一対のばらとねどこ 王城近くに屋敷を買ったのは二十五の年だ。
それまでは王城に用意してもらった一室で過ごした。
宿屋の地下を出て城へ居を移す際、酒場の主人は頑張ってこいと背中を押してカブルーの荷物をすべてまとめてバックパック一つにしてくれた。元々そう荷物も多くないから、これがカブルーのもつすべてだった。
やってもらって当然だと思ってるだとか好意を無尽蔵なものだと思っているだとかなんだとか言われる部分が元パーティーメンバーに怒られる原因なのだろうが、人の好意は素直に受け取るに限る。
いつの間にかきれいになっていた部屋はもう帰る場所ではなくなるのだなと、感傷めいたものも覚えたが、忙しくなることがわかっているのはカブルーの気持ちを高めた。
ミルシリルのもとでたくさんの学問を修めたカブルーは、元来政治にも興味があった。
魔術はさして才能もなく、剣もミルシリル仕込みとはいえ剣豪にも剣聖にもなれそうにない。
幸いにも人の顔や名前や人々の関係性を覚えるのは得意だから、後はもっと知識と実践経験があれば使い物にはなりそうだと自分で思った。
結果として目論見は当たり、めきめきと頭角を表したカブルーは今や若干二十五歳にしてヤアドの右腕とも、王の相談役とも言える立場になっていた。
領地を賜り、褒賞も使い切れないほど賜った。
しかしカブルーには不満があったのだ。
それは城の中の一室に住んでいることだ。
城の中では恋人と自由に会ったり、きままに、時に堕落的に愛し合うことができないのだ。
ミスルンの屋敷にはフレキがいるし、自身の部屋はいつ用向きのある人間が訪ねてくるかもわからない。使用人も出入りする。
カブルーはまだ若く恋人との共寝を楽しみたかったし、時間を問わず帰還した恋人を迎え入れたかった。
そこで城近くに屋敷を建てることに決めたのだった。
「ここがお前の家か」
「随分立派にしつらえてもらいました。若輩にはもったいないほど広くて豪華ですよ」
「うん。いい造りをしている。職人選びがうまかったな」
ミスルンに部屋の内部を案内する。
方向音痴のこの人だから、説明してもきっと迷ってしまうに違いない。その時は自分がついていけばいい。何度もたどっていけば、そのうち覚えるだろう。
眠る場所は必要だから、ベッドだけは先に運んで貰っていた。あとは水壺くらいだ。
使用人もまだ雇っていない。
絨毯も引かれていない部屋はなにもなく、広い。
だがこれからここはカブルーの好きなように調度品の置かれたすみかになる。
「まだがらんとしているでしょう。これから家具も入れる予定なんですが……俺はそのへんの目利きはあまり上手くなくて。よければ手伝ってもらえませんか?」
「かまわないが、役に立てるかはわからない」
「値段交渉なんかは俺がしますから大丈夫ですよ」
「うん」
「ありがとうございます。なんて、これを口実にあなたと家具を選んだりしたいだけなんですけどね」
「お前の屋敷なのだから、お前の好きなように飾ればいい」
ミスルンの無垢さは、カブルーをある種倒錯めいた感情に傾けた。だが気合で持ち直した。
「あなたとすごすために買った家です。だから、家の中もあなたとの思い出で満たしたい。どの場所に触れてもあなたの姿がよみがえるくらいに」
「私のいない時も?」
「ええ、あなたのいないときにこそ。これから早速市場や雑貨店に行ってみませんか」
「うん」
休日のメリニはにぎやかで行き交う人々はみな明るい顔をしている。昼間から酒を飲み歌い騒ぐもの。喫茶でタバコを吸いながらゆったりとした時間を過ごすもの。小さな子どもが高い声をあげて、足元を駆けていく姿。市場で働く人々の威勢のよい声がけ。
「この国は、平穏だな」
ミスルンは遠ざかっていく子どもの姿を見ながら呟いた。
「ええ、それを守るのが俺や他の臣下や王の使命です」
「お前は真面目だし抜け目がないから、きっと国政ももっとうまくできるようになるだろう」
「あはは、ありがとうございます。ヤアドがいつも自分はいつ灰や塵になるかもわからないと繰り返すので俺がやらなきゃいけないと思うことは多いですね。実際全く消える様子なんてないんですが」
「そういう人間が一番図太く生きる」
「同意見です」
二人は笑い、市場や雑貨店を見て回った。
ひとまずランプとグラス、フルーツナイフや食器をいくつかと、くるみ材質の小さなテーブルと揃いの椅子を買った。
テーブルと椅子は、ご用事の後に来てくれれば運びますよと店の主人が申し出てくれた。少し値の張るものだったから主人もサービスしてくれたのだろう。
ミスルンはさすが名家の出で、場末の市場の中でもこれはいいものだ、あれは見かけだけだとカブルーの選ぶ品を目利きしてくれた。
主人に荷を運ばせることになるから、食事はできたばかりの新居で行うことにした。
市場で果実やワインを買い、酒場で持ち帰りの料理をいくつか包んでもらった。
主人は立派な屋敷に少し驚いていたが、二階の寝室、窓際へテーブルと椅子を置くとまたどうぞご贔屓に、と言葉をかけ去っていった。
「あなたと俺はどんな関係に見えたんでしょうね」
「かねもちエルフとその愛人のひとり」
「はは、きっとそんなところでしょうね。俺の顔がもっと広くなれば、あなたがそんなひとではないと思われずにすむのに」
「他の誰に何を思われても、どうでもいい。だがお前にとって不利になるのならそうするのはやめる」
「かまいません。誤解は言葉や態度を尽くしてとけばいいだけですから」
カブルーはゆっくりと暗くなっていく空を見て、買ったばかりのランプに火を灯した。
ガラスに細かな意匠が施され、炎がゆらぐと光が部屋中に広がるたいそう美しい品だった。
小さなテーブルでは買ってきたすべての料理が乗らなかったので、ひとまず二人はグラスとワインで乾杯をすることにした。
「あなたとすごす新居に」
「うん」
ほの明るいランプに照らされたミスルンの美しさを、カブルーは忘れまいと思った。特別な日に恋人が見せた表情をけして離すまいと思った。
小さなテーブルに少しずつ料理をのせ、二人は食事をしていく。一皿が片付かないと他の料理をのせることができないから、今日の食事はことさらゆったりとしたものだった。
食事がすみ、キッチンへ食器を片付けるに降りて戻ると、ミスルンがベッドへ寝そべっていた。
枕のすわりを気にするように頭を動かして、シーツの触感を確かめるように撫でていた。
「嫁入りした花嫁ならば、今日は初夜だな」
「え、っ……」
ミスルンの発言に、カブルーは虚をつかれて静止した。初夜。しょや?
「初物ではないが、食べてみるか」
ミスルンは枕を抱き寄せて言う。微笑みは確かに初物のそれではなく、男を知っている人間の顔だった。
男とするのは初めてだったミスルンを抱いたのは自分であって……と、今日が初物ならば自分も初物だろうかとカブルーは時空の歪みについて考えを及ばせていた。
「……私の誘い文句は、へただったか。慣れないことをした」
「いいえ! とっても! とても! 心に響きました! あなたともう一度初めての夜を繰り返せるなんて……世界がくるりとその巡りを変えて、朝が夜に、夜が朝になるような奇跡です」
「そうか。ならば遠慮せずこい」
初物の言う言葉とは思えなかったが、思えばミスルンは最初からそうだった。度胸のある人だと言えばそうだが、欲を伝えるすべをうまくもたないから、直球な言い回しになる。
「大切にします。今夜からも、ずっと」
「うん」
「これからはいつでもこの屋敷へ帰ってきてください。ダイニングで食事をして、浴室で温まり、窓から星を見て、寝室で微睡んで。俺を愛して、愛されてください」
「うん」
恋人の約束はかたく、強かった。
約束は晩年まで守られることとなり、後に宰相となるカブルーの屋敷は恋人の手によって丁寧に守られ思い出のきらめきはひとつも消えることはなかった。