フロ梶新刊文庫冒頭胎児は、母の心が分かってもなお、踊るだろうか。それともそこで逆らって、生きるということを辞めるだろうか。
胎児は、誰の掌の上で踊るのかを選べないまま生じた生命を、己だと認識して呼吸をするのだろうか。
それとも、自分が胎児であるという事もしらないままそっとへその緒を閉じられ、それが苦しい事であるという事も思わずに死ぬだろうか。
それは誰にもわからない。物を考える時、もう誰もが胎児ではないのだから。
*
磁気妨害ケースに入れられたフロッピーディスクをフロイドが胸ポケットからちらりと覗かせた。
「隆臣君の欲しい物はこれかな?」
こくりと僕が頷くとフロイドはそれをテーブルの上に置き手を離す。
「石婚島への潜入ってなら従業員側ではまず無理だ。客としてなら手引きできるかもしれないが、何かあれば辺りは海だから沈め放題でもある。」
「構いませんよ。動くのは僕たちだけじゃないですし、情報があるというのを押さえるだけで止めるというのもアリですから」
悪趣味な島だぜ、とフロイドは椅子の背もたれに身体を預ける。はったりではなく、心底そう思っている時の声だ。
しかし悪趣味であろうと、そこになにがあろうと、こちらの腹の中にある計画を動かすには国を三つ跨いでの壮大で最悪な計画に入り込む必要があった。一般人もそこには「客」として入り込めはするが、フロイドが言った通りそこになんの思惑が無かったとしてもかなりの危険を伴う事だった。無論、そこに危険があると思えるのは「裏」を認識している立場だからこそのものだ。
暴くには、暴ける人間の手を。そう思った梶は迷いなくフロイドを頼った。帰って来た返事もまた、期待した通りの物だった。
「相変わらずお前のママは危ない事ばかりさせてるな。俺がママならベビーベッドのガードを100センチにしてるぜ」
「そうですか?よくお散歩に連れて行ってくれるので僕は大好きですよ」
ヒュウ、とフロイドが茶化して口笛をひとつ鳴らす。
「お前のママがいくらいいママでも…ヒルマイナ社の値段はちと高いぜ」
フロイドの指が苛立ったようにそのこめかみをトントンと叩く。わかっている。その名前は口に出す場所を間違えれば、その場で「終わり」になる、それくらいのものなのだ。
石婚島、そこはこの現代においても現存する売春島だった。
乱立する売春宿、不法占拠及び入国、銃刀法の完全無視、多数の行方不明者と漂着死体。それらは島の中でも外でもニュースにすらならない。利害関係というのは、時に正義よりも尊い。
事件のニュースが多く聞こえるよりも何も出ない知らされない、知られない場所の方がずっと暗い。人の関心は無責任で居られる場所にしかない。大抵の事は隠され、終わり、無かったことにされる。梶は身をもってそれを知っていた。
梶とてこのネタを不当に値切るつもりはなかった。
フロイドが要求するのなら今この場にある現金に上乗せして倍額にしてもいいというのが”ママ”の意向だった。
「こっちにも用意があります。今ある分で足りないなら時間を貰えれば」
「いや、俺は金には困ってねえよ。フロイド・リーも、アレックス・ケインにも、オリバー・ジーン・タカダにもそれぞれが日本で遊んで暮らせるだけの金がある。」
急に話が厄介になった。世の中の大抵の事は金で解決できる。その逆、金で解決できない事というのはずばぬけて始末がしにくい。
「…用意できるものであれば、物によればなんとかなるでしょう。」
「かぐや姫をやろうってんじゃないんだ。そんな難しい顔するなよ、簡単だ。」
何だ?金じゃないなら不動産?何かの権利?
賭郎の会員権は確かに今日現在空席がいくつかある。フロイドのことだからその席数まで正確に把握してはいるだろうが、
対価として陰謀と真相がテーブルに乗せられる事はあるにしても今更ギャンブルの世界に身を投じるような男だろうか。
ヒルマイナ社の情報と、賭郎の会員権が同じテーブルに乗るかどうかを決めるのはフロイドだ。そして、それを良しとするかどうかは独断では決められない。
「で、何でしょう」
「梶、お前の三日間…いや、72時間を俺にくれ」
「へ?」
眼前に立てられた三本の指を思わず二度数えた。
梶の後ろに伴として立っていた弐號立会人と拾陸號立会人からも「は?」「あ?」という声が漏れた。
「別に監禁しようとか危害を加えようってんじゃねえよ。ただ俺と三日間のバカンスに行ってくれればいい。すべてこっちで手配するから着のみ着のままで構わない。まあ、セクシーな下着の一枚でも着て来てくれたらそれでいいさ」
「はぁ!?ちょ、えっ?これはビジネスの話!バカンスは別だろ!?僕に身体を売れってことですか!?」
「梶は想像欲が豊かだなあ」
身体を売れ、というのは言い過ぎた自覚がある。不当な要求寄りではあるが、そもそもフロイドと梶はビジネスとは別の領域で双方合意の上で恋愛関係にある。だからこの要求は犯罪であるとか、倫理面に問題があるようなものではない。
「もちろんそっちの二人が抱えてるアタッシュケースの中身はいただくぜ。でも金はそれっきりでいい。梶がバカンスを断るならこの話自体が無し、キャッシュの受け取りも拒否。それだけだ。」
拾陸號立会人・南方の携帯が鳴動する。
サイレントの設定を無視し、強制的に鳴動と受話状態になった端末から「そいつやっちゃっていいよ」という重たい声がスピーカーを通して聞こえて来た。
もちろんそれで即座に手を出す判断をする立会人ではない。
しかし弐號立会人・門倉は「はよ決めろ」という目線を梶に飛ばした。
「なあ梶、いじわるしてるつもりも、お前に売春をしろって言うワケでもないんだぜ?確かにこれはビジネスだ。でもビジネスだった、自分の財布からちょっと出す時もある。そうだろ?日本風に言うなら接待ってやつだ。」
「う…そ、そうかもしれないですけど…」
梶が視線で追うのを誘うようにフロイドの指先でつままれたフロッピーディスクがゆらゆらと揺れる。空いている方の手が懐に入り、取り出された同じ仕様のケースに入ったMOも重なって梶の目の前をひらひらと泳ぐ。
「今ならなんと、ここ二週間の入島者の身分証明のデータもついてお得」
「うう…!」
本当に厄介な相手だ。欲しい物をこれでもかと目の前にちらつかせ、それを得る手段がこちらにある、行使せざるを得なくなる、という状態に追い詰めてくる。梶に拒否するという選択肢がないのを承知の上で。
「好きな男を24時間も独り占めできていない哀れな男のおねだりだ。これっぽっちのこと、叶えてくれるだろ?」
梶の座る椅子の右後ろ脚を革靴のつま先が軽く叩いた。溜めに溜めていた息が熱いためいきになって口から出て、梶はフロイドの手から記録媒体を二枚ともひったくった。
「欲張りは、いつか身を滅ぼしますよ」
「俺はお前がそういう事を言うようになってすごく嬉しく思うよ」
フロイドの懐からまったく知らない名前の印字された航空チケットがひらりと躍り出る。
ちくしょう、最初からこのつもりだったんじゃないか。
梶は受け取った記録媒体を後ろに控える二人に渡し、内容の確認が済んだと同時に航空チケットをフロイドの手から取り上げた。
*
「ここ…どこだよ…」
おかしいな、普通に成田のカウンターに行ったんだけどな。と小首を傾げる。
今日一日で朝から晩まで首を傾げすぎていて頭が左に傾いたまま戻らなくなるかもしれない。
名義は違うけど正規のチケット、というギリギリな紙一枚とその名義に合わせたパスポートを持って手続きをしようとしたら目の前でカウンターが閉まった。
まだ午前中だけど?と戸惑っているとグランドスタッフの恰好をした人が「カジ様ですね」とがっつりと僕の本名を呼び、あれよあれよと保安検査場を無視し、一般旅客機では到底ないだろう飛行機に乗せられ、目隠しをされたと思ったら知らない土地に居た。
数少ない通行人や建築物の恰好からアジア圏ではあるようだが、到着するや否やフラワーレイをかけられた。
フラワーレイといえばハワイという貧困な発想しか持ち合わせていなかったのでおかげでここでも首をかしげるハメになった。
されるがままに鼻の下に届くまで何重にも重ねられたフラワーレイに口の中に侵入されながら端末の電源を入れる。
仕事で使う端末も私用の端末も賭郎本部の金庫に預け、今日の為に用意した端末の電話帳の登録名「1」を呼び出した。
「もしもし?」
「アロ~ハ、カジ。快適な空の旅はどうだった?」
「はいはいアロハ…座席だけはファーストでしたよ…」
快適ではあった。が、アロ~ハな気分ではないし、ここは絶対にアロハな土地ではない。
「本当に手ぶらで来たけどどうしたらいいんですか?」
「それでいい。迎えのタクシーが来てるだろ、それに乗れよ」
辺りを見回すと周囲の民間タクシーとは一線を画すような高級車が乗り場に停車している。
「…」
ポケットに入る以上の物は持ってきていないのでそのままタクシーに向かい、助手席を開けおもむろに乗り込んだ。
「フロイド、いつからバイト始めたの?」
「———おいおいお客様もっと経過しろよ。日本風にやるなら助手席に乗るのは一番下っ端だろ?」
「さあね。僕にはここが日本かそうじゃないかもわかってないので」
首を埋めるフラワーレイをバサバサと外し、グローブボックスから先客の拳銃を出してそこに突っ込む。
「じゃあ72時間、スタートだ」
フロイドがアクセルを踏み込む。世界一の陰謀王に運転をさせるなんて、自分くらいかもしれない。
「で、ここはどこなんですか?まさか石婚島って言うんじゃないですよね」
「まさか!あそこは確かにいい女が揃ってるが、抱くなら梶の方が絶対にいい」
「どーも…」
スモーク加工されたガラス越しに見る風景はいつかザッピング中に垣間見た旅番組のそれとよく似ている。
が、明確にどこかというのは判断できない。
「黒服さんとか連れて来てないですけど、このへんって治安どうなんですか?」
「治安?関係ないだろ。ホテルに缶詰めだ」
「そうなんですか?バカンスって言うからどっか観光でもするのかと思ったんですけど」
「お前がそうしたいならそれでいいさ。おチビのマルコに土産も必要だろ?しかし日本人は休暇にまであくせくと歩こうとするなんて、随分と元気なんだな。なんで寿命長いんだ?」
「そういう皮肉っぽいのって…あれ?フロイドって何人?この国の人?」
「それって重要か?俺っぽさは俺にしかないぜ~」
それもそうか、と頷いてしまった。
ステンレス鋼の網が張られた窓を少し開け、知らない場所の風に吹かれてみる。
「今日からアレにご宿泊だ」
到着した空港から少し低いレベルの治安と生活圏の地域を抜け、今度は道がよく整備された地域に差し掛かる。
アレ、と言われて視界に入るのは日本の基準では立てられないような高さの何棟かのビル群で、その足元にはさながら城下町、といった風に雑多な色の街が広がっていた。
「出来てから今の所食中毒も狂犬病も出てないから、まあ治安は良い方かもな」
「へー、じゃあいいところですね」
断続的に続いていた石畳が白くキラキラとした道路に今度こそ変わる。
随分遠くまで来たものだ。これを想うのも何度目かという話だが、これにはいろんな意味が含まれている。
何故だか出がけに会った貘さんの「いってらっしゃい」という顔を思い出した。
*
「ほらよ」
「ありがとう」
カラフルなパラソルの下に簡単な冷蔵庫のついたワゴンを置いたそこで売られているジュースがやけに美味しそうに見えて、両替しようにも行き先さえ分からず少しの日本円とカードしか持っていなかったので早速フロイドにジュースを買わせた。
ホテルへのチェックインの前にせっかくだからとフロイドにねだってシティの周りを囲むタウンを散策することにした。
当たりをぐるっと見回してみるも、英語ですら目下勉強中の身としては本当にどこの国かというのをはっきりさせることができない。
「俺に小銭を使わせるのなんかお前くらいだし、屋台のジュースを飲ませるのもお前くらいだよ」
「先にどこに行くのか教えてくれてたら両替くらいしてきました」
二人で色の違う真っ赤なジュースを携えて屋台のパラソルの影を借りる。
「これ、何なんですか?」
「分からない。ちょっと色付けてオススメをくれってだけ。」
「人の事言えます?それ」
袋に刺さったストローを咥え、種が浮かんだり層が出来たりのそれを二人で同時に吸った。
「…醍醐味、としか言えん味だな。ザクロだが、コーラだ。」
「こっちスイカですよ!でも三ツ矢サイダーですね。」
味が分かると色味の理由もわかった。汗ばむ気温の中で飲むのがやけに美味しくて袋の中身がぐんぐんと減っていく。
炭酸割り、ノンアルコールのカクテル、そんな風だが味わったことのない組み合わせが新鮮だった。
言語は違うがこちらが好意的なリアクションをしているというのはわかるのだろう。少女を連れた屋台の店主婦人がにこにこと微笑んでいる。
「フロイド、この二人にもジュース買ってください」
「ん、いいぞ」
フロイドはポケットから紙幣を出しなにやら婦人に言う。婦人は頷いて、同じようにジュースを作って娘に手渡した。
「自分らで飲めるってことはこれは安全な飲み物って事だな」
「もう、そういう意味で買わせたんじゃないですって」
見るからに汗をかいていた親子が水分を口にしたのを見て偽善を自覚しながらもほっとした。
大容量のジュースを二人で飲みながら夜の営業に向けての準備でにぎわう露店群を眺めて歩く。
「でも意外。フロイドってこういう屋台の飲み物とか嫌がるかと思った。」
「自分じゃ飲まないな。さっきの店はラッキーだったが、いろいろと気にしない店も多い。まあでも下手に用意されたものよりも安全な事もある。俺かお前のどちらかを仕留めるためにこの市場の食べ物全部に毒を入れるわけにはいかないだろうしな。」
意図するところを見て、確かに、と頷いて返す。潜り込めない先がないなら立てられない歯もある。
甘みと炭酸の強いジュースに早くも舌が慣れ、機内以来の水分に全身が喜んだ。
「胃腸はお前の方が上部かもしれないが、嘘喰いに甘やかされてるんだから気を付けろよ。あと俺から離れずに歩けよ。」
「手でも繋ぎますか?あんなに大きな情報の差額が僕なのは安すぎるから、それくらいサービスしますよ。」
「おいおい、拗ねてくれるなよ。まだ独占してから二時間だってのにあと70時間その調子で居るつもりか?」
「さあどうでしょうね。あのアイス買ってくれたらちょっとくらい機嫌治るかも」
「いいぞ、その調子だ。俺はお前に困らされるのが大好きなんだ」
フロイドの眉尻が下がったのを見てちょっと気分がよくなる。別に優勢なわけじゃないが、少し機嫌が直ったので梶はフロイドと腕を組んでやった。
*