人間不信夜更けから降っていた雨は、寝ている間に相当酷くなったらしい。一際大きい落雷の音で目が覚めた。体を起こすと、さっきまで温まっていた背中を、冷えた空気が撫でていく。
寝直す前に水を飲もうと思ったのは、本当に何となくだった。だからリビングで佇むミスタを見付けたのは、ただの幸運だったのだろう。彼は雨の打ち付ける窓の前で、雷が鳴るのを待つように、じっと外を見つめていた。雨の音が好きだと言っていたが、明かりも付けず窓に貼り付いている様は、少し不気味でもあった。柄にもなく『それ』らしい。動かない背中を何となく見つめていると、ミスタは頭だけ振り向いて、肩越しに俺を見る。
「……起きたんだ」
「ああ、すぐ寝直すがな」
ミスタは一言、「そっか」とだけ呟いた。そしてあっさり窓を離れて、俺の横を通りすぎる。
「じゃあ、おやすみ」
ヒラヒラと手を振って、リビングを出ようとする。そんな彼を呼び止める己の声は、自分でも驚くほど必死で、上擦っていた。
「ミスタ」
杞憂であればいいのに。
「そのまま戻らないつもりか、ミスタ」
彼の背中がぎくりと固まる。ゆっくり振り向いた瞳は、止む気配のないこの雷雨で唯一、鮮やかな夜明けを映していた。ミスタは何の表情も浮かべないままに、口を開く。
「……いつなら、心の準備できんの」
真っ直ぐに向けられた目は、俺を捉えたまま動かない。返事を待つというよりは、何を言われようが止めるつもりはないと、言外に訴えるようだった。それでも慎重に、彼に伝わるように、出来るだけ静かに答える。
「俺にとって、誰かを失うことほど耐え難いものは無い。覚悟ができる日なんて、どんなに待っても来ないよ、ミスタ」
声が震えずに済んだのは僥倖だった。言いながら、今まで俺を置いていった彼らの、仲間の、友人たちの顔が脳裏に浮かぶ。俺の拳が強く握られたのを、人の機微に敏い名探偵は見逃せなかった。射貫くようだった視線が、湖面に石を落としたように揺らぐ。
「でも……でもさ、アンタちゃんと分かってる?オレだって、死んだんだよ……」
眉根を寄せ、苦しそうに顔を歪める。一瞬、窓の外が眩く光った。部屋中を照らした閃光は、ミスタの影を落とさない。遅れて、ゴロゴロと唸るような音が響く。
「気付いたらめちゃくちゃ時間が経ってて、気に入ってた店も知らないうちにどんどん潰れてて、みんな……母さんも、友達もみんな死んで、オレを覚えてる奴なんてもうアンタしかいない。じゃあオレは、アンタに忘れられたらさ……」
そこまで言って、ミスタは続く言葉を飲み込むように口を抑えた。睫毛を震わせ、そのまま俯いてしまう。まだ触れ合えた頃、猫のように柔らかかった髪がパラパラと落ちて、彼の顔を隠した。もう手を伸ばしてその髪を耳にかけてやれないし、その権利もない。ミスタはしばらくそうしてから、一度短く深呼吸をした。それからパッと顔を上げて、もう一度俺と目を合わせる。
「オレはさ、アンタに忘れられてホントに一人ぼっちになるのも、忘れられないよう媚び売って過ごすのも嫌だよ」
「ああ」
未だ、そちら側に立ったことは無い。だが一人にされる辛さは、どれほど身に染みたことか。分かるからこそ、決意を持って約束できる。
「忘れないよ、お前のことも」
「でもいつかは……」
なおも続けようとするミスタを遮り、怒りすら籠めて繰り返す。
「俺が、忘れる訳ないだろう」
ミスタの肩が跳ね、俺を見つめる目が丸く見開かれる。
「誰と重ねたのか知らないが、そうやって……俺を、ヒトと同じだと思うなよ」
そこまで言って、お互い黙り込んでしまった。ふざけてると思われちゃ堪らないと、なるだけ真剣な顔で彼を見つめる。……だが、目も口もポカンと開けたミスタの顔を見ていたら、とうとう吹き出してしまった。
「アハハ!……俺が人間じゃないから好きになったんだろう?お前が昔、自分でそう言ったんじゃないか」
そう言ってニヤリと笑うと、ミスタは大きな目を瞬かせた。そしてハァ~!とデカい溜め息を吐いたかと思うと、その場にしゃがみ込む。
「あーあ!じゃあダメじゃん。そこが好きだって言ったオレが、人じゃないから大丈夫って信じなきゃじゃん……」
「ヒヒ、そうだぞ。自分で言ったのだから、自分で責任を取れ」
「ハァ~マジで最悪。人でなしなんか好きになるんじゃなかった!」
ミスタはそう言って立ち上がり、そのままソファにごろんと寝転んだ。そして、目を閉じたまま動かない。このまま眠るみたいに。
「おやすみ、ミスタ。また明日」
返事はない。それでも十分だった。