宵っ張りこの部屋で映画だけが、毛布に包まったミスタを照らす。この男はいつも静かだ。いびきどころか寝息すら、隣にいても分からない。耳を澄ませても、すっかり強くなった雨音と、ボリュームを絞った俳優の声しか聞こえなかった。台詞を遮るエンジン音も、とっくに鳴りを潜めている。ミスタの涎を垂らした口を拭うと、こいつは不満そうに眉をしかめた。
「ううん……」
小さく唸って、文句でも言いたげに唇を引き結ぶ。恩知らずなこの口は、少し前まで今日こそ寝ないと嘯いていた。
「今度は絶対、最後まで観れるって!」
そう息巻いていたが、やはり主人公の独白は長すぎたらしい。段々と口数を減らし、先週と同じシーンで意識を手放した。うっかり起こさないよう、独り言は小さく、囁くように零す。
「不満そうな顔をする癖に、一人でぐっすりお寝んねか?ミスタ……」
閉じた瞼を、指の背でそっと撫でる。それからこのしかめっ面の、眉間のシワをぐいぐいと伸ばした。ミスタは「ん~」と小さく呻いて、力んだ目元を緩める。その顔はあまりに気が抜けていて、堪えきれずに笑ってしまった。映画を観て、感想を言い合えば、たいへん意義ある時間になっただろう。だが正直に言うと、こうなればいいとも思っていた。思っていたから、今すっかり空になったマグは温かいミロでいっぱいにしたし、「今夜は冷えるから」と言い訳して、映画を観る前に毛布を渡した。ふと思い付いただけの幼稚な罠だが、策にもならない悪戯は、存外上手くいった。その結果が今である。ラストの爆発シーンがまたミスタを起こす前に、リモコンを取ってテレビを消す。部屋は唯一の明かりを失い、完全な真っ暗闇になった。
「ふぅ……」
ソファへ沈むと、背もたれがギギ、と軋んだ。もう一度ミスタを見れば、変わらず静かに眠っている。ずれた毛布を少し引っ張って、規則正しく上下する肩を覆った。ちらと時計を見る。寝るにはまだ早いし、酒でも飲もうか。ソファが跳ねないよう、ゆっくりと立ちあがる。そしてキッチンへ行き戸棚を開けると、『それ』を見つけて気が滅入った。だがまあ、捨てる訳にもいかない。仕方なくその缶を取り出すと、パッケージの派手な色が目を突き刺した。いつものビールより一回り大きいプルタブが、カシュ、と小気味いい音を立てる。そのままぬるい炭酸を喉へ流し込んで、やはり顔を顰めることになった。今回も外れのようだ。まあ前に開けた缶の、タールのような味に比べればいくらかマシだが。とんだロシアンルーレットを用意した張本人は、まだソファで呑気に寝ている。……ミスタはパブで飲んだ帰り、飲み足りないと騒いでスーパーに寄ることがあった。そしてセールワゴンに積まれた、パッケージだけは立派な酒缶を買い漁る。こんな強い酒、ろくに飲めやしないくせに。こうしてたまに空けているが、飲みきるまでにはまた増えるかもしれない。考えるだけで気が遠くなりそうだ。
「ぅう……んん、」
声の方を向けば、いつの間にかミスタが起きていた。伸びをしてひとつ息を吐き、そのままじっと動かない。空を映す瞳は、何をするでもなく宙を見つめた。
「……起こしたか?」
そう聞くと、ミスタはビクリと跳ねてこちらを向く。
「ウワ!?なっ……んだ、ヴォックスじゃん。そこで何してんの?」
「ちょっと晩酌をな」
「何飲んでる?……いや見えないわ。アンタ、こんな暗いのに自分が何飲んでるか分かんの?」
「もちろん……と言いたいが、何だろうなこの不味い酒は」
「え?それホントに酒?棚にあった油か何か飲んでんじゃない?」
「もう飲み終わるところだ」
そう言って、残った3分の1ほどを一気に飲み干す。ミスタが「ギャーッ!?正気!?」とワアワア喚いた。さすがに油なら気付くだろう、うちのバカ犬じゃないんだから。無駄吠えを無視して、缶をゴミ箱へ投げる。ガシャンと音を立てて見事に収まった。
「来週は、お眠りな坊やにも分かる映画を持って来るさ。なあ?ミスタ」
そう吹っ掛けてみるが、意外にもミスタはキャンキャン鳴いたりしなかった。「うん……」と曖昧に返事をして、口も開いたままぼんやりこちらを見ている。本当にただ見つめるだけで、恐らく拗ねて黙った訳でも無い。
「……どうかしたか?」
尋ねると、ミスタは今起きたみたいに目を丸くして、「え?何?」と聞き返してくる。そのままじっと続く言葉を待ったが、ミスタはソファに頬杖をつき、眠そうに目を細めるだけだ。彼は何を言うでもなく、ゆっくりと瞬きをする。俺はとりあえず、冷蔵庫からビールを一缶取ってキッチンを出た。そこでようやくミスタは、掠れた声で「ねえ、」と言う。
「次見んのはさ、今日のヤツでも、ヴォックスが好きな映画でもいいよ」
「まだこの映画に挑む気があるのか?まあ、蛮勇でも止めはしないが」
「別のがいい?」
「うん?その方がいいんじゃないか」
「じゃあ別のね」
ミスタの隣に座ると、ぬくまった毛布を半分、膝に分けられる。
「ヴォックス、オレの酒は?」
「ア~、そうだな……。『かんせつキス、きらいなの』?」
「それアイクの真似?似てないよ」
「そうだな、アイクはもっと可愛かった」
「ンハハ!」
プルタブを開ける。それを待っていたかのように、ミスタは俺の手からビールを奪ってぐい、と煽った。
「にっが……ハイ、間接キス」
返されたビールを、喉へ流し込む。さっきのマズイ酒のお陰で、今日のは特別美味く感じた。
「やはり比べ物にならないな」
「オレのキスが?」
「元凶が何を」
「元凶?……待って、どれのこと言ってる?」
「そうだな、またやらかした時にちゃんと叱るさ」
「うげ」
「今日はお咎め無しだ。怯えずに済んで良かったな、可愛い坊や」
「ワァ~慈悲深いじゃん……」
ミスタは眉を顰めてソファにしな垂れる。ぶつくさ文句を言っているが、無視してリモコンを手に取った。
「何か見るか?」
「ん?う~ん……」
そう言って、雨が打ち付ける窓へ顔を向ける。水色は音も無い落雷を映し、自身が光ったようにも見えた。パッとこちらへ向き直る。
「今はいいや」
「そうか」
素直に頷いて、リモコンをテーブルへ戻す。もう一度ビールに口を付けると、ゴクリと飲み下す音は、部屋に響くようだった。
「んしょ」
ミスタは身じろぎして、俺の腕を抱き寄せる。幾分小さい指が、手に絡められた。
「アンタはなんか見たいのある?」
もぞもぞ動く手を捕まえ、握り直す。
「いいや」
「そっか」
夜が更ける。