『絶対に、今日、連れて帰ってください』というカズラさんの厳命を受け、俺は今VRCの食堂にいる。
深夜すぎの時間帯。つまり吸血鬼たちの時間だ。そのせいか食堂で休憩している人影はまばらで、室内はがらんとしている。
俺は二人分の湯呑みを用意しながら、そっと肩越しに後ろを見やった。規則正しく並ぶ長机の端っこに、連れ帰るべき対象――ヨモツザカさんがちょこんと腰掛けている。
一見普段と変わらないように見える彼だが、今日でまさかの5徹目らしい。
カズラさんに聞いた時は、嘘ぉ、と思わず声が出た。それだけ集中力が持つのも凄いし、興味の対象があるというのも素晴らしいことだと思う。でももっと体も大切にして欲しい。
そしてそんなヨモツザカさんに付き合ってカズラさんも帰れていないようで、目の下には可哀想なくらい酷い隈ができていた。今週はシュンさんが病欠で、ヨモツザカさんの世話というか、お守りというか、介護というかを、概ね一人で担っていたらしい。お疲れ様です、というと彼女は薄く笑って(でも目があまり笑ってなくて少しだけ怖かった)最初の指示を繰り返した。
俺の作戦はこうだ。
今日は節分だから、二人で食べようと思って恵方巻きを買ってきていた。だからまずは恵方巻きを口実に、メインラボから出てきてもらう。でないとヨモツザカさんは食べ終わったと同時に研究に戻ってしまうだろうから。
そしてお腹一杯食べてもらう。彼は食を蔑ろにすることが多い。だからここ数日も碌なものを食べていないんじゃないかと思うのだ。そんな状態でお腹が満たされたら、きっと眠たくなる……はずだ。あとはうとうとする彼を車まで運ぶだけ――というプランは少し楽観的すぎるだろうか。
もしうまくいかなかったとしても、食堂からの方が駐車場へ誘導しやすい。最終的に抱き上げてしまえばなんとかなるんじゃないかとは思う。絶対、後で猛烈に怒られるだろうけれど。
カズラさんから「年末からこちら、私の淹れたコーヒーは警戒されてしまって。でもサテツさんならいけると思います。使いますか」と睡眠薬を差し出されたが、流石にそれは丁重に辞退した。
お茶を入れ終わり、湯呑みを二つ持ち上げたところで「サテツ君」と声がかかる。振り返るとヨモツザカさんが、恵方巻きのパックを両手に持って見比べていた。
「なんで二種類あるんだ?」
「店に行くのが遅かったせいで、極太と細巻きしか残ってなかったんです。ヨモツザカさんは細い方が食べやすいかと思って」
彼の前に湯呑みを置きつつ、様子を確認する。姿勢は前屈みだが――これはいつもの猫背だ――受け答えは思ったよりしっかりしている。実はちゃんと寝ていたのだろうか。いやでも、仮面から覗く頬は少し痩けたように見えるし、気のせいかもしれないが体も少し薄くなったように感じる。仮面の下の目元には、酷い隈を作っているかもしれない。
「俺様は顎関節症じゃないぞ」
「え?あっ、はい?」
思いがけない宣言に、思わず返事の語尾が上がる。
顎関節症――確か口が開きにくくなったり、大きく開けた時に音が鳴ったりする病気だったったろうか。
どういうことだろう。もしかして俺が想像していたよりもお腹が減っていて、たくさん食べたい?それなら、他にも買ってきてあるから、太い方を食べてもらってもいいですよ――そう言おうとしたところで、彼が手元のパックから顔を上げた。
「俺様の口が開くことは、君が一番知ってるだろう?」
「……俺が?」
食堂には人が少ない。つまり静かということだ。
そして、ヨモツザカさんのいい声は、よく通る。彼の声につられて何人かが、こちらを向くのが視界の端に入った。
いつの間にか細い方の恵方巻きはテーブルに戻され、ヨモツザカさんは太い方だけを手に持っている。
彼の頭がかくりと下を向く。下がった視線の先は――俺の股間だ。
あ、いや、ちょっと待って、それって、もしかして、
「だって“これ”、君のと「ウワーー!!ヨモツザカさん!やっぱり帰りましょう!!」
テーブル越しに腕を伸ばす。ぐい、と力任せに彼の体を持ち上げ、そのままの勢いで肩に担ぐ。「ぐえっ」という声が聞こえた気がするが、様子を確認する余裕はない。恵方巻きと鞄を回収したところで、机の上の湯呑みが目に入った。
「あの、このお茶よかったら誰か――」
飲んでもらってもいいですか、そう言おうと顔を上げ、初めて気付いた。
室内にいた全員が、こちらを向いている。
そしてその視線は、さっきのヨモツザカさんのように俺の下半身に集中しているような気がして、一気に顔が熱を持つのが自分でもわかった。ぶわりと頭皮に汗が滲む。
俺たちが付き合っていることはVRCの人なら誰もが知っている。加えてさっきの彼の発言。直接的ではなかった。けれど、ここに勤めているのは頭の回転の速い人ばかりだ。
「こ、これ!どうぞ!」
それだけをどうにか絞り出し、ヨモツザカさんを担いだまま食堂を飛び出す。
「あの、掴まっててくださいね……!」
ヨモツザカさんから返事はない。でも足を止める気にはなれない。
次があったら絶対に、そう、絶対に、駐車場へ直行しよう――そう心に決めて、俺は廊下を駆け抜けた。