いただきます、恋心。ー召しませ恋心・番外ー 舐めたら甘そうな、柔らかいチョコレート色の瞳が今は凄絶な色気を放ってエマを見下ろしている。
それはまるで洋酒入りのショコラのようで、目を合わせているだけで、くらくらと酔ってしまいそうな気分を覚えた。
しかし、そんなどこか酩酊するような気分の中で、脳の奥が絶えず警戒アラートを鳴らしている。
「お前ってたまに、すげえ物分かり悪いのな」
熱っぽい眼差しの奥、苛立ちを滲ませた鋭さが光って、棘を含んだ声がエマに向かって突き刺さる。
たらりと米神を伝った冷や汗に、エマは自分の逃げ場が無いことを悟った。
「エマさん!」
きゅるりと澄んだ鳶色の瞳。
人懐っこく破願した青年に、エマも釣られるように微笑んだ。
「クウガくん、久しぶり。最近はどう?」
「つい先日、オスカーさんが持ち帰ってきた未知の食材を調理したところ、鍋が爆発しました!」
「どういうこと……?」
想定外の返答に困惑しつつ、だから厨房の壁が一部焦げていたのか……と納得する。
にこにことエマを見上げる青年の名はクウガという。とある理由でエマが連盟に要請して新たに配属された、ガストロノミー常駐のギルドキーパーだ。
そのとある理由――エマの悩みについては無事に解消されたのだが、存外彼は優秀で人当たりもよく、ギルドメンバーとも仲良くなれていたようなので、そのままガストロノミーの専属キーパーを継続してもらっていた。
「エマさんはしばらく居られるんですか?」
「うん、二週間くらいは居るかな」
「よかったです! 一時期忙しそうで、全然来てくれなかったので……」
「そ、それはごめんね」
それには理由があったのだけど。まさかわざと来るのを避けていたなんて言えないし、ガストロノミーに来なくて済むように君をスカウトしたんだよ、なんてことは更に言えない。
今はむしろ、些細な理由をつけてでもここに来たいくらいだけど……それもわざわざ、言うことでは無い。
「クウガ、少し手伝えるか?」
エマとクウガが二人でしばらく話していると、コックコートを着た一人の男性が話しかけてきた。
どうやら厨房の人手が足りていないらしい。「すぐ行きます!」と返したクウガに続いて、エマでも手伝えるならと声を上げる。
「あの、私でもお手伝いできますか?」
「ああ、エマさん……」
微笑んでエマに目を向けた男性が、しかし何故かすぐに微妙な表情になる。あれ? と思っていると、男性は軽く首を横に振った。
「……いや、クウガだけで足りるので。お気持ちだけいただきます」
「そうですか……」
そう言い切られてしまうとちょっぴり寂しい。
ついしょんぼりしてしまったエマに、男は僅かに苦い色を浮かべた。
「あなたには、あなたにしか出来ない仕事がありますから」
「え?」
「クウガ、行くぞ」
「はい! じゃあエマさん、また後で!」
にこりと笑ったクウガと男が、エマに背中を向けて去っていく。なんだかその姿が飼い主とワンコのようで微笑ましくなりながら、本当に随分と打ち解けたみたいだと、微笑ましさの中にやっぱりほんの少しばかりの寂寥を感じていると、不意にずしりと頭の上に重みが乗った。
「おはよう、ダーリン」
「……!」
気だるげな色気を孕んだ声に、ピキリと体が固まる。
恐る恐る振り仰ぐと、声とは裏腹、どこかじっとりとした視線がエマを貫いた。
「えっと、おはよう、クーヘン」
「おはよう」
「……なにか怒ってる?」
思ったまま零すと、瞳孔が猫のように細まる。
そして、均整の取れたしなやかな腕がエマのお腹に回り、躊躇いも無く抱きしめてきたものだから、エマは「ぴゃ」と情けない悲鳴をあげてしまった。
「ぴゃってお前」
「ちょっとクーヘン、離して! 人に見られる!」
「見せとけば」
「やだよ!?」
はーなーしーてー! と真っ赤な顔で抗い続ければ、少しだけ拘束する腕が緩んで。
ほっとして急いで抜け出したエマは、何故か憮然としているクーヘンを困り顔で見上げた。
「どうしたの、クーヘン」
「別に。俺のメッセージ無視しやがってとか思ってないけど」
「え!?」
どことなく拗ねた様子のクーヘンに驚いて慌ててキーパーズボードを取り出す。見ると確かに「今日からこっちだろ? 迎えに行く」と早朝にメッセージが届いていた。
「ご、ごめん、バタバタしてて」
「一か月ぶりに会えるってのに薄情な奴」
「うっ」
にやりと口の端を吊り上げられ、揶揄われてるのは分かっているけど言い返しにくい。
「……明日また、迎えに来てくれる?」
恋人になってからのクーヘンは前までよりも素直で、甘え上手な一面がある。対恋人用のクーヘンのその態度によく振り回されていたりするのだが、だからこそきっとここは、エマからも甘えるべきだ。
そう思って控えめなおねだりの言葉を紡ぐと、チョコレート色の双眸はしばらく観察するようにエマを見つめ――
「ん、ちゃんと部屋で待ってろよ」
ぽん。優しく頭を叩かれて、どうやら正解だったらしいとエマは胸を撫でおろした。
†
その日の夜、エマのプライベートルームに珍しい来客があった。
お風呂を済ませて、濡れ髪をタオルドライしながらスキンケアに勤しんでいたエマの耳に届いた軽いノック音。
「? はーい!」
エマは急いで乳液を肌に叩き込んでからタオルを首にかけ、軽く髪をとかして玄関に向かう。そのまま扉を開けようとして、思いとどまった。
「どちらさまですか?」
相手を確認せず開けるなとクーヘンに言い含められていることを思い出したのだ。
ああ見えてちょっと過保護なところあるんだよね、なんてクーヘンに聞かれたら呆れた顔間違いなしなことを考えながら待っていると、扉の向こうから返ってきたのは、良く知った声だった。
「エマさん、クウガです!」
「クウガくん?」
きょとりと瞬いて、扉を開ける。
そこには私服姿のクウガが爽やかな笑顔で立っていて、けれど湯上り姿のエマに少しだけ目を丸くした。
「わ、ごめんなさい。タイミング悪かったですね!」
「ううん、平気だよ。何かあった? 中入る?」
つい流れるようにそう言ってから、しまった、と思う。いくらなんでもこの時間に、恋人以外の男を部屋の中に招くことが良くないことはエマにも分かるから。
「いえ、俺はこれを返しに来ただけなのでお構いなく」
けれどクウガがすぐに断ってくれたので、エマは命拾いした。危ない危ない。内心で額の汗を拭いながら、クウガが手提げから取り出した何かに視線を落とす。
「あ、これ」
「ずっと借りっぱなしですみませんでした! 忘れないうちに返しちゃいたくて」
「そっか、ありがとね」
世界中の植物について細やかに記されているその図鑑は、ガストロノミーに居ると何かと役に立つ。
そういえばクウガくんに貸してたんだった、と頷きながら受け取ると、エマを見下ろしていたクウガの指がふと、まだ水分を含むエマの横髪に触れる。
「クウガくん?」
人差し指と親指の先で、摘まむように髪に触れられたエマはきょとんと顔を上げた。すると、どこかぼんやりとしていたクウガの瞳が、ハッと瞬いて。
「す、すみません! ここで引き止めてたらエマさんが湯冷めしちゃいますね。俺はもう失礼します! 髪、きちんと乾かしてくださいね!」
エマが口を挟む隙も無く、一息に捲し立てたクウガがほんのりと頬を染めて走り去っていく。
去り際の照れたようなはにかみ顔に、エマは。
「お母さんみたいなこと言うな……」
「どう見てもそうはならねえだろ」
「!?」
すぐ隣から声が返ってきて、エマはぎょっとする。
見上げた先でぱちり、エマを責めるような視線とぶつかった。
「クーヘン、いつから」
「お前があいつを部屋の中に誘ったところから」
「!」
最初からである。しかも、エマが唯一見られたらまずいかも、と思っていたシーンを的確に指摘されて、エマは若干挙動不審になった。
「あのでも、何か緊急かなと思って、それに、ちゃんと誰が来たかは確認してから開けたよ……?」
咄嗟に言い訳してしまったエマに、一瞬、クーヘンは黙る。
「お前って」
そして薄く開かれた花びらのような唇からは、温度の感じない、少なくとも甘やかすつもりは一切無いであろう声が押し出された。
「たまに、すげえ物分かり悪いのな」
玄関の扉を開けっ放しにしていたことが仇となった。
抵抗する間もなく部屋の中に押し入られたエマは、いつの間にか立場が逆転していて、今はクーヘンに手を引かれている。
「あの、クーヘン……わっ」
掴まれていた手首を緩く引かれ、リビングのソファーに身が放り出される。
エマが身体を痛めない程度の勢いで沈められ、すぐに上から大きな影が降ってきた。
「こういうことされたら、どうすんの」
エマのお腹を跨ぐように乗り上げ、細い手首をソファーに縫い付けたクーヘンが静かに問う。
「……っつー注意をずっとしてきたつもりだったけど。お前は身をもって知らないと、駄目だな」
くつり。喉の奥で笑ったクーヘンが、何の前触れもなくエマの唇を塞いだ。
「んぅ」
鼻から声が抜けてしまって恥ずかしい。しかしその恥ずかしさは、すぐに吹き飛んでしまった。性急に割り込んできた、火傷しそうなほどの熱によって。
「んん……!?」
ぬるりと咥内を暴れまわる軟体動物。
分厚い舌が重なって、エマの小さなそれをひきずりだして、淫猥な水音を生む。
「っ、」
あまりの展開に逸らそうとしたエマの顔は、大きな両の手のひらに挟み込まれ、固定されてしまった。そのまま耳ごと包まれて、クーヘンの手と自分の鼓膜の間で、淫靡な音が反響する。
「ぁっ……」
為すすべもなく引きずり出された舌がクーヘンの薄い唇に挟まれて、エナメル質で軽く噛まれる。
呼吸が苦しくなって、心臓が破れそうなほど痛くて、ぞくぞくと肚の奥に溜まっていく快感に、エマの目尻にじわりと涙が滲んだ。
やがて、一方的な蹂躙の限りを尽くされたエマの舌は、ぐちゅりといやらしい音を立てて解放される。
息を整えることに必死で何も言えないエマを、クーヘンはやっぱり機嫌の悪そうな顔で見下ろして。
「心配なんだよ」
ぽつりと落とされた言葉に、クーヘン以外とこんなこと、するつもりなんてないのに、そう思ったけれど。
きっとクーヘンが言いたいのはそういうことでは無いのだろう。幾分か気にし過ぎではと未だに能天気なことを考えながらも、エマはまた降り注いできた端整な顔を受け入れるべく、瞼を閉じて、薄く唇を開いた。