サテツ君が犬になった。
否、正確に言うならば、高等吸血鬼の催眠によって“自分は犬だ”と思い込んだ。
元凶となった吸血鬼は捕まえて懲らしめたのに、何故か彼だけ催眠が解けなくて――と、サテツ君を連れてきたギルドマスターは言っていた。吸血鬼の方もVRCに収監され、今はカズラ君たちが様子を見ている。何か進展があれば連絡が入るだろう。
診察用の椅子に体を縮めて座るサテツ君は、キョロキョロと室内を見回している。見慣れた部屋だろうに、一時的に記憶もなくなっているのだろうか。果たして言葉は通じるのか。試しに「サテツ君」と呼んでみると、首がもげるほどの勢いで顔が振り向き、次の瞬間、体にぶち当たる衝撃で吹き飛ばされた。
「ぐえっ!」
二人揃って背後にあった診察台に転がる。
直前のサテツ君の様子からするに――両手を頭上に上げ『わふ!』とでも幻聴が聞こえそうな顔をしていた――じゃれついてきたつもりなのかもしれない。どういうことだ。自分の体の大きさがわかっていないのか。それともこれは自分を小型犬だと思い込む催眠なのか。
「サテツ君、待てだ! ステイ! 待て!」
サテツ君は俺様の上に覆い被さり、ふんふんと匂いを嗅いでくる。胸元で何度か鼻を鳴らし、次に何を考えたか俺様の脇に鼻を突っ込んだ。
「は!?」
思わず最後に風呂に入った日を考える。昨日は確実に入っていない。一昨日? いや、ここのところ忙しかったから――と全力でこの一週間を振り返る間にも、サテツ君の鼻息が服越しに伝わってくる。犬になった彼に遠慮などない。鼻先で脇を掘るようにぐりぐりと顔を動かし、スンスンと匂いを嗅ぐ。
「やめろ! 馬鹿!」
いくら相手が恋人といえど、流石にこれは恥ずかしい。ベチベチと彼の背を叩くが、なんの効果もない。それならば、と彼が顔を動かすたびに尻尾のように揺れる後ろ髪を引っ張る。途端、むくりとサテツ君の顔が上がり――次の瞬間には目の前にあった。
「う、わ……っ!」
肉厚な舌がべろりと頬を舐め上げる。
頬だけに限らず顎も口元も鼻先も、露出している部分は容赦なく唾液まみれにされる。昨日の夕飯はカレーか。おいやめろ、鼻に涎が入る。
「やめろと、言ってる!」
言っても無駄なのかもしれない。今の彼は犬なのだ。だが、自分の名前は認識していた。それにベースは人間なのだから、少しはわかってもいいのではないか。犬だって長く一緒にいれば多少は――
「いっ、だ! 痛い! いたいいたい!」
サテツ君が体勢を変え、彼の膝が俺様の太ももに乗り上げた。遠慮なく体重をかけられた足に激痛が走る。馬鹿め! なんでわざわざ足の上に乗る。痛い。折れる。急に暴れ出した俺様に驚いたのかサテツ君は上体を起こし、起こした拍子にちょっとバランスを崩し手をついた。
俺様の、腹に。
「うっ、ぐ……あ!!」
背骨が軋み、内臓が潰れる。何も入っていない胃から何かが逆流してくる気配がする。
人体の耐荷重は何キロだったろう。そして彼は何キロだっただろう。確か100キロはオーバーしていたはずだ。しかも今はアームの分までプラスされている。
痛みと吐き気に息ができない。『死』の一文字が頭をよぎる。嫌だ。流石にこんな死因は嫌すぎる。
最後の力を振り絞り、白衣のポケットを探る。確かここに入れたはずだ。指先にあたる硬い感触。親指でキャップを外す。引き出したそれを、迷いなくサテツ君の首筋に突き立てた。間髪いれず注入ボタンを押し込む。カートリッジ式の注射器の中身は、超強力な睡眠薬だ。
サテツ君は針の痛みに一瞬体を強ばらせたが、数秒経つとへにゃへにゃと体を弛緩させ俺様の上に崩れ落ちた。
「くっ……はぁ、はぁ……」
重さ自体は変わらないが、局所的な痛みは解消されてマシになった。全く、最悪の日だ。太ももは確実に内出血しているだろうし、腹ももしかしたら青くなるかもしれない。
首を持ち上げて、肩口に落ちた寝顔を見る。弛緩し切った間抜け顔。彼は催眠がかかっていた間のことを覚えているだろうか。覚えていたらそれでよし。覚えていなかったら内出血を見せて、向こう一ヶ月は毎日ドーナツを買いに行かせようと心に決める。
ああ、けれど。
彼に組み敷かれることはこれまで何度もあって。最中に“死にそうだ”と思ったことも一度や二度ではない。だがこうやって物理で死を思ったことはもちろん、足や手も彼の下敷きになって痛い思いをした記憶は無い。
いつもあんな余裕のない瞳をしているくせに、こちらを潰さないよう気を遣っているのだろうか。もしかしたら思っていたよりも大事にされているのか……などと考えながらサテツ君の体を押し退けて立ちあがろうと――――
「あー……くそ……」
大の字に伸び、まるで布団のようにのしかかっている巨体は、俺様の腕で押したくらいではびくともしなかった。