Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    何も分からないです

    ☆quiet follow Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 7

    烏の濡れ羽色最後にするつもりだった。ベッドさえ抜ければ、もう出られる。服も一瞬で着れるシンプルなやつにした。この家に増えていったオレの私物は、ベッド下のバッグに詰めてある。仕上げに眠剤を抜いたら、この通り。ヴォックスがとっくに寝付いても、オレの目は冴えたまま。ここまで完璧だった。だから敗因は、最後にベッドを抜けたのが左手だったこと、これだけ。掠れたバリトンに
    「ミスタ」
    と呼ばれて驚いて、一瞬動けなくなっても、手さえ掴まれなければ逃げられたはずなんだ。暗い部屋で碌に何も見えないのに、オレの死んだみたいな肌の色は、食い込んだコイツの黒い爪をハッキリ映す。オレと同じ色の、でも円く整えられた爪は、どこから入ったかも分からない光をてらてらと反射した。そして一度離れ、再び近寄ってオレの指をなぞる。それから今度こそ正しく手を繋いで、ゆっくりと自分の方へ引き寄せた。
    「ミスタ……」
    ヴォックスの髪は部屋の暗さに溶けこんで、金眼だけが何もかも見透かすように浮かぶ。そんで気付いたら、その瞳は目の前にあった。ずっと見つめていたのに?ここまで近づいて初めて、ヴォックスの目が潤んでいることに気づいた。
    「……置いていかないでくれ、ミスタ」
    コイツがこんな静かに泣くところを、これまで見たことが無い。こんなん嘘泣きでもおかしくない。なのにこの男が自分を必要としている、かもしれないことが、オレの脳をハンマーで打つみたいに強烈に揺らした。今だけしか満たされない肯定感を、手放せなくなっていく。
    それだけ言うと、ヴォックスは瞼を閉じて俯いた。真っ黒い髪がさらさらと流れ落ちて、端正な顔を隠す。その顔を探るように、オレは空いた手でヴォックスの頬を包んだ。
    「……うん、ここにいるよ、オレ」
    要するに、こんな陳腐な泣き落としに負けたのだった。たったこれだけのことで、どこにも行けなくなった。目を閉じると、瞼の裏は何の明かりにも透かされず、ただただ黒かった。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    何も分からないです

    PAST
    刻む音、その後腕の中に収めた毛布のかたまりが、ゆっくりと上下する。そっと耳を当ててみると、ミスタの呼吸はかなり穏やかになっていた。きっと、ようやく眠りにつけたのだろう。彼を抱きしめたまま、目だけ動かして窓を見る。カーテンはぴったり閉じたが、それでも裾から少しの光を零していた。日の高いこの時間では、「寝れた」と言うよりほとんど気絶かもしれない。俺はマットの上を這って、毛布から少し覗く、灰色の猫っ毛に顔を近づける。シーツがしゅるしゅると音を立て、それだけで小さな寝息はかき消された。もう一度じっと耳を澄ませてようやく、今ので起こしていないと分かる。それから目の前のつむじにキスをした。
    「おやすみ、ミスタ」
    返事をしたのか、ただタイミングが良かったのか、ミスタは「うぅん……」と小さく呻く。もう一度だけキスをしたら、観念して彼を拘束していた腕をほどく。重い上半身を起こせば、ミスタはそれに気付いたみたいに身じろぎして、渋い顔で仰向けに体を倒す。それから少し毛布へ潜り、安心したように眉間の皺を伸ばした。慎重にはなってみたが、正直、ここまで神経質にならないでもいいとは思う。ミスタがこうやって苦労して寝た時、だいたい1時間は起きない。それより多く寝れるかは、体調と運次第だった。とりあえず、彼が寝ているこの間に、起き抜けに見てもウンザリしない部屋にしておきたい。体をベッドから乗り出して、足を下すスペースを探す。ちょうどすぐ横は床が見えていたので、そこへゆっくり立った。慎重を期したが、それでもスプリングはギギ、と小さく音を立てる。念のためもう一度後ろのミスタを見ると、目は閉じたまま、落ち着いた顔のままだった。安堵からひとつ溜息を吐いて、俺は足元に近いものから少しずつ、床に散らされたミスタの服やらゴミやらを拾う。ベッドの周りから拾っていくと、デスクの傍に時計と、その下に何かを零された紙の束が落ちていた。時計のアラームが切ってあることを確認して、デスクに置く。そしてシミの付いた書類を拾えば、それは何かの契約書だった。
    1511