風邪をひいた監督生──あのねぇ。
風邪もあるけど疲れが溜まってるんだよ。全体的に免疫力が下がってるんだから、そりゃ風邪もひくよ。薬飲んで水分とって、暖かくして眠りなさい。君は監督生だけど、監督生を監督する立場のクルーウェル先生や学園長の監督不行き届きだよ。
あぁほら、今日はもう帰んなさい。
クルーウェル先生には言っておくから。
情緒不安も風邪のせい。
なにもかも風邪のせいにして、君はゆっくり眠りなさい。
保健室の白い天井が揺れる。保険医の声が揺らめく。
風邪かぁと息を吐いた監督生は、ぞわぞわと粟立つ身体を擦りながらとオンボロ寮への帰路へとついた。
ぐるぐると回る意識を引き上げた誰かの気配に目を開けると、ぼやけた視界にこちらを覗き込む影が。
「ジェ……ドせんぱ……?」
「はい、ジェイドです」
にっこり笑う彼にどうしてここにいるのか訊ねると、植物園でクルーウェルに会ったが急な呼び出しで学園に戻らなければ行けない。風邪を引いた監督生に薬や諸々を届けてやってくれと言われたと教えてくれた。
「クルーウェル先生から頼まれたことですから、貴方は対価を気にせず休んでください」
「……グリムは……?」
「グリムくんなら先生の指示で、エースくんたちの所に行ってもらいました。彼がいては貴方も休めないだろうと」
「うつる、のしんぱ…で。ジェイドせんぱ、も、はなれ……」
「お気になさらず。今日はラウンジのシフトもお休みです。僕たちはなかなか風邪を引くことがないので、こうやって看病できるのは貴重な体験なんです」
「……そ、ですか……」
「熱計りました?」
「いえ……」
「寒気は?」
「……少し」
「それじゃあ熱を計って、お布団を増やしましょう」
マジカルペンを一振すると体温計がジェイドの手中に現れる。それからどこからともなく布団がふわふわと宙を舞い、監督生を抱き締めるように被さる。
「おや、随分熱が高いですね。つらいでしょう?」
「だいじょ、です」
「喉も腫れてそうですね。もう話さない方がいいでしょう。ここにいますから、何かあればお申し付けください」
「………ぅ」
すとん、と。
頷くより先に寝入ってしまった監督生。
頬も額も真っ赤だ。
人間の平熱は知っているが、それより遥かに高熱だった。
そっと布団の中に手を差し込んでみると、触れた監督生の手はひどく冷たい。
こんなに高熱なのにと驚いた。
すこし速い呼吸を聞きながら、ジェイドは鞄から本を取り出した。
一人用のイスをベッドサイドから少し離れたところに準備して腰を下ろす。
ページを半分過ぎた頃、監督生の寝息が変わった。ぐす、と鼻をすすり潤む瞳が何かを探している。どうしたのかと腰を上げれば、
「……い、じぇいろせんぱ」
覗き込んだジェイドを見つめた瞳から、溶けるように雫が眦を伝う。
ここにいますよと微笑めば同じように微笑みが返ってくると思っていたのに、監督生はくしゃりと顔を歪ませごめんなさいと呟いた。
どうしたんですか。
ごめんなさい。
泣かなくていいんですよ。
ごめんなさい。
「……ありがとうと言ってください」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼす瞳に笑いかけ、指でそっと拭う。
イスを少しだけ近付けた。
先輩。
はい。
ジェイド先輩。
ここにいます。
先輩。
側にいますよ。
「次に目が覚めても、ここにいますから」
寄り添うように、イスをベッドの脇まで引いた。
「……せんぱ」
「ここにいます」
「……うぅ、ぅ」
「また熱が上がったかもしれませんね」
「ぅ、」
「泣かないで。ここにいるから」
床に膝を着いて目線を合わせた。ベッドに肘をついて手を伸ばしジェイドは監督生を見つめたまま、今度は随分と熱くなった手を握り締める。
ふぅと安心したように笑みを浮かべた監督生を覗き込みながら、心細いのだろうかと、自身の腕を枕がわりに監督生と頭を並べ、至近距離でじっと見つめた。
薄い膜が張ったような焦点の合わない瞳が向けられる。ジェイドの姿を確認すると、監督生の身体がこちらを向いた。
握り合った手を間にして。
(この人は)
(例えここにいるのが僕じゃなくても、こんな顔をして眠るのでしょうか)
夜の闇が部屋を舐めていく。
監督生の寝息しか聞こえない静かな空間で、らしくないことを考えた。
汗で張り付く前髪を払ってやると、熱で溶けた瞳がこちらを見ていた。
瞼を下ろすように手のひらで覆ってやる。
温度が心地いいのか僅かに動いた監督生が手のひらに頬を寄せてきた。
そのまま手を滑らせ首筋に触れると、火傷するほどの体温。
晒された白い首筋は汗ばんでいて手のひらに吸い付くようだった。
「…………」
監督生の手が動き、首筋に差し込まれたジェイドの手に重なる。首筋と手のひらに挟まれじわりじわりとうつる体温は、何故かひどく居心地が悪かった。
先輩、と。
再び監督生が呼んだ。
乾いた唇は少し皮がめくれていて、いつもは色付いているのに今は白くなっている。
水が飲みたいと掠れた声が聞こえたので、クルーウェルからもらったスポーツドリンクを魔法で引き寄せた。グラスに移そうとしたジェイドを止めた監督生の手は、熱のせいか少し震えていた。
「……そのままで」
「噎せますよ」
軽く笑って抱き抱えるようにして起こしてやりながら、ペットボトルの蓋を開ける。グラスに注ぎ魔法でストローを出せば、胸元に寄りかかっている監督生が礼を呟いた。気にしないでと答えてやれば、預けられた頭の重みが離れていく。
「持っていますから、そのまま飲んで」
「……ごめんなさい」
善意に謝罪はいらない。こういう時はありがとうだけでいいと伝える。ふぅと息を吐いた監督生の白い唇から、ちらりと赤い舌が見えた。焦点が合わなくてストローの位置を把握できずに舌が、唇が彷徨う。小さく笑って先端を摘まんでその唇に優しく触れた。ジェイドの指と共にストローが弱い力で食まれる。じっと視線を向けていても、朦朧としている監督生は気付かない。
摘まんだ指先にスポーツドリンクの冷たさと、監督生の熱すぎる舌を感じた。なにも言われないのを良いことにもう少し飲んでは?と促し誘うと、監督生は素直に応じてまたストローを食む。冷たい飲み物に少しだけ正気を取り戻したのか、ぼんやりしていた焦点がほんの少しだけ合った気がする。
「……先輩の指……」
「ええ」
「……甘い」
それはスポーツドリンクの味だとあえて言わずにそうですか?と食まれていた指を自らの舌でぺろりと舐める。
「……甘いですね」
笑って呟けば、不思議ですねと笑みを見せた。それから瞼を閉じてまた頭を預けてくるので、グラスを置いて支えるように肩を抱いてやる。小さな手が存在を確認するように泳ぎ、それからジェイドの制服を弱く握った。先程は居心地が悪かったはずのうつる体温が心地いい。細い肩を抱き締めたままゆらりゆらりと身体を揺らせば、聞こえる呼吸音が規則的になる。
暫くそうして、なにも考えずにただ呼吸を聞いていた。
カーテンを引かれた窓の外には、少し欠けた月がこちらを覗く。
白銀の光は静謐を浮かび上がらせ、反対側の壁に映った影は優しく揺れる。不思議と退屈ではない。
頬にかかる髪を指先で払い、そのまま手のひらを充てる。まだ熱は高い。
頬を包んだまま親指でなぞった唇はかさついているが柔らかくて、ジェイドの好奇心を刺激する。思わず顔を寄せてその柔らかさを直に味わいそうになり、触れる寸前で思い止まった。
「……じぇ、どせんぱ」
一粒の涙が落ちる。
戯れも度が過ぎると身を滅ぼすのだと苦く笑って、ここにいますと繰り返す。
「また目が覚めても、ここにいるから」
もう一度じっと監督生の顔を見つめ、その細い身体をベッドに横たえた。
『そこまでする義理はないでしょう?』
アズールに連絡を入れると、思った通りそう言われた。
『今は熱が下がっていなくとも、クルーウェル先生が準備した薬を飲ませたんですよね?じゃあもう貴方がそこにいる理由はないのでは?……は?高熱に魘されるかわいい後輩を一人にできない?せめて熱が下がるまで?は?明日も平日なんですけど?お前オンボロ寮から登校する気か』
拡張魔法で自分の耳にだけ聞こえるようにして、ベッドに腰掛けたジェイドは眠る監督生の髪をすいている。
アズールの言う通り、このまま寝ていれば熱は下がるだろう。ただ貰った薬は市販のもので、魔法薬の類いではない。だから即効性がないのですぐには下がらない。もしかしたら夜中にまた上がるかもしれない。
その時涙を拭うのは、誰?
「オクタヴィネル寮の副寮長である僕が、約束を反古するわけにはいきませんから」
例え自分ではない誰かにも同じ事を呟くのだとしても、それはもしもの話。今ここにいるのは、その唇が呼ぶのは、涙を拭うのは、自分──ジェイドだけなのだ。
そうでしょう?と呟いた唇は、流れるように眠る監督生の額に落とされた。
「おや」
軽やかなリップ音にこれは予想外ですと自分の口元に手を添え目を丸くしてみたが、電話越しにアズールが「なんの音だ何してるんだお前」と喚くので、浸る間もなく笑いが込み上げる。これ以上寝込みを襲うような真似はしませんよと指を鳴らして電話を切った。怒濤のように着信が入るが画面を伏せれば、再び部屋は静謐さを取り戻す。
ジェイドは小さく笑みを溢すと、自身が口付けた柔らかな頬に指を這わせた。
カーテンの隙間から差し込む光が瞼に触れ、ゆっくりと目を開ける。
見慣れたオンボロ寮の自室で目覚めた監督生は、少しの怠さを纏いながら上半身を起こした。
まだ少し喉の調子はいまいちだが昨日より体は随分軽い。しかし気だるさが残るのでまだ熱はあるかもしれない。不快さの絡む喉を気にしながら視線を巡らせると、ベッドのすぐ脇に置かれた一人用のイスに手紙を見つけた。
開けばキラキラと光りが溢れ、文字が踊り出す。
『おはようございます』
ジェイドの声が再生されて、そういえば先輩が薬を持ってきてくれたなとうろ覚えながら思い出すのだが、如何せん高熱のため記憶が曖昧だ。先輩はいつまでいたんだろうかと首を捻る間にも、鼓膜はジェイドの声を拾う。
『だいぶ熱が落ち着いたようなので寮に戻らせていただきます。勝手ながら朝食を準備しておきましたので、起きられそうなら少しでも食べていただければと思います。あぁ、対価のご心配はいりませんよ、貴重な体験をさせていただきましたから。……何かあれば僕に連絡をくださっても構いません。お大事にしてください。──ジェイド・リーチ』
お手本みたいに綺麗な文字だ。名前の下にあるのは連絡先だろう。不思議な手紙をもってキッチンに向かうと、天井をぐるぐるしながらゴーストたちが声をかけてくれた。
「もう起きても大丈夫なのかい?」
「昨日より顔色がいいね」
「ほら、人魚の子が作ってくれたよ」
「保温魔法をかけてくれたみたいだね」
「多めに作って、残りは冷蔵庫にいれといてくれてるよ」
優しい子だねぇとぐるぐる声が回る。
ダイニングテーブルに置かれた食事は魔法のお陰か温かな湯気が泳いでいた。
熱を計るとまだ微熱が残っているようだ。
とりあえずはまず先にクルーウェルに連絡をいれよう。きっと無理はするなと言われるだろうけど。
それからジェイドにお礼のメールを送って、登校できるようになったらまた改めてお礼をしに行こう。
監督生は温かいスープを皿に取り分けると、イスに座って手を合わせた。
『僕が風邪をひいたら、貴方が看病してくださいませんか?今度は看病される側の経験がしてみたいです』
クルーウェルに連絡すると、微熱があるなら今日も休めと言われてしまった。まぁそうだよなと思いながらその旨と昨晩のお礼を伝えるためにジェイドにメールを入れた。ついでに何時頃までいたのか聞いてみたのだが、それに対しての返事はなかった。彼が風邪をひくことなんてあるのだろうかと、無機質な文字の羅列を目で追いながらスープを飲み下す。
万が一彼に風邪がうつれば別だが、完璧を絵に描いたような人だ、うつったとしても自ら弱みを晒すような真似はしなさそうだけど。それより「貴方からうつりました」と何かしらの請求されるのが怖い。
ふぅと吐いた息で踊った湯気は、くるくると宙に溶けていく。