或る従者と職人の物語(「極まれり」前日譚) 離宮の衣裳部屋は夜半近くにもかかわらず、未だ明かりを灯していた。
整然と並べられた衣装と帳面を前に、少年は眉を寄せて立ち尽くしていた。黒髪は薄いフードの下で微かに揺れ、手元のランプに照らされた顔には、年齢にそぐわぬ緊張が浮かんでいる。
「……どうして、同じ意匠を」
細く吐き出されたその声に、虚空が静かに応じた。明日、王の御前で催される舞踏会。その場に出る主のために用意していた髪飾りが、他の妾のものと酷似していると、つい先ほど報告が入ったのだ。
しかも、相手は主の因縁浅からぬライバル__装いの「格」で負けることなど、決して許されるものではない。
少年は唇を噛んだ。間違いなく、自分の落ち度だ。詰めが甘かった。仕立て屋から衣装を受け取ったとき、もっと念入りに検分すべきだった。
「……な、なんとかしなければ」
主の怒りを買えば、ただでは済まない。いや、済むはずがない。
そう思ったとき、衣裳部屋の扉が静かに閉ざされた。夜の帳が、少年を追い詰めていく。
◇◇◇
雨の音に混じって、硬いものが戸を叩く音が聞こえた。
こんな時間に、と独り言ちた職人は、寝間着のまま重い扉を開けた。風が吹き込み、弱々しい灯りが一瞬揺らぐ。
「……あ?」
立っていたのは、小柄な少年だった。黒いローブの裾は泥に汚れ、濡れたフードの影から覗く目元は、ただならぬ切迫を湛えていた。
だが、職人の目に留まったのは、彼の首元のブローチ__王宮の従者にしか与えられぬ証だった。
「賊が来たら厄介だ。中へ入んな」
無言のまま頷いた少年を引き入れ、椅子に座らせる。乱暴にタオルを押しつけながら、職人は無遠慮に問うた。
「さて、何の用だ。まさか服の注文って訳じゃねぇだろうな」
「……髪飾りを。明日の……舞踏会までに、どうしても……主の、衣装に合わせて……」
震える声で必死に紡がれる言葉。その最中、少年はおずおずとローブの内から何かを取り出した。
それは、手のひらにすっぽり収まるほどの小さなペンダント。
中心に埋め込まれていたのは、紫にも赤にも見える、不思議な輝きを湛えた紫水晶だった。光の加減で煌めき方が変わり、まるで内側に何かが揺らめいているかのようだ。
「これを……報酬に。どうか、お願いします……」
職人は黙ってそれを受け取った。指先をかざすと、微かながらも魔力の脈動が指に触れる。だがそれ以上に、見たことのない素材への興味と、宝石自体が持つ奇妙な気配に、職人の眼差しが鋭くなる。
「……なるほど。珍しい石だな。どこで手に入れたんだ?」
問いかけには答えず、少年は小さく首を横に振った。だがその仕草の裏に、どこか「それ以上は問わないでほしい」という懇願があった。
職人は肩をすくめ、口元で舌打ちをすると、部屋の奥から古びたシャツとズボンを持ってきて少年に差し出す。
「いいから、これに着替えな。濡れたままだと風邪を引くぞ」
けれど少年は、首を縦に振らなかった。拒絶とも、恐れともつかぬ硬直の中で立ち尽くしていた。
「まったく、いい加減にしろよ」
職人は息を荒くしてローブを剥ぎ取るように引き下ろし、無理やり着替えさせようとシャツの裾に手をかける。
そのとき__
布の下からあらわになったのは、幾重にも重なった痣と、無数の裂傷跡だった。
薄くなった古傷に混じり、つい最近刻まれたばかりと見られる、真新しい鞭痕が、青白い皮膚の上で腫れあがっている。
骨ばった肩甲骨の間には、火傷のような痕跡すらあった。
「……っ」
思わず職人は言葉を失った。
背中のそれは、“しつけ”の域をはるかに超えていた。暴力__それも、陰湿で計画的な、人格を踏みにじる類のもの。
少年はうつむいたまま、震えていた。
小さく、かすれた声で囁く。
「……明日、主に恥をかかせたら……きっと、今度こそ、私は……」
“どうなってしまうのか”という言葉は、喉の奥で止まった。
その声の震えと、背中の痕がすべてを語っていた。
彼は恐れていた__ただの叱責ではない、命をも脅かしかねない“罰”を。
職人は深く息を吐き、呟くように吐き捨てた。
「……くそ、厄介ごとに巻き込みやがって」
無造作に少年の手を取ると、さっきのペンダントをその掌に押し戻した。
「お代はツケで結構だ。宝石の価値なんざ関係ねぇ。……朝までに仕上げてやる」
少年が顔を上げた。目には驚きと困惑、そして__ほんのわずかな安堵の光が揺れていた。
「……ありがとうございます」
その声は、今にも消え入りそうに小さかったが、確かに言葉として届いた。
「礼はいい。さっさとそのシャツ着ろ。で、ソファに転がって、仮眠でも取っとけ」
ぶっきらぼうに言い放ちながら、職人は台所へ向かい、鍋に牛乳を注いだ。
ゆっくりと立ちのぼる湯気が、工房の冷えた空気をほんの少し、温めてゆく。
しばらくして、着替えを終えた少年が、そっとソファへ身を沈めた。
こわばっていた指先がようやく緩み、掛け布の隙間から、吐息のような寝息が漏れた。
頬に触れた布の優しさに、緊張がほどけたのだろう。
少年の表情からは、怯えや恐れが、少しずつ拭われていく。
深く、静かな眠りだった。
それは、誰にも邪魔されることのない、ほんのひとときの安息だった。
◇◇◇
明け星が昇る頃、工房の小窓から、曇り空の切れ目が淡く色づいていった。
職人の手元には、完成した一輪の髪飾り。白銀の花弁が、美しく咲いていた。
それを箱に納め、そっと布を掛けたとき__ソファの上の少年が目を覚ました。
「……もう、朝ですか」
寝ぼけた声。まだあどけなさを残すその瞳は、昨夜の怯えが嘘のように穏やかだった。
「ほら、出来てるぞ」
ぶっきらぼうに言い放ちながら、職人は箱を差し出す。少年はそれを両手で大事そうに受け取り、静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます。本当に、助かりました」
「礼を言う暇があったら、さっさと戻れ。お前さんのご主人様が機嫌を損ねちまえば、俺の苦労も水の泡だ」
口は悪いが、その声は、どこか柔らかかった。
少年は微笑み、箱を胸に抱きしめるようにして、深く一礼した。
雨は止んでいた。濡れた石畳を走っていく黒いローブの背を、職人はただ黙って見送った。
◇◇◇
それから幾年__
老いた職人は病床にあった。血を吐くたびに肺が焼けるようで、起き上がることさえままならない。
だが、今日ばかりは、横になってなどいられなかった。
王城の大広間。人々が見上げる先、玉座の側に立つ男の姿があった。
漆黒のマントと金糸の刺繡。背に翻るは、赤く染まった天馬の羽根。
黄金の仮面が顔の半分を覆い、残された目元には、深紅の光が宿っている。
__暗夜王の軍師、マクベス。
即位式の日。かつて髪飾りひとつで必死だった、あの少年が、いまや国の柱とされ、光輪を背負って立っている。
胸を衝くほどの誇らしさと、遠くなりすぎた背中への一抹の寂しさが、老職人の胸を満たしていた。
「ツケは、もう……十分に返してもらったよ」
誰にともなく、呟く。
それから数日後の晩。
「……よく似合っていた。あれこそが__この生涯における、“最高傑作”だ」
最期の言葉は、微かな吐息とともにこぼれ落ちた。
まどろむように瞼を閉じるその表情には、誇りと安堵の両方が宿っていた。
白布をかけられた枕元で、老いた職人の息が、静かに止まった。
それは、しなやかな糸がほつれるように__
夜の帳の向こうへ、穏やかに、そして確かにほどけていった。
<「極まれり」前日譚・完>