花に嵐花吐き病
花に嵐
昔の記憶。
それはまだ、真実を知らず「父さん!」と無邪気に笑って父を好きだと全身で伝えていた幼き頃まで遡る。
庭先で一人で遊んでいた大和は、見たことがない花を拾った。名前もわからずただ綺麗だなと思うだけで眺めていると「大和」と呼ぶ母の声にそのまま駆け出した大和の頭には、もうその花の存在は消え失せていた。
初めて八乙女楽という人間を認識した時、嵐が訪れたようだと感じた。強く吹き荒れる風は体を煽り、その場に立っているのも辛く飛ばされそうになってしまうほどの衝撃。けれど、挙手一投足を余さず網膜に焼き付けるようにして視線を逸らせない。呼吸すら忘れ、思考もろとも意識を取られてしまう。
圧巻のパフォーマンスを見た余韻と、奥底から湧き上がるアイドルとしての踊りたい歌いたいという衝動。そして胸に吹き荒れる嵐は、花の香りを纏い大和自身が自覚しないままにそっと芽を出し、花開いた。
花吐き病という厄介な奇病に罹ってから二年の月日が流れていた。多かれ少なかれ、花を嘔吐することはあれど器用にこの奇病と共に生きてきた。何度かの極端に酷い嘔吐を起こしたがそれを除けば穏やかとは言えないが、それでも花吐き病を患ってる他の人間と比べると日常生活を送るのには穏やかな日々を過ごしていた筈だった。
「ッ、ぉ、っ……!ゔぁ、ハッ…ゲ、ぇっ」
自室の床に蹲り溢れんばかりの芳香を纏った花を吐く。口から花を吐くたびに血の気が失せ体力が奪われる。それでも止まない強い吐気にぼろりと涙が溢れた。びくびくと痙攣し強張る身体を冷えた手で抱きしめ、一際大きく体が跳ねてごぽりとまた花が吐き出される。何度も嘔吐き涙が頬を濡らし、喘ぐ呼吸の狭間で花が溢れる。ハッハッ、と荒い呼吸を繰り返し回る世界の中、漸く吐気が落ち着いた頃には顔を顰めるほどの芳香と大量の花たちが散らばっていた。
身の内から吐き出された、隠している筈だった想いの形を虚な瞳で無感動に見ながら遠くなる意識の片隅で、焦りを露わに部屋に飛び込んでくる美しい月を見た気がした。
─数ヶ月前。
「改めて紡に、アプローチしようと思う」
そう言った八乙女の真剣な眼差しにどう答えたのか、覚えていない。ただ、腹の中で嵐のように花が芽吹く気配がした。
「いや、アプローチは違うな。紡への想いに向き合いたいと思ってる」
八乙女楽という人間らしい眩しいぐらいの真っ直ぐさに眩暈がした。太陽を直視した時と同じく目が眩み視界が白く染まる感覚と、それでも尚、視線を奪っていく存在感の強さ。八乙女に惹かれた理由の一つが今はこんなにも苦しい。喉の奥、それよりも深く暗いところから駆け上がる花の香りが口の中に広がっていく気がした。
「お兄さんに言うこと?」
冗談めかして彼の知るいつもの『二階堂大和』を引っ張り出す。
「二階堂には言っておきたかった」
「律儀だねぇ。……まぁ、いつでも相談にはのるよ」
「サンキュ」
心底ほっとしたと胸を撫で下ろす姿を見ながら口にした酒を、発症してから味わったことのない凄まじい嘔気と共に飲み込んだ。
その日の夜を皮切りに、花を吐く回数も量も格段に上がった。特に二人で飲みに行って八乙女の相談という名目の話を聞いた日から次の日の朝は酷いもので、噎せ返る香りに目を覚ませばベッドは辺り一面花だらけ。寝ながら吐く、というよりも吐気に飛び起きそのまま嘔吐を繰り返し意識を失うように倒れて朝を迎えるという方がしっくりきた。よくもまぁうちの子達にバレないなとは思うが、起こしに来る前に目が覚めるのだからバレる心配も要らなかった。
こうまでなっても八乙女の誘いを断れないのは、好いた相手に頼られてること、「こんなこと、二階堂にしか相談できない」という言葉に二人だけの秘密を共有している気持ちになれたから。八乙女の良きライバルで悪友で掛け替えのない友人という場所だけは、マネージャーにもTRIGGERの二人にも奪わせない、自分だけの特等席で居たかった。その場所を守るためならば、心臓が握り潰される苦しみだろうが花を吐き続けようが、たとえ恋心に殺されることになっても絶対に譲らない揺るぎない強い思いがあった。
「目が覚めましたか」
床ではない柔い肌触りとサラリと優しく撫でられる頭の感触に視線を向けた。意識を失う前に捉えた月が憂いを帯びて、海よりも深く透明な青を揺らしてこちらを見ていた。月と海のコントラストが美しいと焦がれるように手を伸ばした。頬に手を添え指の腹で下瞼を辿る。指先に触れた睫毛はどこかしっとりと水気を含み、気づかなかったが頬も湿り気を帯びていた。
「わるい、泣かせちまったな」
「部屋で花を吐き続けているヤマトを見て、背筋が冷えました。また、あの時のように、死んでしまうのではないかと」
「こら、勝手に殺すんじゃない」
「死にそうなヤマトを見つけた私の心境を察してください」
もう、あのような思いはしたくないです。
空気に消えそうな声色で頬に寄せていた手を痛い力で握られた。その姿は祈りのようで、少し昔のことがナギの中でトラウマになっているのだと思い知った。桜春樹を喪ったナギに、今度は自グループの人間まで消えてしまうかもしれないという恐怖心を根強く残してしまったことにやるせなさを感じる。
あの時─少し昔に嘔吐するよりも花の生産が上回り喉に詰まらせ危うく死にかけたことがあった。いつもと違うことに恐怖を感じ、偶然にも寮に居て唯一事情を知るナギにSOSを出した。そして部屋に走ってきたナギが目にしたのが花を上手く吐き出すことも出来ず喉を詰まらせる自分の姿。無理矢理にでも花を吐き出され、つっかえが無くなり栓を抜かれたかの如く口からは次々と花が落ちていった。
その時のナギの血の気の失せた顔と焦り、今にでも零れそうな涙を堪えた瞳を見てもう彼にこんな思いはさせないようにしようと、人知れず心に誓った筈なのに現実はそう上手くはいかないものだ。
「ナギを、泣かせたいわけでも、苦しませたいわけでもない」
握った手を返してなるべくナギを安心させようとゆるりと笑んだが、それは逆効果だったようで綺麗な顔を歪ませて瞳からコロンと一粒涙を落とした。あぁ、勿体無い、そう思って涙を拭うためにもう片方の手を頬に添えた。しとどに濡れゆく指先で必死に涙を拭っても一向に拭きれない。
「泣き止んでくれよナギ、お兄さん困っちゃう」
「そうっ思うなら、もっと、自分を大切にしてくださいッ……!」
懇願し握った手に額を擦り寄せるナギに居てもたっても居られず、起き上がって抱き締めたら離さないと語るように強く手を握られた。嗚咽が治るまでずっと片手で背中を撫でていたら落ち付きを取り戻したナギに「今日は罰として一緒に寝てもらいます」と赤く腫れた瞼のままで言われ「その赤い目を冷やしたらな」と笑う。狭いだろうシングルベッドに身を寄せあって共に眠りについた。
とても、穏やかに眠れた夜だった。
ピロンと軽快な音が鳴り携帯を見ると八乙女からの連絡。「もうすぐ着く」と簡潔なメッセージに「あんま焦んなよ」と返しスタンプを一つ送ってポケットへと携帯を捻じ込む。走ってくるであろう八乙女を想像して少しだけ口が緩んで、今日の飲みも楽しみだなと、行き交う人を眺めながらこれからの時間に想いを馳せた。
八乙女と飲むのは楽しい。
その話題がなんであれ、大切な時間であるのには変わらない。心を砕いて心配するナギには申し訳ないと思うが、こればかりはどうしても奪われたくないと強く思う。
「二階堂悪い待たせた!」
息を切らせて走ってきた八乙女に笑って返す。仕事柄、時間が押すことは良くあることで今更気にすることもない。
「気にしなさんな。んで、店どこ?」
「ほんと悪い。こっから歩いて五分ぐらいのとこ。日本酒が旨かった」
そりゃ楽しみだなとくふくふと笑って八乙女と揃って歩き出しだ。八乙女の言った通り、店にはすぐ着いて奥の個室へと案内された。お洒落で、でも変な格式の高さもなく落ち着いていて居心地の良さも感じるあたりに、流石八乙女と言いたくなる。
腰を落ち着けメニューを見ながらまずは生ビールと何品か料理を頼む。ぽつぽつと話をしながら運ばれてきたグラスを掲げて「乾杯」とコツンとグラスを合わせ、続々と運ばれてくる料理を食べながら最近の仕事でのちょっとした面白い話だったり、寮での出来事、TRIGGERの間で起きた面白いことだったり、互いを知ってるからこそ通じる話に笑いながら、時には呆れながらも肴にはもってこいで酒はするすると喉を通る。
杯を重ねてから、少しの間ができた。一瞬の空白に、心臓がそわりとして落ち着かない。そんな間を埋めるかの如く、口を開いたのは八乙女だった。
「二階堂、好きなやつでも、できたか?」
何故か、緊張をはらむ声で問いかけられた言葉にぴたりと時が止まった。唐突すぎる話題に心臓も、呼吸も、思考も何もかもが停止し、ただ目の前にいる人間から視線が外せない。
「俺の勘違いだったら悪い。ただ、気付いたら二階堂から花?みたいな匂いがするから」
「花の、匂い」
「おう、気のせいかとも思ったけど、今日もしてる」
血の気が引くとはこのことだろう。ただ、ここで八乙女に何か察しられると厄介であることはわかる。まるで思案してます、というように唇に指を置き心当たりを探るようにする。花の匂いを纏うほどに嘔吐を繰り返してるのか、それとも嘔吐だけに留まらずついには身の内からも芳香を出すほどまでになってしまったのか、ぐるぐると回る思考に眩暈がしそうだ。隠したい想いは隠すこともできずに自分の意思とは関係なく出されるしかない現実に、もはや限界なのだと遠くで嘲笑う声が聞こえた気がした。
「思い当たらないな……そもそも花の匂いしてるってだけで好きなやつできたとか思うか?」
ケラケラと笑い酒を煽る。どうかこの話題が流れてくれることを願った。
納得いかないと不満げな顔に「んな顔すんなよ、男前が台無しよ」と残ってるエイヒレにマヨネーズと一味を絡めて口に放り込む。咀嚼して、這い上がる花の芳香と一緒に無理矢理に飲み込んだ。
「そうか。……いつも俺ばっかり話聞いてもらってるからなんかあったら言えよ、いつでも話ぐらいなら聞く」
「ふは、ありがとな八乙女」
八乙女の優しさが辛い。好きな人はお前なんだよと叫びたい心を抑えて笑う。なんで花の匂いだけで好きな人ができたなんて思うんだよと泣き叫びそうだった。いっそ花の香りごと八乙女に気持ちがバレて仕舞えばいいのにと自暴自棄な考えさえ浮かぶ。
知らないということは凶器にもなるのかと勝手に抱いてしまった恋心が勝手に痛み恨むぞ、なんて思い、喉の奥から憎らしい花の芳香が駆け上がり違う意味で吐気がする。せめて残りの時間まで持ってくれよと、楽しい時間のままで居たいと見えないところで拳を握った。
外に出ると昼間の暑さが消えた涼やかな夜風が頬を撫でてほっと息をつく。何度か呼吸すれば酒気とまだ胸に巣食う気持ちの悪さがすこしだけ和らいだ気がした。浮かぶ欠けた月を見上げ、ずいぶんと明るいなぁなんて見上げていると後ろから腕が引かれる。
「どったの八乙女」
振り向いた先で、言葉を詰まらせ何か言いたげな八乙女に胸がザワリと荒波立てた。何を言おうとしてるのか正確にはわからないのに、お願いだから見て見ぬふりをしてとその言葉は言ってはダメだと胸の中で叫んだ。だけど、こいつはそんなお願い聞いてくれないやつだっていうのも、痛いほどに理解していた。言われるくらいならいっそ。
─いっそのこと、先に言ってしまおうか。
やけになってるのかもしれないが、限界なのだ。頭では理解してても、感情が悲鳴を上げている。それを無視し続けた俺に痺れを切らした花たちはついに体ごと蝕んでいっているのだろう。拗らせた恋心に、芽吹いた花に殺されてしまうとはなんと滑稽なことだろうか。死んでたまるか、とは思うけれど。
「やおとめ」
言い淀む八乙女に笑う。自然と笑みが浮かんで凪いだ心に肩の力が抜ける。もういいかな、と強がる心が緩み後悔すると分かってて口からは自分でも驚くほどするりと言葉が出てきた。
「俺は八乙女楽が好き。……恋愛的な意味で。」
寂しさと諦めと、愛おしさを込めて。自分の顔は見れないからどんな表情をしてるか想像はつかないが、きっと情けない顔をしてるんだろう。八乙女の瞳が徐々に大きく開かれ、ハクっと空気が漏れる様を見つめる。
返事は、期待しない。いや、返事を待ってる時間がない。きっと俺は八乙女の前で無様にも花を吐くだろう。そんな醜態を晒すことだけは許せないから、返事を聞く前に想いを告げらせて、と願った。
「びっくりするよな。俺だってびっくりしてる。でも好きになっちゃった。八乙女のことが、好きなんだ」
花を吐くように溜まった想いのかけらを吐き出す。すっきりするどころか、何故か吐気が増して生唾を飲み込む。まだ、もう少し。言いたいことがある。
「気持ち悪いだろ。俺のわがままで八乙女を困らせたくもなかったけど、限界だったんだ。……もう、今まで通りってわけにはいかないかもしれない。仕事上、顔を合わせることはあるけど、仕事以外で顔を合わせたくないなら、そうする。自分勝手でごめん。本当に……ごめんな」
掴まれた腕をなるべく優しく解きながら言葉を紡ぐ。驚きで力が抜けていて簡単に解ける手がなんだか名残惜しくて、つい指切りみたいに小指を絡めてみた。約束するものもないこの行為が滑稽で、力を抜けば重力に任せてするりと解けてそれがなんだか自分たちの関係を示すようで胸が痛い。
「じゃあな、八乙女」
一歩後方に下がって呆然としたままの八乙女に笑いかけ─そのまま回れ右をし走り出した。後ろから名前を呼ぶ声が聞こえるが、そんなものに構ってる余裕はなかった。ずっと我慢し飲み込み続けた花たちが体内から出たいと嵐のように暴れまわる。嘔気と我慢の均衡が崩れ今にでも必死に噛み締める唇の隙間から溢れんばかりの花々が咲き乱れそうだった。
逃げ去るようにがむしゃらに走って、駅近くの路地裏に飛び込む。明るさから逃げて奥に進みながら、はらりはらりと薄く開かれた口から花弁が舞った。
「〜ッ、ハッ…ゲェ……エっ、、ゔッ」
ボトボトと口から花が落ちていく。苦しくて涙が眼鏡のレンズに落ちる。強烈な嘔気に膝がかくりと折れ咄嗟に建物に寄りかかり体を支えて息を整えようとするが、嘔吐感が勝り碌に息も整えれない。走って乱れた呼吸と、嘔吐の止まない体。鼓動で全身が脈打ち、うまく呼吸ができず苦しくて意識が遠のきそうだ。
どれほど時間が経ったのか。五分なのか十分か。もしかしたら一時間経っていたのかもしれないし実は三分にも満たないのかもしれない。拷問のような嘔吐が収まる頃には体温は下がり、体力は根こそぎ奪われていた。鼻につく芳香にまた吐気がこみ上げて強く咽せた口から花が転がる。山になった花を見て哀れだなと笑う。行き着く場所のないこの感情も、吐き出されるしかないこの花も。
持ち帰らなければいけないのは頭では分かっててもそこまでの体力はなく。近くに見つけたゴミ箱に適当に集めて捨て、ぐらつく体を引き摺って駅のホームへと向う。ゴミと共に捨てられるのが、なんだかお似合いのような気がして自虐的に笑ってしまった。
八乙女に見つかる不安を抱きながらも、無事にホームへと辿り着き電車に乗り込む。帰宅中の人や、酔っ払い、遊び帰りであろう女子グループに、カップル。疎らでも人がいる車内の隅で口を塞ぎ吐気を耐える。寮まであと数駅で着く。それまでの辛抱だと、自分に言い聞かせ座ったまま体を小さく丸めながら駅名を告げられるのを耳を澄ませてその時を待った。
聴き慣れた駅名に席を立ち、走り出したい気持ちを抑え早足で改札を抜け駅を出て、見慣れた風景に安堵し寮に向かう。変に乱れる呼吸にあと少しの距離がもどかしくなった。喉の奥が引きつった所でこのまま寮に帰ってどうするのかという疑問が浮上する。今にでも花を吐きそうな状態で寮に帰って、うちの子たちに出迎えられて、それで。
─それで?
万一にもあいつらの前で花を吐いたらどうする。
「おちつく、まで……寮に帰れない」
ザッと血の気が引いて、肺が忙しなく上下する。焦りと嘔気に背筋を伝った汗が気持ち悪い。何処かと巡らせた視界の遠くに公園が目についた。寮の近くの公園は、夜も遅く人も居なければ明かりも疎らだ。吸い寄せらるように公園に足を踏み入れベンチにたどり着く前に吐き気に負けた体に、縺れながらも生茂る木の横に体を滑らせ、ごぽりと花を吐く。さっきあんなにも吐いたのに、際限なく吐き出される花々にさっと全身を恐怖が襲う。それでも体を支えているのも困難で膝をついて蹲りながら嘔吐き、こみ上げる吐気に逆らうこともできずに花を、想いを、吐き続ける。
体が痙攣し喘ぐ呼吸の最中、なんであんなこと言ったんだろうと後悔が押し寄せた。
自分の中だけで大切にしたい八乙女への想いを無情にも花という形を持って自分の意思に関係なく吐き出され、隠すこともできずに叶わぬ想いを眼前に突きつけられる。八乙女のことを想うだけで心が苦しいのに、なぜこうして身体まで苦しまなければならない。花吐き病がなければそっと心の奥深く、柔い部分に鍵をかけて閉まっていれたのに。暴かれることなく、想いもつけれずにいれたのに。限界だったのは心ではなく、身体だったのだろうか。だから好きだなんて告白してしまったのだろうか。
惨めで、悲しくて、悔しくて、苦しい。
「ゲ、はぁ、、オエっ」
誰にも知られたくない彼への想いが視界に入って、情けなく憐れで吐き出される花たちが惨めに見えた。誰にも見られたくない一心で、硬い土を掘り起こす。地面に埋めて、隠してしまおう。涙を流しながら花を口から溢し、素手で穴を掘る姿はさぞや滑稽だろうが、手が傷つくことも気にせずに穴を掘った。
できあがった小さな穴に、溢れんばかりの花を入れる。穴から零れる花を押し込んで埋めようと試みて、口から花弁がひらひらと舞い落ちた。
「はっ、ぁ、あぁ、」
埋まりきらない花たちにどうすればいいのか、もうわからなくなってしまった。思考は滅茶苦茶に乱れ、嘔吐のし過ぎで身体に力も入らない。ぼたぼたと憐れに流れる涙が止まらない。最後に見た、月を背負った八乙女の呆然とした姿が目に焼き付いて心臓が握り締められたかのように痛い。
「ゔ、ごめ、やおと、め、─ごめん、〜は、だれか……ぅ、ぁ、
─ナギ、な、ぎ……たす、けて、」
月を思い浮かべて、ナギを思い出す。ピチョン、と水滴が落ちて目が覚めるような感覚。藁にもすがる思いで力の入らない手で携帯を引っ張り出し、ナギの電話番号を表示する。祈りというには滑稽で、縋る思いでコール音を聞いていればプツと途切れた。
「ハァイ、ヤマト!どうしました?」
夜闇を切り裂く鮮烈な声が鼓膜を揺らした。その瞬間、ぶわりと涙が溢れる。
「ナギ、なぎっ、」
「ヤマト、何がありました?」
「たすけて、くるしい、ッ花が」
「大丈夫です落ち着いて。花が、どうしました?」
鼓膜を震わすナギの声に安心し、携帯を握る手に力が入る。
「止まらない、花が、ぅ、ゲホッ、たす、けてっ」
腹が痙攣し、電話中にも関わらず嘔吐する。
「ッ、何処にいるか言えますか?」
「ハッ、ァっ、公園っ、ぉ、寮の、近くっ」
「わかりました、今そちらに向かいます。電話はそのままに。切らないでいてください」
遠くでナギの声が聞こえる。それと、万理さんと、タマの声だろうか。この奇病を患った時点でメンバーには迷惑をかけないと誓ったのに、これから彼らに迷惑と混乱を携えて重荷になってしまう現実に喉の奥がキュッとしまる。体力が抉られ、冷えていく身体に思考まで落ちていく。混沌とする思考回路に歯止めが効かない。
「ヤマト」
降ってきたナギの声にぐしゃぐしゃだった思考が止まる。
「ワタシの話を聞いてもらってもいいですか?今日のとっておきのお話です」
ふわりと優しい、春の花の香りに似た声でナギは話し始めた。身を焼いて焦がすどろりと噎せかえる甘く強い芳香とは違う、優しい香りだ。花というのは、こんなにも優しい香りだっただろうか。
いまだ吐気の止まらない中、ナギの声だけが暗闇を照らす月のように優しく身を包んでくれた。
暫くして、遠くで車の停まる音と数人の足音が聞こえる。耳に当ててる携帯から聞こえる声と、何処からか聞こえる声とが重なった。
「大和くん!!」
「ヤマトッ!」
「ヤマさん!!!」
足音と、焦った声に顔をあげた。揺れる長い髪と声に万理さんだとわかった。後ろからナギとタマも駆け寄ってきたのに、反射的に急いで手元を隠そうとした。
「大和くん隠さなくていいよ。俺はそれを知ってる」
「ぇ、」
「大和くんが患ってるとは思ってなかったけどね」
知っている、と言った。それは俺が花を吐くことではなく、奇病を指して言った。カリ、と地面に爪を立てる俺の手を取って労わるように握られビクっと体が大袈裟に跳ねた俺を万理さんはもう片方の手で背中を摩った。その後ろでナギが眉を寄せているのが申し訳なく、ごめんと言いかけてはらりと花弁が落ちた。
「ヤマトっ」
側に寄ってきたナギが膝を着く前に、花が散らばる惨状に奥歯を噛み締めたのが見て取れた。ナギの美しい顔が歪むのに悲しくて、だけどそんな顔しても様になるなぁなんて混濁する思考の中でふっと浮かんだ。万理さんと交代したナギが俺の頬を両手で包んで泣きそうに笑った。
「なぎ、」
「安心してください、ワタシたちがいます」
「うん、ありがと」
ナギの手に擦り寄って、またこほっと咳と一緒に花弁を散らす。止まない花の嵐に恐怖が渦巻き一人になりたくなくて、離れてしまうのが怖くてナギの手首に指を絡めた。指や掌だけでなく、爪の間にも土が入り込んでて汚してしまうなと思ったがナギは柔く微笑み優しく手をとってきゅっと握ってくれる。額をナギの肩に乗せて体を預けたら、頬に添えられていた手は背中に回り、強く抱きしめられて酷く安心した。
「なぁヤマさん大丈夫!?」
「大丈夫、ではないかな。急いで寮に戻ろう。あ、環くん、花を触ったらダメだからね」
現状に置いてきぼりのタマが動揺する声に返す万理さんの言葉にほっとした。花に触れてタマにまで感染してしまったら俺はどう責任をとればいいのかわからない。
「詳しいことは寮に戻ったらちゃんと話すよ」
「ん、わかった。絶対だからんな」
「うん。約束」
ここまできたらもう隠す、隠さないの問題ではないとは理解しても知られてしまうのは怖い。奇病だけなら百歩譲って知られるのに諦めが着くが、花吐き病を知られるということは自分は恋をしていると暴かれるのと同意であり、それが心臓を軋ませる。知られたくないのに、知られてしまう。隠したいのに、隠せない。
なんて不条理なのだろう。
「バンリ……」
「大和くんの意思は尊重する。でも、話さないってことはできないよ」
「わかっています」
「大和くん、体揺らすけど大丈夫?」
声も出すのが辛くて一つ頷いた俺の頭を万理さんが優しく撫でて、順にナギとタマも撫でていく。手早く持ってきてたらしいコンビニの袋に花を入れた万理さんが、社用車に入っていたブランケットをかけてくれた。タマに手伝ってもらってナギに背負われる。暖かい体温が冷えた身体に伝わって目蓋が重くなったが、こふっと小さく咳をして抑えた手の中に花弁を吐き出した。それを強く握り潰してから、意識がゆっくり沈んでいった。