あなたとならば、どこまでも「イレブンさま、明日は休息日にして頂けませんか?」
セーニャが切り出したのは、ソルティコの宿にて皆で揃い夕食を取っている時だった。
彼女から休息日を求められることは珍しい。
聞けば、『荷物用の鞄が傷んできたので、街で新しい物を見繕いたい』とのこと。
「それはもちろん良いけど……。あの鞄、気に入っているようだし、僕が直そうか?」
イレブンの問い掛けにセーニャは首を横に振り、そっと耳打ちをした。
「実は、ロウさまがお疲れのようなのです。ご自分からは言い出しにくいでしょうから。それに──」
いかにも謙虚なセーニャらしいやり方である。
ロウに気を遣わせぬよう、さも自分の用であるように休息日を申し出たのだ。
確かに、このところ戦いづくめの毎日だった。
その上、素材の収集やヨッチ族の手伝いで世界中を慌ただしく駆け回り、身体を休めるのもキャンプがほとんど。
こうして宿に泊まるだなんて、いつぶりだろうか。
「それなら、明日だけじゃなく明後日も休息日にしよう。たっぷり休んだ方が、その後の旅も捗るしね」
イレブンの提案に、仲間たちから歓声が上がる。
戦いに身を投じるのが当たり前になりすぎて、彼らへの労りが疎かになっていたことを少年は反省した。
そして、自分自身に対してもそうだった、と。
『それにイレブンさまも、シルビアさまと過ごす時間が必要なのではないですか?』
セーニャにそう言われるまで、ずっと気付かない振りをしてきた。
身体よりもむしろ、心が疲弊していたことに。
愛する人と触れ合いたいと、心が悲鳴を上げていたことに。
シルビアとは恋仲になって久しい。ところが、最近は先のような旅が続いており、二人きりで過ごす時間など、めっきり少なくなっている。
世界を救うためには、より強靭な力を身につけ、立ち止まることなく進み続けなければならない。
それは仲間の誰しもが共通して持つ認識であり、イレブンもシルビアも、どんなに心が求めようと、自分たちの時間を優先させるようなことは決してなかった。
しかし、やはりシルビアも我慢していたのだろう。
明日明後日が休息日と決まるや、傍から見ても分かるほどの上機嫌になり、軽やかな足取りで早々に部屋へと戻って行ったのだ。
今宵、イレブンとシルビアは、海のよく見える二人部屋に宿泊することになっている。
手配したカミュの心遣いに、イレブンは感謝せずにはいられなかった。
(久しぶりに、シルビアさんとゆっくり出来たらいいな……)
ベッドに横たわり、ぼんやりと考える。
イレブンが部屋に戻って間もなく、シルビアは『取り急ぎの用ができた』と宿を出て行ってしまった。
少しでも二人きりの時間を共有したかったのに、とちょっぴり残念に思ったが、自分のわがままを押し通す少年ではない。
その内に帰ってくるであろう恋人を心待ちにしつつ、明日は何をしようか、と考えを巡らせた。
だが、連日戦い続けた疲れのせいか、久しぶりの宿で緊張の糸が途切れたせいか。
イレブンは自分でも気付かぬ内に、眠りに落ちてしまうのだった。
・・・・・・・・・・
次にイレブンが目を覚ました時、窓から差し込む陽と、それを照り返してキラキラ輝く海が、とっくに朝を迎えたことを知らしめてきた。
慌てて隣にいるはずのシルビアを見れば、ベッドは既にもぬけの殻。
「しまった……」
寝過ごしたことを悟り、イレブンはのそのそと起き出して身支度をする。
部屋を出ると、両隣の部屋にも仲間たちの気配はなく、室内は綺麗に整えられていた。皆、思い思いの場所へと出かけた後のようである。
(シルビアさんも、もうどこかへ出かけちゃったかな……)
ロビーへと続く階段を降りながら、大きな溜め息を吐く。外の好天とは対照的に、どんよりと最悪な気分だった。
久しぶりに恋人と過ごせる機会を、自分で潰してしまったのだから無理もない。
重い足取りで最後の段を降りた時──
「おはよう、お寝坊さん!」
聴き慣れた、耳触りのよい声が響いた。
顔を上げれば、シルビアがロビーのソファからひらひらと手を振っている。
「シルビアさん! もう出かけたのかと思ってた……」
先程のうなだれた様子からは一転、イレブンは子犬のようにシルビアへと駆け寄る。
少年の愛らしい姿に目を細め、男はその額に唇で触れた。
「せっかく二人きりになれるチャンスなのに、そんなことしないわ! イレブンちゃん、今日はアタシに付き合ってくれない?」
「もちろん!」
清々しいほどの二つ返事。イレブンのこういう素直さが、シルビアには可愛くて堪らない。
ならば善は急げ、と男が少年の手を取ると、二人は駆け出すように宿を出て行った。
・・・・・・・・・・
シルビアがイレブンを連れてきたのは町の入り口。
外と街とを結ぶ橋の袂に、大きな馬が繋がれている。
「立派なおウマちゃんでしょ! 昨夜、馬宿で手配してきたの。このコなら二人で乗っても平気ですって!」
きょとんとするイレブンに、シルビアは先に乗るよう促した。
「アタシが手綱を引くから、お先にどうぞ」
「あ……僕、後ろがいいな」
二人で馬に乗る場合、手綱を引く者が後ろに乗ることが定跡であるとイレブンは分かっている。
シルビアが『後ろは揺れるわよ』と引き留めても、少年は譲らなかった。
珍しく頑なな態度を不思議に思いつつシルビアが馬に跨ると、イレブンもそれに続く。
少年の腕が身体に回されると、男はゆっくりと馬を前進させた。
イレブンが後ろに乗りたがったのは、シルビアの背中に身を委ね、彼の体温を全身に感じたかったから。
それは少し恥ずかしがり屋な少年なりの、恋人に甘えたい気持ちの表れだった。
そんなイレブンの心を知ってか知らでか、シルビアが馬を走らせることはなく、常歩で緩やかに道を進んだ。
・・・・・・・・・・
「さあ、着いたわよ」
シルビアが馬を止めたのはソルティアナ海岸の最南端、海と岩壁に囲まれた小さな浜辺。
ソルティアナ海岸は白い砂浜が美しく、打ち寄せる波も吹く風も穏やかで、バカンスに訪れる者が後を絶たない。
けれども、今二人のいる辺りは魔物の生息域であるため、人が立ち入ることは滅多にない。それゆえ浜辺の美しさは、ここに着くまでに目にした何処とも桁違いであった。
旅の中で風光明媚な場所はいくつも見てきたが、今日のように戦いから離れ、立ち止まって見る景色のなんと美しいことか。
イレブンは思わず立ち尽くしてしまう。
「アタシ、昔から好きなのよ、ここ。修業していた頃、よく息抜きに来たものだったわ。ぼんやり海を眺めながら波の音を聴いていると、疲れなんて全部吹き飛んじゃうの」
馬から荷を降ろしながら言うシルビアの語り口は、いつにも増してたおやかで、故郷の海を愛しているのがイレブンにも十分に伝わってくる。
「このところ、ずっと忙しかったでしょう? だから、イレブンちゃんと一緒にここに来られたら、って思ってたの。叶って嬉しいわぁ!」
心底嬉しそうに笑う恋人。こんな顔を見たのは久しぶりだった。
イレブンの胸中に、申し訳なさが込み上げてくる。
「シルビアさん……その、今まで、こういう時間をなかなか取らなくて──」
その瞬間。シルビアは、イレブンの唇に人差し指を押し当てて微笑んだ。
「ごめん、なんて言うのはナシよ? イレブンちゃんが頑張り屋さんなのは、アタシが一番分かっているつもりだもの。でもちょっと頑張り過ぎなアナタを、今日はうんと甘やかしちゃうんだから!」
言うや、シルビアはイレブンに飛び付いた。
いくら力の強い少年であっても不意打ちには勝てず、二人はそのまま砂の上に崩れ落ちる。
頭から砂をかぶった顔を見合わせて大笑いした後。
二人は長く深い口づけに酔いしれた。
触れたくても触れられなかった時間を埋めるように。
これから先、いつまでも変わらぬ想いでいることを誓うように。
何も邪魔するもののないこの時。
イレブンとシルビアは、『今の自分は、ただ恋人のためだけに存在しているのかもしれない』とさえ思っていた。
・・・・・・・・・・
その後、二人は海水浴や貝殻集めを楽しんだ。
シルビアが泳げば、そのしなやかな動きに、イレブンは『人魚のようだ』と見蕩れた。
イレブンが拾った貝殻で作ったアクセサリーをシルビアに贈れば、男は大袈裟なほどに喜び、少年を抱き竦めキスの雨を降らせた。
くたくたになるまで遊んで笑って、疲れ切っていた心はいつの間にか解れていた。
だが、楽しい時間は瞬く間に過ぎてしまう。気付けば、太陽が海に沈みかけている。
「そろそろ帰りましょうか。今度は、ちゃんと前に乗ってね?」
「うん」
心がすっかり満たされたイレブンは、シルビアの言葉に素直に頷いた。
帰りの道中、一日穏やかだった空に暗雲が垂れ込めてくる。
「雨が降りそう……」
「本当ね。少し飛ばすわよ!」
シルビアが馬の速度を上げる。町までの距離を考えれば、なんとか雨が降り出す前に辿り着けるかもしれない。
ここで、イレブンにとある気掛かりが生まれた。
「みんな、大丈夫かな? 降る前に帰ってくればいいけど……」
「あ、いっけない! イレブンちゃんに伝えるのを忘れてたわ! 今日はみんな、出先で泊まってくるそうよ」
今朝、仲間たちはシルビアに行き先を告げ、それぞれ遠出したらしい。
なるほど、どうりで宿の部屋がすっかり綺麗にされていたわけである。
(ということは、夜もシルビアさんと二人きり……?)
このことに気付いてしまったせいで、イレブンの顔は期待と羞恥で急激に熱くなっていく。
それをシルビアに悟られまいと、少年は町に着くまでの間、前を向くことしか出来なくなってしまった。
・・・・・・・・・・
この晩は夕方から居座り続けた暗雲のせいで、ソルティコでは稀に見る嵐の夜となった。
風は轟音を立てて吹き荒び、窓をガタガタと揺らしている。
激しく降り頻る雨は、街の灯りだけでなく周囲の物音すら掻き消す勢いである。
「こんなに荒れるなんて珍しいなぁ」
イレブンが窓の外を覗いてみても、暗い街の様子は窺い知れない。
風の唸り声と耳を劈く雨音。それに混じって、荒れる波の音が聴こえてくるだけだった。
「昼間の海とは大違いだ」
「そうねぇ。こんなに煩くては、眠れないかもね?」
妖しく微笑むシルビアに、イレブンの身体がびくりと跳ねる。
二人きりの夜を意識してしまってからというもの、態度が不自然になったことはイレブンも自覚していた。
なのに、どうにも上手く誤魔化せないのは、恋人の視線が自分を捉えたまま決して離してくれないからだろう。
浜辺からの帰り道、イレブンの髪の隙間から覗く耳が真っ赤に染まっているのを、シルビアは見逃していなかった。
純粋な少年が何を考えてしまったのかなど男にはお見通しで、彼への愛おしさがますます膨れ上がってしまった。
『宣言通りにうんと、それよりもっと甘やかしてあげなくちゃ』
そんな気持ちが、高まってしまった。
「昼間のキスだけでお終いかしら?」
シルビアが尋ねると、イレブンの瞳がぎこちなく揺れる。
羞恥に戸惑いながら少年が見つめ返しても、そこに浜辺ではしゃいでいた陽気なシルビアは存在しない。
今、目の前に在るのは、雄の匂いを身に纏い、熱を孕んだ瞳で自分を射抜く男の姿。
部屋の小さな灯に照らされた男は息を呑むほど美しく、イレブンは声も出せずに彼の指先を握ることしか出来ない。
それを返事と取って、シルビアは燭台で揺れる灯を吹き消した。
闇の中で二人はひとつに溶け合った。
窓の外では相変わらず轟音が響くが、もはや彼らの耳には届かない。
イレブンの甘く蕩ける鳴き声と、シルビアの低く囁く愛の言葉。
それしか聞こえなくなるほどに、二人は互いを求め快楽に耽る。
イレブンは思う、『シルビアは海のようなひと』と。
優しく気高く美しいのに、時として雄々しく荒々しく情熱的な顔を見せる。
包容力と厳しさを併せ持ち、イレブンを新しい世界へと誘っては喜びと興奮を与えてくれる。
イレブンにとってシルビアは、自分と知らない世界を繋ぐ海そのものであり、だからこそ溺れてしまう存在だった。
シルビアも思う、『イレブンは知らない世界を見せてくれる子』と。
イレブンと旅を始めてから、訪れたことのない国々を廻った。
一人旅ではできなかった経験も沢山した。
イレブンに恋をしてから、自分にはないと思っていた嫉妬心や独占欲なんて醜い感情に気が付いた。
これまで見てきた世界が一変して、より輝いて見えた。
言葉には出さなくとも、イレブンもシルビアも思うことはいつでも一緒。
あなたとならば、どこまでも行ける。どこまでも行きたい。
だから、ずっと離れないで──
その気持ちを確かめ合うように、二人は何度も何度も睦み合う。
嵐が切り離した恋人たちの世界。
静けさが戻ってくるのは、まだまだずっと先のこと。