天使の名前俺がまだ小さな赤ちゃんだった頃から拳兄が繰り返し繰り返し言ってたことがある。
「おまえにはもう一人兄ちゃんがいるんだ。ミカエラって名前だ。覚えとけよ」
ミカエラ。
ミカエラ。
拳兄がとてもとても大事そうに繰り返し口にするものだから、俺はなんの疑問もなく大切な名前なんだと記憶した。ミカエラ。俺の兄ちゃん。歌うような名前。ミカエラ。
少し大きくなって、村の人間たちとも話せるようになってくると俺は気付いた。
ミカエラってちょっと変わった名前じゃないか?
吸血鬼の俺と拳兄を遠い国から来た異人さんとして受け入れてくれた村の人たちは文五郎とか新左衛門とか。「ミカエラ」という音に似た名前は見当たらなかった。やっぱり遠い国の名前なんだろうか。
俺は、何でも知ってる村のじいちゃんのところに行って聞いてみた。拳兄と俺の名前にこの国の漢字を当ててくれたじいちゃんだ。この村どころか近隣やら大町の役場にも顔が利く人で、俺たちみたいな見た目もちょっと違うし昼間外に出られない余所者を「異人さんだから仕方あるめえ」の一言で片づけてくれたんだと聞いている。
「みかえら、のう。確かに聞かん名だが、そりゃあ透坊、異人さんだから仕方あるめえ」
じいちゃんは煙管で灰吹きをカンと叩いた。俺はこの音が大好きだった。
「確かに異国の名前だが、良い名だぞ。基督教の大天使様にあやかった名前だ」
囲炉裏端で草鞋を編んでいた安二郎が得意気に言った。じいちゃんの孫で自称文学青年、ハイカラなことをいっぱい知っている。
「そうなの?」俺は横で手伝いと称して縄を綯う練習だ。まだ手が小さくて細っこい縄しかできないが、じいちゃんも拳兄も喜んで使ってくれる。
「そうだ。確か、天使の軍団を率いる軍団長で、竜をも倒す武勇の大天使だ」
「かっこいい!!」
そんな名前の人が俺の兄ちゃんだって! 思わず声をあげたらじいちゃんの横で寝てた猫にギロリと睨まれた。
「ただなあ、ミカエラいうんは、その大天使ミカエルの名からおなごにつけるときに使うはずだ。兄ちゃんじゃなくて、姉ちゃんではないんかの」
「え?」
そんなことはない。だって拳兄がずっと言ってる。ミカエラ。拳兄の弟で、俺の兄ちゃん。遠い国で俺達のために戦ってくれている武勇の大天使。
俺がうろたえたのがわかったのだろう。じいちゃんが煙草の煙と一緒に笑い声をあげて、もう一度俺の好きな音をカンと響かせた。
「拳が言うなら拳の国の名付けなんじゃろう。ヤスの生学問なんざ気にするこっちゃねえ」
なに言うか、じっさま!と安二郎がいつも通りに吠えついたところで、厨からおばちゃんが出てきて蕗の煮物を持たせてくれた。
「さあさ、遅くなるとまたあんちゃんが心配するで、そろそろお帰り」
俺の目には本当は要らない提灯に火を入れて持たせてくれる。山犬避けにはなるし、山奥の家まで灯りが届いたのを見上げると安心だからとおばちゃんたちが言ってくれるので、ホントは面倒だし蝋燭がもったいないけど消さずに家まで持って帰る。
帰ってすぐに煮物と一緒に質問を渡すと、拳兄はちょっと困った顔をした後にじいちゃん家の方角に向かって煮物を押し戴いた。
「じいさんも安二郎も間違ってはいないな」
「どういうこと? 兄ちゃんは姉ちゃんなの?!」
「兄ちゃんが姉ちゃんってことがあるかよ。兄ちゃんは兄ちゃんだ。ミカエラって名前の、俺たち兄弟の中で一番強い兄ちゃんだ」
「拳兄より強いの?!」
俺は心の底から驚いた。まだ十年かそこらの人生だけど、拳兄より強い人間を俺は見たことがない。なんなら山犬だって熊だって、拳兄は結界術で弾き飛ばしてしまう。
拳兄が今度は山の遥か頂きの方向を見上げるようにして、いつもの愛し気な微笑みで歌うように名前を紡いだ。
「そうさ。ミカエラ。誰よりも強い選択をした、俺達の兄弟だ」
こんなときの拳兄は、俺の知らない遠くの『ミカエラ』に想いを馳せて、俺も知ってる深い愛情をすべてそちらに投げてしまっている。だから俺は、ちょっとだけ『ミカ兄』に焼きもちを焼く。ホントにちょっとだけだけど。
「あ、だけどな」
拳兄がいつもの悪戯っぽいニヤニヤ笑いに戻って俺の頭をグリグリとかき回しながら言った。
「正直、姉ちゃんと見紛うばかりの美人だからな。会うの楽しみにしてろよ」
「え―――? 拳兄の兄弟なのにーぃ?」絶対信用できねえ。
「俺・た・ち・の!兄弟なのにな! 覚えとけよ透、そん時になって吠え面かくなよな!」
結局ミカ兄に会えたのはそれから何十年も経って、居場所も何度も替えて、世界大戦なんてものまで二回も潜り抜けた後だったけど、じいちゃんも安二郎も拳兄も、みんな間違ってなかったことがよくわかった。初めて会ったミカ兄は、物凄い美人で、ちゃんと兄ちゃんで、ミカエラって名前で、そんでやっぱり美人で、俺の兄ちゃんだった。
ただ、竜をも倒す武勇の大天使がこんなに泣き虫だとは聞いてなかったよ、ミカ兄。
おまけ
あの後、安二郎が「透のミカエラ兄ちゃんにもニッポンらしい漢字が必要だよな」と頼んでもいないのにご丁寧にまっさらな半紙と矢立を持ってきた。
「いいか透、新左衛門や源右衛門の『左衛門』と『右衛門』が、畏れ多くも天皇陛下のお膝元の門を守る武士に由来するありがたい名前だということは知ってるな?」
うん、まあ。
「その衛門府の『衛』と警邏の『邏』を合わせたら、警護を担う屈強な武士の名のように見えるだろう!」
……うん、まあ。
というわけで、命名・美嘉衛邏。
時は過ぎ、じいちゃんも、おそらくは安二郎もこの世を過ぎていったこの日、俺は再会したミカ兄に大事な名前を手渡した。
ミカ兄は美しい顔を更にぱあっと輝かせて何度も御礼を言ってたけど、その後自分で書くの練習しようとしてボソッと「Oh... It’s too complicated.」ってつぶやいてたの、聞き逃してないし、俺もそう思う。