林檎の樹の下で 気が付いた時にはもう、言葉が唇からこぼれ落ちていた。
「貴方が、好きです」
それが呪いの言葉になるということは、ジェイドは分かっていた。分かっていたはずなのに、言葉が落ちた。
あ、と思った時にはもう目の前の少女は糸が切れた操り人形のように膝を着いていた。腰ほどの高さの窓枠を飛び越えたが間に合わず、ジェイドの手が届くより先に、彼女の身体は固い地面に崩れ落ちた。
その際小石でも飛んできたのか、それとも虫でも当たったか、監督生を呼び叫ぶジェイドの頬にぴりりと静電気のような痛みが走るのを感じた。しかしそれは一瞬のことで、痛みと気付く余裕もないまま、駆け寄る風に浚われ、消えた。
──やっぱりやりやがったな!
オクタヴィネル寮内の空き部屋の一室で、普段なら決して口には出さないような類いの言葉を吐いたアズールは目の前の男、ジェイドをぎろりとねめつけた。
腸が煮え繰り返るようなこちらの心情とは裏腹に彼はひどく静かな横顔をしている。この状況下において感情の全てを削ぎ落としたようなそれは、正直とても場違いすぎて気味が悪い。なにかを思案しているのか、はたまたなにも考えていないのか。しかし例え前者であってもこのバカウツボの胸中なんぞに興味はない。推して図るべきものなんざマドル一枚、いや、針の先程にもないのだ。そして万が一にも後者だった場合、オクタヴィネル寮長としてでも幼馴染みとしてでもなく、いろいろな事情や状況を知る一人の男としてその無駄にでかい巨体の隅々まで隙間なく恨み辛み妬み嫉み罵詈雑言の限りで埋め尽くして罪悪感というものを知らしめてやりたい。けれどジェイドを責めたてる権利があるのはアズールではないので、とりあえず口汚い言葉を吐き捨てるだけに留めた自分を褒めたい。了解を得られたのなら一発くらいぶん殴りたいが。
怨念のこもった眼で睨み付けられても微動だにしないジェイドは、椅子に座って備え付けのベッドに視線を向けていた。そこは規則正しく上下していて、ベッドの中に誰かいるのが分かる。この現状を知らぬ者が見ればよくもまあこの状況で呑気に寝ていられるなと呆れるところではあるのだが、その人は──オンボロ寮の監督生は『強制的』に眠らされているだけで、なんの非もない。
そう、監督生は眠らされているのだ。
気味が悪いほど静かな横顔をしているジェイドが、呪いをかけたせいで。
ジェイドと監督生は、ただの先輩後輩というには違和感のある二人だった。
二人の間に流れる空気は誰がどうみても『特別』で、しかし下世話な噂話の標的にならなかったのは奇跡に近しいことだった。藪をつついて蛇を出すのを恐れていたのもあるだろう。ジェイドは監督生と他の生徒が楽しげに雑談しているとその巨体を無理矢理捩じ込んで割り込もうとするし、休日の午後には大なり小なりの手土産をもってオンボロ寮に足繁く通ってみたり。監督生も監督生で合同授業の時は必ずジェイドとペアを組み、ラウンジに来た際にはジェイドが終わるまで掃除を手伝いながら待っていた。
それなのに二人の関係性を尋ねると「おや、寂しいんですか?」などと逆にからかわれたので話題を反らすなと言ってやれば、
「今はその時ではないんです」
と、珍しくどこか拗ねたように言っていた。そんなの、認めているようなものなのに。
彼の本質を知るアズールにとっては、その穏やかさは薄気味悪いものだった。あの極寒の深海を生き抜いてきた生き物が、苦痛に歪む他人の顔に愉悦を滲ませるような化物が、そんな水溜まりみたいな環境で落ち着くはずがない。
だから今回ジェイドが起こした騒動に「ほらみたことか」と内心呆れてしまった。いや、腹が立った。
監督生のことは憎からず思っているアズールだ。ものすごく親しいわけではないがそれなりに心を許していた。打算なしに接してくる後輩が可愛くないはずがない。だからこそジェイドが監督生を特別視し始めた頃にはそれとなく彼女に声をかけ、警戒を促し、場合によっては無償で相談に乗ると伝えた。
しかし彼女は少し困ったような表情で「勘違いしちゃうからあんまり言わないでください」なんて笑っていた。
今にして思えば、その時にはもう、彼女の中でジェイドは誰よりも特別だったのだろう。よりによってあの性悪ウツボかと舌を打ってももう遅い。惹かれてしまったものは仕方がない。外野が口を挟んだところでどうにかできる問題ではない。
曖昧だが火を見るより明らかな感情を互いに認識しながらも、それで良しとしていたのだろう。監督生にはここではない世界に故郷があるし、あのウツボには臆病なところがある。
しかし、それでも、だ。
その『呪い』を発動させただろう『言葉』は、このタイミングではなかっただろうが。なにがウツボは待つのが得意だ。最悪のタイミングだ。これではあまりにも監督生が不憫でならない。待っていただろうその『言葉』がトラウマにでもなってみろ。
だからジェイドに問うた。
自分が何をしたか分かってるのか、と。
「僕はただ、愛しただけです」
静かすぎる横顔で呟かれた言葉に思わず殴りかかりそうになった。馬鹿野郎、なにが愛だ。ぐぎぎと噛み締めた奥歯が鳴る。手のひらによく馴染んだ蛸のヘッドも割ってしまいそうだ。お前のそれは暴力だぞと言いかけて、
「あの木の下で笑う彼女が、とても美しかったんです」
鼓膜を揺さぶる声の穏やかさに、それ以上なにも言えなかった。
事の発端は、監督生が迷子の妖精を助けたことに起因している。
枝の間に挟まって抜けられない妖精を見つけ、その子を助けようとして枝を折ってやったのだが、それがいけなかった。なんせ彼女が折った枝は樹齢千年だか二千年だかの林檎の樹。しかも『いわく』付きの。そんなものを生徒たちの目に触れるような場所に置いておくならそれなりの対処しとけよと思ったのだが、如何せんここはNRCで男子校。その『いわく』とは本来無関係な場所だったからこそここを終世の場所に選んだと聞いて、あの人はどうしてこうもトラブルに巻き込まれるのかと監督生を憂いてしまった。しかしながらその原因が監督生の生まれながらの『性』と、彼女が特別視してしまった相手がジェイドだったからこそ今回の騒動は起きたのか。それとも相手がジェイドではなければ起こらなかったのか。今さら『もしも』を考えても仕方のないことだが、この学園通う生徒ならば一度は耳にしたことのあるあの林檎の樹の話をジェイドが知らないはずがないので、結局全てはジェイドのせいであると思いいたってアズールは無理矢理納得した。
監督生はただ、妖精を助けただけ。そしてジェイドがあの樹の前で愛を囁かなければ、なんの問題も起こらなかったのだ。
樹だろうが物だろうが、それなりの年数を生きれば魂は宿る。そうじゃなくてもこの世界は魔力で溢れているのだ、千歳を越えた林檎の樹に何もないはずはない。歌って踊ればまだ可愛い。ただ、この樹はそうじゃなかった。その場から一歩も動けず人間たちの営みをただ眺め、己に宿した果実を鳥に喰われ雨風にさらされ、孤独に震える。
だから『呪う』。
薄桃の花弁をこれ見よがしに咲かせて誘い、歌うように呪詛を吐く。
さぁ、愛を囁け。
美しい、美しい、愛を。
目も眩むほどの愛を見せてくれたなら、望み通り、永遠を。
ほしいのは、永遠でしょう?
ほしいのは、変わらないものでしょう?
あげる。あげる。あげる。あげる。
千年の時を生きたこの身ならば叶えられる。
──その樹の下で愛を囁きあった男女は死に至る。
「あの林檎の樹には、もうほとんど呪う力は残っていなかったんだろうな」
クルーウェルが一通りの処置を終えて、眠る監督生を覗き込みながら肩を竦めた。
「魔力に耐性のある奴ならなんでもない程度のものでも、監督生には効き目がある。微かに妖精の魔力も感じるが、倒れた時に怪我をしなかったのはそのお陰だろう。二、三日眠りにつく程度で大きな影響はないだろうが、念のため見張っておけ」
「あぁ、だからその愛を永遠だと信じた恋人たちが周囲に引き裂かれるくらいならと、あの樹の下で愛を囁きあったそうだ」
「嬉々として呪いを受けにくるなんて、まったく意味が分からない」
室内にいるジェイドと監督生。
──ジェイド先輩、あれ……。
──あぁ、妖精が。
──ちょっと助けてきます。
小走りで駆けていく彼女を目線で追った時、その先にある樹が例の林檎の樹だと気付いたが特に止めることはしなかった。少しぼんやりしていたのかもしれない。揺れる彼女の髪を見て、つい先程までみつめあっていた瞳を想って。
あぁ、いとおしいな。
そう思った瞬間、言葉がほろりと溢れてしまった。
だから樹は、呪うのだ。
呪われろ(どうか)。呪われろ(どうか)。
呪われろ──どうか。
泣かないで。悲しまないで。
どうか、美しいまま、永遠に。
その愛は永劫だと、信じたままで。
別離に嘆くあなたたちを見るのはつらいから。
呪いは祝福。
祝福は呪い。
未来を奪う所業だと分からないまま、悲痛な祈りは逆転する。
泣かないで。泣かないで。
どうか、美しいまま、永遠に。
「利用しました」
「言葉にするのが怖かったんです。独り善がりだったらと」
「証拠がほしかった。今僕らの間にあるのは確かに恋だという証拠が。」
「だけどあの瞬間は、彼女がこちらを振り向いて笑ったあの瞬間は」
あの木の下ではにかむ彼女は美しかった。
「呪いの話を忘れてしまうくらい、ただ、好きだと思ったんです」
掬い上げた手のひらに、口付けた。
「お前は」
「はい」
「一度監督生さんにこっぴどく叱られた方がいい」
「叶うなら、ですね。この人、僕に甘いんです」
「分かってて甘えてるならタチが悪い。そして監督生さんは趣味が悪い」
「おやおや、この人には僕が適任かと」
きっかり三日後に目を覚ました監督生が見たものは、それはそれは綺麗な土下座をするアズールと、その隣でにこにこと笑顔のジェイドだった。
「この度は当寮生であり副寮長であるジェイド・リーチが多大なるご迷惑を」
「あ、アズール先輩、やめてください怖い」
「怖いことなどありませんよ」
「お前も!頭を!下げろ!」
ベッドサイドに置かれているのは、雪深い村の林檎のランプ。ゆらゆら揺れる灯りを瞳に映しながら、笑みを浮かべた監督生がふぅと息を吐いた。
「──次は成功するといいな」
ぽつりと落とされた言葉を、掬い上げるものはいない。