みんな知ってた 現在の時刻はもう二十三時――夜も随分と更けた頃、家主がいないニキフォロフ邸のリビングには、寄り添うふたつの影があった。
「ヴィクトル遅いねえ、マッカチン」
「わふ……」
ふわふわのブランケットを肩から羽織り、ソファーに座る勇利が時計を見上げながら呟く。そんな青年の膝の上、溶けるように顎を乗せて伸びている大きな毛玉は、仲良しのマッカチンだ。
「ヴィクトルは、先に寝てて良いって言ってたけど……」
遅くなると思うから、先にご飯食べて寝ててね――と恋人であるヴィクトルから連絡があったのは約四時間前。勇利は、深いため息をついた。
「ヴィクトルの顔見て、安心したいよね。マッカチンも、いつもこんな気持ちでヴィクトルのこと待ってたの?」
「ワフッ」
気弱な問いかけに凛々しく応じるマッカチンの声。身体を預けてくれる老犬のやわらかな背中に、青年は小さく微笑みながら顔を埋めた。
「……今日はなんか落ち着かないんだ」
何かトラブルがあったわけではない。大きな悩みごとがあるわけではない。けれど、今夜の勇利の心はどこかざわついていて、今この瞬間に、たまらなく恋人の体温を求めていた。
「ハグしてほしいな、ヴィクトル……」
誰も聞いていないのを良いことにぽつりと呟く。二人が恋仲となってから、一体どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
いつの間にか、ヴィクトルとのスキンシップは、勇利の日常になくてはならないものになっていた。嬉しい時はハグしたいし、悲しいときもハグしたい。そっと目を閉じれば恋人の笑顔が脳裏に浮かび、余計にさびしい気持ちになってしまう。
「……」
不意にむくりと起き上がった青年は、唇を尖らせながらスマホのメッセージアプリを起動させた。そして、目当てである恋人のアイコンをタップし、素早くメッセージを打ち込む。
――『ヴィクトル、何時くらいに帰ってくるの?』
――『はやく会いたいよ』
「送信……!」
普段の彼であるならば、羞恥心が勝って伝えることがないであろう愛の言葉。臆してしまう前に、勢いで送りつけてしまう。
「あー! 送っちゃったよ、マッカチン!」
「……?」
耳まで真っ赤にした勇利が、腕の中のマッカチンをワシャワシャとかき混ぜた。何事が起きたのかと不思議そうなマッカチンが、ゆっくりと身を起こす。向かい合うふたり。
「わがまま言っちゃった。こんなこと言ったら、ヴィクトル困らせちゃうかな」
言葉とは裏腹に、輝くアーモンド色の瞳。少しだけ眉を下げた青年が首を傾げた――その次の瞬間だった。
ピコン、とメッセージアプリの通知音が鳴る。早速、恋人からの返信かと心を弾ませた勇利の顔色はしかし、その直後一気に青ざめていく。不規則な通知音が止まらないのだ。震える指で、慌ててポップアップを開いた。
――ピチット『ユウリ、これヴィクトルあてのメッセージじゃないの? 誤爆? でも、相変わらず仲良さそうで良かった!』
――クリス『こんなに熱烈なメッセージを送ってくれる恋人がいるなんて、ヴィクトルは幸せ者だね』
――ギオルギー『愛だな……』
「あああ……っ!」
口元を押さえ、膝から崩れ落ちる勇利。
「嘘でしょ。まっ、間違えた……!」
ヴィクトルのアイコンを確認して送ったつもりだったが、どうやら仲が良いスケーター達のグループチャットへ誤ってメッセージを送ってしまったらしい。少なくとも、ピチット、クリス、ギオルギーの三人には恋人への睦言を見られてしまった。急いでメッセージを取消したが、それで事実が消えるわけもない。
「……しん、じられない……どうしよう、」
激しく動揺した勇利が呻きながら頭を抱えていたそんな時、玄関から大きな物音が聞こえた。不穏な気配にぴくんと耳を動かし、顔を上げるマッカチン。
次いで響いてきたのは、慌てたような誰かの足音。重たく駆け回るようなリズムが近づいてきて、リビングの扉が勢いよく開かれた。
ロングコートの裾をひらりとなびかせ、派手に登場したのは――髪を乱し、大きく息を弾ませたヴィクトル・ニキフォロフその人であった。明るく輝くアイスブルーのまなざしが、勇利とマッカチンをとらえて、笑顔になる。
「ユウリ! メッセージ見たよ! おれも早くユウリに会いたかった……!!」
まるでミュージカルのように両腕を広げた男は、うずくまる恋人の身体をふわりと抱きしめた。
「おれが居なくて寂しかった? もう帰ってきたからね、大丈夫だよ。マッカチンも、いい子でお留守番ありがとう」
「ワフッ」
腕の中に包みこんだ青年の背をそっと撫でるが、されるがままの恋人はうつむいたままだ。
「……ユウリ? どうしたの?」
優しい声でヴィクトルがそう問いかけた、その次の瞬間――勇利が勢いよく顔をあげた。真っ赤な頬に、大きく揺れるアーモンド色の瞳で凍えるほどきつく恋人を睨む……隠しようもない、怒りの感情。
「もう! 全部、ヴィクトルのせいだよ! ヴィクトルが早く帰って来ないから……!」
「え? あっ、メッセージのこと? 間違ってグループチャットに届いてたよね。全然気にしてないから大丈夫だよ」
「僕が気にするんだってば!」
「おれは嬉しかったよ。あれは本音でしょ?」
「それは――そう、だけど……」
「じゃあ、何の問題もないよね!」
色恋沙汰に関して日頃はクールな恋人の言葉に浮かれているのだろう。完全なる勇利の八つ当たりであったが、理不尽に何を言われようともヴィクトルの顔にはしまりがない。
「愛してるよ、ユウリ! ずっと一緒にいようね」
「もうヴィクトルなんか、知らない! はーなーしーてーよ! あっ、マッカチン、助けて!」
「ワウッ……!」
にこにこと微笑むばかりで話にならないヴィクトル。きつく閉じ込められた恋人の腕の中から逃げ出そうと暴れる勇利。しかし、青年の懇願に返事ばかりが勇ましいマッカチンは、くるくると楽しげにふたりの周りを走り回るばかりであった。
おしまい