……どうしてこうなったんだっけ、とふわふわする頭で考えている。
もうとうの昔に心拍数は上がりきって、酷い速度で血液が自分の身体をめぐっている感覚がある。頬は触らずとも発熱しているのがわかって、両方の手はぎゅうと服を掴んだまま一向に動かない。
くらくらするような、ふわふわするような、とにかく使い物になっていない脳みそは考えをまとめることも出来なくなってしまって、ただぼんやりとこの現状を受け止めることしかできていなかった。
「呰上……?」
頭上から、優しい声が降ってくる。
抑揚はない、けれどいつものような声じゃない。形容するなら、どこか甘さが混ぜ込まれた声、なんて言えばいいんだろうか。間違ってもいつもの彼が私を―三四を、呼ぶときに使う声音ではない。
その呼び声に応じるようにおそるおそる顔を上げれば、彼は少し安心したかのように僅かに顔を綻ばせている。ずっとぼんやりしていた三四を心配していたようだった。
心配も何も、三四がこんな状態になっているのは十割彼のせいなのだが。
「……か、一真、さん」
「ん、どうした?」
「いえ、その……遠征中に変なものでも食べましたか? 急にこんな、一真さんらしくないと言いますか」
「……? 食べてないと思うが……」
首をかしげる一真。彼の瞳からはハイライトが消えており、代わりに瞳孔の奥底に仄暗く、ハート形のような光が僅かに見え隠れしている。三四はこの現象に見覚えがあった。
(……これ、変なもの食べたなんてものじゃない。催眠とか、その類のものだ……!)
混乱した頭でも見事に正解をはじき出す三四。
三四がじっとその瞳孔の奥を見つめている間にも、一真の手は三四の頭や頬を撫でている。
胡坐をかいた一真にすっぽりと収まる形で座って、されるがままの三四は、どうやってもこの腕の中から抜け出すことができないままだった。
そもそも、どうしてこんな状況になったかというと。
……遠征帰りの一真にばったり出くわした三四が、そのまま流れるような動作で抱えられてひとけのない場所に着いて今に至る、としか言えないのだった。
とはいえ心当たりがないわけでもない。
最近、今の一真のような精神異常の症状がそこかしこで散見されていた。主に中距離の遠征に向かった隊員が発症しているため、居住区域から離れた場所に生息する巨躯種か何かによるものだと思ったのだが……
……一真ですらなっているとなると、物理的な攻撃によるものではないのかもしれない。巨躯種の散布する粒子体による精神異常の毒物などかもしれないな、なんて考えていると。
「……呰上、」
「……? どう、しました?」
「……誰のことを考えているんだ?」
へあ、と間の抜けた声が三四の口から零れる。
拗ねたような声音と、僅かにジト目のように目を伏せがちにしてこちらを見ているさまは、まるで嫉妬でもしているかのようだった。……多分嫉妬で間違いないだろう。
三四の知っている一真は、こんな感情を見せはしない。
それどころか抱くことすら想像できない。嫉妬する一真なんて、千尋あたりが見たらケラケラ笑ってそうだ。
とはいえこんな感情を向けられた三四にそんな反応はできやしない。
「……か、一真さんの、ことしか考えてない、ですよ」
「ん、そうか。安心した」
暗に『俺のこと以外考えないでくれ』、なんて言っているようなものだ。三四に対してそんな、仄暗い執着など持っていない普段の一真から飛び出るはずのない言葉に、三四は顔を真っ赤にして固まるしかなかった。
ぎゅう、と強い力で抱きしめられる。
どくどくと伝わる鼓動の音。これが自分の心拍数ではなく一真のものだと気が付いたのは、限界になった三四が顔を背けたころだった。
おかしい、おかしい、と三四の脳内は警鐘を鳴らす。
一真が三四に対してこんなことをするはずない。
そもそも一真は三四に対してこんな、どろどろととろかすような愛で方はしないはずだ。
だって一真は三四のことを恋愛的に好きであるわけではないんだから。
それを、三四も知っていたから、こんな状況に陥って混乱しているし、なにより止めないとと思っていて、でもそれがどうやっても出来なかった。
力量的なあれこれというわけではない。
しようと思えば、三四は木の枝の神経毒で眠らせて容易に脱出できるだろう。
(……もう、すこしだけ)
脳をとろかすような、蜂蜜を流し込まれるような甘い愛情を、三四は手放すことができなかった。
もう少し、この愛情を享受していたい。
もし仮に、今三四が一真を離してしまって―そのあと、もしも三四以外にこうしてこんな愛情のようなものを示してしまったら、三四はきっと平静でいられない自信があった。
今すぐにでも眠らせて、那姫や千尋を呼んできた方がいい。三四の理性はずっとそう訴えているけれど、こんな一真をほかの女の人に見せたくないという独占欲に阻まれる。
「呰上、」
「は、はい」
「……呰上は可愛いな。きっと十年後には美人になる」
「うあ、ぁ……ありがとう、ございます……」
直球の言葉にさらに頬が熱くなる。
きゅう、と縮こまると、一真の腕の中にすっぽりと収まる形になった。一真から伝わってくる体温が心地よくて、でも体温が急上昇している三四には少しあつい。くらくらする脳みそは、そろそろオーバーヒートで壊れてしまいそうだ。
「呰上」
「……」
「呰上、……大丈夫か」
「……いえその、大丈夫かと言われたら、そういうわけではないんですが」
「……嫌か?」
「い、いいえ、……いや、では」
ふるふると首を振る。
その仕草に安心したのか、一真はぐっと三四を引き寄せて彼女の肩に頭をうずめるようにして、
「……呰上、好きだ」
「―……、え、」
「あいしてる。呰上、」
…………。
これはだめだ、と直感した。
告げられた言葉は三四の全ての思考を消し去って、その後に理性とも本能ともつかない声が脳に響く。
だめ。
これは駄目だ。
こんな、こんなことを言わせてしまってはだめだ。
一真の本心を捻じ曲げるような、こんな言葉は受け取れない。
だって一真さんは、私のことが好きなわけじゃない。
(……。ごめんなさい一真さん。私の勝手で、こんなことを言わせてしまうなんて)
もっと早く、一真を眠らせる決心がついていれば、こんな言葉を引き出さずに済んだはずだ。
誠実な一真は、こんな言葉を軽々と口にしたりはしない。
目を閉じて、一つ息を吐く。
「……。一真さん」
「……」
「……私も、一真さんのこと、愛してます」
顔を上げて、目を合わせて告げる。
一真が何か返す前に、三四はぎゅっと一真の手を握りしめて、ちくりと木の枝を指して睡眠毒を流し込んだ。
「あざか―」
驚いたような、嬉しげなような、彼らしくもない声で三四を呼ぼうとして、それより早く毒が回る。ぐた、と全身の力が抜けた一真を支えつつ、ゆっくりと横になるよう倒した三四は、やがて自分の着ていたジャケットを彼にかけて、那姫か千尋を呼んでこようと駆けていった。
(すきです、愛しています、だから、……全部、忘れていて)
真っ赤な顔で、それだけを願っている。
起きた時に、一真がここまでの一切を忘れていてほしいと祈っている。愛していると言ったこと、三四から愛していると言われたこと、その他すべて、綺麗さっぱり何もかも。
蜂蜜のように甘い愛情をもらったことも、愛していると告げられたことも、全部三四は心の中にしまい込んで大切に取っておくから、どうか。
……いつか、遠い未来に。
こんな精神異常ではなくて、心の底からの本心で、愛していると言ってほしい。
ただそれだけを願ったまま、三四は走っていくのだった。
【精神異常】
幻獣種による粒子性の症状。
極東の居住区の少し遠くに生息している新種の幻獣種によるもの。毒性と三四は判断していたが、幻獣種が放出する粒子により対峙した者の体内粒子の波長が乱れることにより脳波に影響が出る。常時放出しており無臭のため気づくのが困難。
基本的には精神に異常はないが、好意を持つ相手と対峙した場合に異常性が発露する。