烏の濡れ羽色最後にするつもりだった。ベッドさえ抜ければ、もう出られる。服も一瞬で着れるシンプルなやつにした。この家に増えていったオレの私物は、ベッド下のバッグに詰めてある。仕上げに眠剤を抜いたら、この通り。ヴォックスがとっくに寝付いても、オレの目は冴えたまま。ここまで完璧だった。だから敗因は、最後にベッドを抜けたのが左手だったこと、これだけ。掠れたバリトンに
「ミスタ」
と呼ばれて驚いて、一瞬動けなくなっても、手さえ掴まれなければ逃げられたはずなんだ。暗い部屋で碌に何も見えないのに、オレの死んだみたいな肌の色は、食い込んだコイツの黒い爪をハッキリ映す。オレと同じ色の、でも円く整えられた爪は、どこから入ったかも分からない光をてらてらと反射した。そして一度離れ、再び近寄ってオレの指をなぞる。それから今度こそ正しく手を繋いで、ゆっくりと自分の方へ引き寄せた。
「ミスタ……」
ヴォックスの髪は部屋の暗さに溶けこんで、金眼だけが何もかも見透かすように浮かぶ。そんで気付いたら、その瞳は目の前にあった。ずっと見つめていたのに?ここまで近づいて初めて、ヴォックスの目が潤んでいることに気づいた。
「……置いていかないでくれ、ミスタ」
コイツがこんな静かに泣くところを、これまで見たことが無い。こんなん嘘泣きでもおかしくない。なのにこの男が自分を必要としている、かもしれないことが、オレの脳をハンマーで打つみたいに強烈に揺らした。今だけしか満たされない肯定感を、手放せなくなっていく。
それだけ言うと、ヴォックスは瞼を閉じて俯いた。真っ黒い髪がさらさらと流れ落ちて、端正な顔を隠す。その顔を探るように、オレは空いた手でヴォックスの頬を包んだ。
「……うん、ここにいるよ、オレ」
要するに、こんな陳腐な泣き落としに負けたのだった。たったこれだけのことで、どこにも行けなくなった。目を閉じると、瞼の裏は何の明かりにも透かされず、ただただ黒かった。