「桜、お醤油取って」
姉さんの声が聞こえると、キッチンに立つわたしはすぐに彼女のいるテーブルへと振り向いて、彼女の望むものを差し出すことに成功した。迅速な対応は人を少しだけ優しい気持ちにさせるという経験則がそうさせたのだけれど、姉さんは瞠目しながら礼を言った。
「ありがと。びっくりするぐらい速かったわね」
「いいえ、速いというより、きっと姉さん、もうすぐお醤油を欲しがるんじゃないかって思ってたからです」
「じゃあ、今か今かと待ち構えていたってわけ?」
「はい、要はタイミングです。段々、わたしにも姉さんのことわかってきたんです」
「そう、よくわかるのね」
話しながらエプロンを脱いで、畳んで置いた。テーブルを挟んで姉さんと差し向かいに座る。箸を割るとともにわたしはにこりと微笑んだ。
「ええ。この小エビの和え物は、ちょっと甘いみたいなので。かけた方が美味しいかなって」
「ふうん。……桜はかける、お醤油?」
醤油差しが細い指によって机上をこつりと叩かせられる。なかの醤油がゆらゆら揺れる。わたしは目を細めながら笑いかける。
「はい、ありがとうございます」
昼の柔らかな日差しの中での食卓は、たったひとりしか囲む相手がいなくてもわたしを幸福な気分にさせるから、鈍くさいと言われ慣れたわたしのような人間にも、いつもより快活さを増させる。そのような心理には無関係なのだろう、常に明朗快活な人は、向かい合ったわたしの藤色の瞳に対して勝気そうに微笑んでいる。包み込むような愛情に縁遠いわたしはその緩んだ目元に慈愛を見るのだ。
わたしたち姉妹が穏やかに食事をするここは、わたしの唯一の居場所だった衛宮のお屋敷、ではない。あそこには今でも先輩が恙無く暮らしているはずであり、それをからかいつつ支えている彼の姉妹も頻繁に訪れているのだろうけれど、わたしが今住んでいるのは懐かしい生家である遠坂の家だ。壁の赤煉瓦は色褪せてもなお気高く、その古城じみた美しい外観は、ノスタルジーではなく甘い憧れにわたしを浸らせた。
姉さんはわたしを受け入れてくれたのだ。それはついこの間の、全てが終わった春のこと。忌まわしい魔術に蝕まれた体はすっかり綺麗になったと教えられた。間桐の魔導は廃絶したのだ。
何だかよくわからないけれど、かねてからロンドンにて提起されていた冬木の問題を解決するために、間桐の調査が行われていたのだそうだ。本来、魔術師は互いに干渉しない。調査は微に入り細に入り、人喰らいという家の習わしへと辿り着いたのを口実に、冬木に根を下ろして数百年というわたしの養家は暴かれることとなった。最初、他家のテリトリーに踏み込むのを躊躇していたらしい姉が、間桐の家を全て壊すことに決めたのは、あの忌まわしい地下の蟲蔵を一目見た時だそうだ。これはあってはならないものだ。毒を食らわば皿までだと、彼女は呪われた家系の痕跡を滅却した。そして、幾人もの魔術師に追い立てられて壁際に逃れていたものの、彼らの闖入の意味も何もかも知らない、そんな気持ちで蹲っていたわたしの手を引いて、ぬるく柔い体で守るように抱いてくれた。見上げれば、わたしに笑いかけてくれる人が、わたしの前に再び現れたのである。
突然与えられた温もりの中、溢れた涙を恐れずに拭われる幸福を、長い間望み過ぎて、そんな夢が本当になったあの瞬間、水泡に帰したわたしの人生こそを思ったのだった。
*
ざあざあと耳に届く流水の音を聞くともなしに聞いている。
窓の外はいつの間にか暗い。
姉さんが入浴している間、わたしは遠坂家のアルバムに指を伸ばした。こうして安息を得た今ではゆうゆうと過去を振り返る喜びを噛み締められる。紙を捲っていけば夢のように、絵として切り取られた昔が軽やかに音を立てて駆けてゆく。写真は姉が自主的に取るようになった年頃、だいたい高校に入った後からのものが貼られていた。恐らくもっと古いアルバムもあっただろうけれど、姉がまず渡してくれたのは、わたしもよく知る姿が写っていれば楽しめるのではないか、という心遣いだと思う。
そのうちの一葉に目を留める。
それは姉さんが時計塔に登壇して数年、本格的に宝石剣の研究を始めた頃の、ライバルと夫とが姉を挟んで並ぶ、何かの記念写真のようだった。
金髪を巻いた豪奢なドレスを纏う女性と、性根の明るさと知性を伺わせる男性との、その真ん中に姉は立っていた。黒髪は東洋的な美を、青い瞳は西洋の燦きを、と象徴するような美しさ。そうやって何もかもを備えた完璧な淑女として、彼女はそこに写っていた。
高校を卒業したのち渡英した姉さんはあちらの国で名の知られた魔術師と婚姻を結んだ。二人の研究は祖来ぐっと進み、それらの成果は数年経つと生命としても結晶した。利発な女の子だという。姉に似た麗しい顔立ち、聡明な頭脳を、話に聞いただけで思い描くことができた。何しろそれは本当に姉と瓜二つな存在と思えたからだ。今日に至るまで、わたしは会うことができないでいるけれど、それは姉さんがわたしのそばに寄り添って、家から無理に連れ出すこともなく、家族の待つロンドンへの帰投を未だ果たさずにいるからだ。
「桜、何見てるの?」
振り返れば、わたしの座る長椅子の後ろから顔を出す姉が見えた。濡烏の髪をタオルで拭うさまに、笑って応える。
「姉さんにさっき貸してもらったアルバムです。一緒に見ますか?」
「あ、まだそれ見てたんだ。長風呂してたし、飽きちゃったんじゃないの? ここはもうあなたの家でもあるんだから、地下の研究室以外なら何でも弄って大丈夫よ。テレビ――は、ないけど」
姉は大の機械音痴だ。携帯電話こそようやく慣れてきて、危急の際には応じられるらしいが、今のところ、わたしが出先の姉からその電話を受けたことはないから、なるべく使用を避けているのだろう。その必要も無い時に手に余るものを扱おうとするよりは建設的だと思う。
「いいえ。ちっとも飽きません。わたしの知らない姉さんを知れるのは、楽しいですから」
「そう」
紅潮した頬を隠すように、姉さんは顔を背ける。もごもごと口を動かしてから、
「あなたも風呂に入ってきなさいよ。今日は寒いわ」
と、姉らしい強気な口調で言った。
「はい」
風邪を引かないように気をつけなさい、と言われる。家々によってこんなにも言葉の意味合いが違ってくるのかと、わたしはまた一つ実感した。間桐では体調を崩すと、面倒な生き物として粗略にされるだけであった。わたし以外の人が、わたしの為にわたしを気遣うことはなかった。
わたしは風呂場へ向かおうと椅子から腰を浮かして、アルバムを掲げながら姉に言った。
「あの、これ、部屋に持っていってもいいですか?」
「いいわよ。そんなもの、別に何にもならないと思うけど……あ、これ」
「え?」
傍に寄ってきた姉さんの手、その艶のある爪先が一葉の写真を示す。
「わたしが穂群原を卒業してすぐ後にアイツん家で撮ったじゃない。記念写真って言って、撮り手に回ろうとする衛宮くんを藤村先生とイリヤが引きずり込んで、タイマー、セットしてさ。もう随分と前のことになるわね。ほら、桜も写ってる――」
シロウの隣に立ちなさい、と、背中を押してくれた小さな手が、すっと思い出された。
全てを知っているような顔で元気よく動き回っていたあの少女とは、わたしが先輩と決別することになった後に会う機会がなく、どう暮らしているものかぼんやりと想像できるだけだ。
「皆、笑ってますね」
わたしまで、誰かの仕草に釣られたのでも、強制されたのでもなく、笑っている。まるで魔術師らしからぬ例えにはなるけれども、そこは魔法のような力を持った場所だった。
それは家人の御蔭だった。
特に、藤村先生の影響は大きかった。教師らしからぬ豪胆さと大人らしからぬ奔放さが、他人を笑顔にさせるのだ。本人は知らずにいただろうその優しさは、今思い出してもわたしの心に温もりをひととき取り戻させる。
同じ気持ちを抱いただろうと考えて姉を見ると、驚くほど厳しい顔をしていて、それから、「そうね」と言った。
何か光るものが目に浮かんでいるような気がして、姉の顔をじっと見た。 彼女の瞳は潤みをたたえているけれど、何も溢さないままだった。姉は口元をゆるめてわたしに笑いかけた。
「懐かしいわ」
わたしの知らない姉は、こんなところにもいたのだ。
臆病にも、何も訊けずにアルバムを抱えて部屋に帰った。姉はお茶を淹れる為にリビングに残った。廊下を進んだところで振り返れば、薄黄色の明かりがひとつのドアの向こうにだけ灯っているのが視認できる。きっと姉は、熱い紅茶を飲んだ後、春の匂いがしそうなあの写真に思いを馳せることだろう。いつも森閑としている屋敷の壁に、しめやかな音が伝っているように感じられる。聞こえないけれど、わたしにはどうしても姉が泣いているのではないかと思えた。
部屋に戻って、アルバムを寝台に下ろし、その白い天国に倒れ込む。柔らかなそれに受け止められて、布団の中に潜り込んでしまえば知らぬ間に朝が来るだろう。少し前では昨日も今日も明日も、何年経ってもまるで同じのどうでもいい日々を生きていたというのに、今のわたしの暮らしは変化に富んでいる。なにしろどこに行っても良いし、誰の顔色を窺って怯える必要もないのだ。
この部屋はわたしのものだ。一時期は、姉の一人暮らしには不要な家具を詰めた物置になっていたようだけれど、わたしが戻ると、すぐにそれらは取り除かれた。クロゼットにも箪笥にも、わたしの荷物を収めることができる。
棚から新(さら)の下着などを出し、纏めて洗濯籠に入れて、ベッドの前に戻って、風呂に入る前にもう一度見ようとアルバムを開いた。 アルバムのなめらかな表紙に指を這わせ、装丁をなぞっていくと、ぬるい温度に安堵を教えてもらえる。
二頁目に貼られた目当ての写真が、室内灯とスタンドライトの両方に照らされて眩い。
衛宮の屋敷を背景に、わたしたちは立っていた。
その写真を見た姉の心を焦がしたものはなんだったのだろうか。もう戻らない昔を惜しむ人ではないから、今もなお求めてやまない何かが写真に写っているというのだろうか。わたしの鈍くさい頭から正しい答えが出るようには思えないし、推察できるほど、姉とわたしの感情のあり方は似ていない。小首を傾げて、姉の思案を忘れることにした。
この写真が撮られた当時のわたしは、確か何も考えていなかったのだろう。柔らかな真綿にくるまれて眠る蛾の幼虫。大方が血縁関係を持たない人々との食卓を、わたしは進んで維持し続けようとした。積極的に生活用品を買い足して、埃が積もる前に掃除をした。そのような高校時代は、充実していたように思う。
姉と先輩とその姉妹が家から離れて後、わたしもまた卒業式を迎えた。少ない友人と後輩とそれから藤村先生が、わたしの為に涙を流したのが、そのすぐ先にあった長い奈落への下り坂を歩む羽目になったわたしの、餞であったのか。優しさは貴重な宝物だ。
アルバムの中で唯一、わたしの写ったその集合写真をもう一度見てから、そっと冊子を閉じて部屋を出た。
風呂場は姉のあとで温まっていた。浴槽に浸かっている時に感じる、眠ってしまいたいようなぬるい幸せは、ここ数か月ずっとわたしを包んでいる空気と同じものだ。おくるみに巻かれて寝る赤子そのもののように、ただそこで休んでいれば滋養を得られる。
「姉さんは、わたしを、大事にしてくれてる」
独りごちると、小声であったにもかかわらず浴室に反響して、恥ずかしい思いをした。