オセロ寄港先での艦外打ち合わせに出ていたブライト・ノアが帰ってきた。
アーガマの艦内、重力抵抗の無い廊下で、浮かない表情を浮かべ、軽く溜め息を吐きながらブライトは、クワトロ・バジーナとすれ違う。
「艦長、また面倒な事を言われたのだろう?」
ブライトの表情を見て取ったクワトロは、そう話し掛けた。
「…ああ、口で言うだけなら誰にでも出来る。させられる側の身になってもらいたいものさ。」
無理難題な命令の愚痴を、心に留め置かずに、こうして口に出して仕舞える事が、ブライトの気持ちを楽にさせた。細やかなやり取りでも吐き出せる事は救いだ。
「あ…大尉、それは?」
生まれた意識の余裕に、ブライトの視野が広がる。クワトロの左に抱えた厚みの無いケース。
「ああ、これは、オセロだ。ふと、懐かしくなってね。クムとシンタがゲームをしたいと言うから見繕ってきた。」
「今時の子供が喜ぶか?」
「シンプルな物の方が良いと思ったが。
艦長、気晴らしに一ゲーム、してみるか?」
端正な顔立ちが、口角を上げた。
クワトロは、ブライトの行き先を全身で遮る様に、前に回り込み、自らの手に有る箱をブライトに渡し、ブライトの手に有る書類を引き抜いた。
「これは私宛だろう。」
「ああ、そうだ。」
「後程部屋へ伺う。」
ブライトの返事を待つ事もなく、クワトロは機微を返し廊下の奥へと消えた。
ブライトは呆気にとられ、返事もしなかった我が身に戸惑う。
これは、有無も言わせず、だ。
「…オセロ…ね。」
彼と対戦して勝つ、訳が無い。
…気晴らしに、される側だな。
ブライトの溜め息が、また、漏れた。
┄┄┄┄
「…貴方の、勝ちだな。流石だ、艦長。」
クワトロは、楽しげな笑みを浮かべて、コマを綺麗に回収していった。
勝った筈のブライトの方が憮然とした表情で、苛ついた眉を、ますます吊り上げた。
「…わざと、手を抜いた、でしょう…」
「久々だったので、手順を間違えた。一度、狂うと修正が出来なかった、というか、貴方がそれをさせなかったのだろう。単純な物の方が、反って難しい。
なんならもう一プレイ、如何か?」
納得行くまで付き合う、と、ばかりに、サングラスの奥の瞳が、ブライトの眼差しを捉える。
「私が真剣でない、と言うなら、賭けをしても良い。勝った方の言い分をひとつ、聞く。今度は私が先行させて貰う。どうか?」
乗せられた気が、しないでもないが。
「こういうゲームは、ブライト艦長はお好きかと思ったが?」
畳み掛ける問い掛けに、ブライトは息を吐く。
「分かった。もう一度。…確かにオセロやチェスは、嫌いじゃない。」
「だろう。」
クワトロの頬が緩やかに笑みへと変化する。
相手の手の内を読み、先回りを考え、封じ込めをして、…単純で在るから、面白味が増すのだ。
しかし、対戦相手が、クワトロ・バジーナとなれば、遊びで乗るものでは…無いが。
「さ、次は艦長の番だ。」
白黒の四つ交互に置かれた丸い駒に、大尉は自駒の黒を置き、一枚白を裏返した。
雑念は、今は消し去る。迷った方が負けるだろう。非情で有るべきだ、たかがゲームであろうと。
彼のサングラスの奥の瞳。それを覗き込む視線を、ブライトは投げ掛ける。
「艦長は盤上ではなく、私を、視るのか?」
不思議そうな声音で、話すクワトロは何処かのびのびと寛いだ空気を醸し出す。
「ゲームと言えど、私は貴方ほど、余裕は無いよ。」
クワトロから出る、余裕ある空気が、自分に無いモノに思えて、益々真剣にならざるを得ない。
一つ差す毎に盤の彩りが、代わる。
黒が拡がり、また、白が拡がる。
一差し毎にブライトはクワトロの顔を見た。
目線がちゃんと合っているのか。
何処を視、何を思い、どう…動く?
…それは、オセロの事か?それとも…
「…艦長の、番だ。」
クワトロも、ブライトと、視線を合わすように顔を上げ、真顔になり、ゲーム盤へと視線を落とした。
特別な話をする訳でもなく、只、じっくりと、互いに、盤の上にコマを置き進めた。
「やはり、貴方の勝ちだな。」
黒と白の数を数え終って、クワトロは笑った。
僅差ではあったが、若干白が上回っていた。
ブライトは、大きく息を吐いた。
冷や汗が出る。オセロごときに全神経を注いで、勝ちはしたが、かなり精神が消耗した気になる。
「で、艦長の勝ちなのだから、何か、私に、課して貰おうかな。」
手際よくゲーム盤を片付けながら話すクワトロの口調は、あくまでも穏やかで、和やかであった。
負けて悔しい…訳ではないのだろうな。
そう、たかがゲームで、懐かしい遊びのひとつで、リラックスする気晴らしの時間であったのだ。負けまいとカリカリしたこちらが、子供の様で…そんな意識の違いを、感じ取る。サングラスの奥まで見れないもどかしさが、ゲーム中の自己の苛立ちの元に思えた。
流石、彼は、『かの人』なのだ。
意気込んで何になる。
そう、気付けただけでも、良い時間であったのだ。
しばらく考え込んだブライトは、ゆっくり口を開いた。
「…では、そのサングラスを、外して欲しい、かな。」
クワトロは、片付けの手を止めて、ブライトへ視線を向けた。
「人として信頼しあう為にも、お互いの眼が、瞳が見えないのは、互いの間に、壁が有るように思えてならない。
目線が合わないと、妙な勘繰りが、脳裏を掠めたりするもんだ。人は自分を守る為に、不安材料は取り除きたいと思うし、穿った考えを起こしもする。同じ艦のクルーをそんな風に思いたくないし、…それに…」
「分かった。貴方の言わんとする事の意味は解る。…これで良いのだろ?」
クワトロは、黒のサングラスを外して、ブライトの視界に立った。
「艦長、そんなに気を遣った言い回しをしなくても、良い。」
端正な顔立ちと、物憂げな眼差し。サングラスを外しての室内灯の眩しさに、彼は眼を細めブライトを、見つめ返した。眩しさに慣れないと言うように、蒼いアイスブルーの瞳が、揺らめく。
彼とこんな風に視線を合わせたのは、初めてかもしれない。
サングラスに隠してしまうには、勿体ない顔立ち、いや、だから、隠しておかなければならないのか?
覗いてはならないものを、見つめてしまった気がした。
「艦長、顔色が、悪く見えるが、私の気のせいだろうか?」
「…いや、久しぶりにこんなに真剣にゲームをしたせいか、気疲れしたのかな…今日はお開きにして良いか?」
真正面からクワトロにぐいと視射られ、ブライトの意識がたじろぐ。
素顔のクワトロ・バジーナ。
ちゃんと視線が合えば、何か、話が出来る気でいたのだが。
互いの腹の中を割って話すには、なんとなく、今、気持ちが乗っては、行かない。
「こちらこそ、本来休息時間に付き合わせたのだ。申し訳ない。」
片付けたゲーム盤を手にクワトロが、部屋を出ようとし、振り返った。
「サングラスを外すのは、艦長の前だけで良いだろう?ゲームに勝ったのは貴方だ。勝った貴方の前だけで外すべきだろう。」
何の躊躇いも無いとばかりに、ブライトに笑い掛ける素顔のクワトロの、屈託のない優しい微笑み。
「…あ、ああ、…そうかもしれないな。」
こんな、表情を持っている、者、なのか。
サングラスを掛ける理由が、彼なりに有る筈で、そこを問わずに、乱暴な注文をしたか…。
「私にはとても楽しい満ち足りたひとときだったよ。」
そう一言残して、クワトロ大尉は、扉の向こうへと、消えた。
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クワトロ大尉が、ブライト艦長と二人きりの時は、サングラスをわざわざ外して話をする。
と、艦内での噂話になっているとヘンケン・ベッケナーから、二人の間に何があったのかと、好奇な視線で尋ねられたブライトの背中に、冷たい汗が流れたのは、それから数日後の事となる。