにはまだ、剥いて、壊して、開かせねばならない隔たりがいくつもあるから、そう思ってしまうのだと思う。
    「――文言としては間違いないですが、もし彼らがここにいる状況であれば、その前では手放しで同意は出来ませんね」
    「確かにな。拳の一つでも飛んでくるかもしれない」
     また笑う。その笑顔も、笑うときにかくりと上を向く癖も変わらない。
     しかし黒いスーツを脱いだ今のこの人は、少しだけ知らない人のように見える。

     あの海に行った日、その前と後にあった日々のほとんどで我々は揃いの格好をして生きて来た。
     あの黒と共に生きた毎日は自分にとって間違いなくこの世の春であったと、今言えばこの人はどう笑ってくれるだろうか。
    「若い男に入れあげ…匠が特に怒りそうだ。恭次はどうかな、顔を赤らめて恥じらいでもするかな」
    「…おやめください」
     何を想像しているのか、と咎めるとからからと笑われた。

     気づけば火元がもう近い。
    ノートパソコンの脇まで戻された灰皿に煙草を潰し、手をキーボードへと戻す。
    自分で言った通りデスクに戻ればいいのに、なんだか立ち上がれなくなってしまった。
    「店には先に電話しておけよ。浴衣と、帯と…もうあるだけ全部、奥の広間に出しておけって」
    「…承知致しました」
     自分でも分かるほど眉間に寄っている皺に指が伸びて来て、ぐっと外側に向けて開かれる。
    私にこんな風に触ろうとするのは、そして触る事が出来るのは後にも先にもこの人だけだろう。
    「お前の可愛い子に似合うのを選んでやれよ。お前の浴衣は俺が買ってやるから」
     お前から電話が来たら若旦那は大慌てだろうな、と笑いながら煙草を潰し、座るのにも飽きたのかクッションを挟みながら革張りのソファーのひじ掛けを枕に目を閉じた。


     いくつかある家の、鍵を掛けた書斎には数枚の写真がある。
     顔の映る写真というものを表の書類関係以外ではほとんど持たない私の、若き日が残るほんの数枚。
    あの時周りにいた黒服は今日にいたるまでの中でもう皆鬼籍に入ってしまった。だからあの場所の色を、風を、音を覚えているのは、そこに映る三人だけだ。

     ―――どうせいつかそうなるのなら、一枚残しておくのも悪くないかと思った。
    別に自分と一緒に写ったものでなくてもいい。
    ただそこに写真に写るべくして配置された人間があるだけの物ではなく、いつかの日に見返したり見つけたりした時に、いつ、どこで、誰と居て、その誰かとどういう間柄だったのを思い出す一枚があればいいと思ったのだ。
     そしてそこに、自分たちだけが肉眼で見たものがあったのなら。それはどれほど素晴らしい事だろう。
    私はそれを持つことの幸福さをもう知ってしまっている。
    なら、また味わいたいと思うのが人間だろう。

     恭次は、昔は冷えた色の学生服を纏っていた。
    その後も同じような色のスーツを着ていた。
    今はそれと、白と黒の装束に身を包んでいる。
    今も昔も纏うそれに大した色はない。

     あれには一体どんな色が似合うだろうか?
    画面上でひたすらに画像のサイズを変えていた手を止めて考える。色か、柄か。いっそ派手な大判の柄が入っていてもいいかもしれない。
    目の前で本格的に寝始めた人に目をやる。
     好いた人間の事を考える喜びは何物にも代えがたく、罪深い。それもまた、いつかの日に知った事だった。

     私の春はかつて私を置いて過ぎて行った。それは戻らず、私は物分かりの良い顔をして引き留めもしなかった。
    けど、そうしていたらまた春が巡って来た。
     かつてどこかに冬の時代があったのかもしれないが、こう思えるあたり今は遠い日の事、でいいのだろう。
    今それを取り返そうだとか、もう一度だとか、そういう事は思い浮かばなかった。

     ならばそれでいいと、去るべくして去ったものもあるのだと、その果てに訪れた今のこの春を噛みしめた。






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    トーナ

    MOURNING一度は書いてみたかった門梶♀信号が赤から青に切り替わったのを機に、止めていたハンドルを動かす。時刻はすでに終電を迎える頃だった。遅くまでかかった残業を思うとはらわたが煮え繰り返る。同僚の立会人のせいで事後処理が遅れたのだ。必ず、この恨みは後日に晴らすとして。
    『門倉さん?』
    「聞こえていますよ。大丈夫です」
    『なんだか、機嫌悪くないですか?』
    「そりゃあ、どっかのバカのせいで仕事する羽目になりましたからね。せっかくの半休が台無しです」
    スピーカーホンにしたスマホから漏れる彼女のの乾いた笑い声がした。おそらく梶の脳裏には急務の報せを受けて凶相になった私を思い浮かべたかもしれない。
    『本当に、お疲れ様です…。門倉さんにしか出来ないことだから、仕方ないですよ』
    梶の宥めるような声がささくれ立った私を落ち着かせてくれる。
    「梶、眠くないん?」
    『んん…、もう少しだけ』
    「また薄着のままでいたら、あかんよ」
    『でも、かどくらさんとはなして、いたい…』
    どこか力が入らなくなってきてる彼女の声に眉をひそめる。共に過ごせなかった半日を名残惜しむのはいいが、前科があることを忘れてはいまいか。
    「明日、無理やり休みもぎ取ったから、い 1173