雇オク(ハァハァ、逃げ切れたか?)
今にも肋骨を突き破りそうなほどバクバクと早鐘を打つ心臓を抑え、乱れた呼吸を必死に落ち着かせ耳を澄ませる。踵を鳴らしながら迫ってくる革靴の音はしないか?撃ち切ったマガジンを交換する音は?
先刻の地獄絵図が脳裏に焼き付き、震えが止まらない。
(くそっ、なんでこんなことに…)
簡単な任務のはずだった。シルバ製薬の道楽息子を誘拐し、多額の身代金を要求する。大切な跡取りだ、金はきっと惜しまないはず。そのうえ、標的であるオクタビオ・シルバはボディガードも付けず夜の街をほっつき歩くような呑気な男だとリサーチで分かっている。物騒な輩に狙われている自覚がないのか、あまりに無防備だがそれも俺達にとっては好都合。その事実に油断した我々は、大した身辺調査も行わず計画を実行に移した。
今思えば本当に迂闊だった。
まさかあの御曹司のバックに、あんな死神のような男が潜んでいたなんて…。
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夜も更け、酔っ払いと娼婦くらいしか人通りのない時間帯。いつもと変わらず一人で歓楽街を練り歩いていた御曹司を囲み、三人がかりで路地裏に引っ張りこんだ。
標的の男はまだ若く、夜に映える派手な緑色の髪をしている。スレンダーな身体を包むのは、若者らしいカジュアルなストリートウェア。一際目立つ足元は一流の技師が手掛けたであろう機能性が追求された義足だ。確か、幼い頃に事故で両脚を失ったと調査報告書には記されていた。
さすが金持ちの御曹司といったところか、肌は良く手入れされていて女のように肌理細かい。口元は奇天烈なサメ柄のマスクで隠れて見えないが、頭髪と揃いの珍しい色の瞳はくっきりとした二重瞼の目に収まっている。顔立ちも男にしては可愛げがあり、細い身体と相まってどこか退廃的な色気が漂う。身元がはっきりしていなければ、どこかの金持ちの年寄りに愛玩品として高く売れただろう。
「あ?なんだよ、俺になんか用か、アミーゴ?」
突然見知らぬ男達に拉致されたにも関わらず、一切の動揺を見せず我々をアミーゴなんて気安く呼びながらあっけらかんと問うてくる。
「オクタビオ・シルバだな。声を上げたら撃つ。黙って付いてきてもらおうか」
脊椎付近に銃口を押し当て脅すと、件の男は禄に抵抗もしないまま俺達に従った。そのまま黒塗りの車に押し込められ、この山奥のアジトまで浚われてきた。
古い工場跡に併設された小さなオフィスビルの地下室。簡易なパイプ椅子に縛り付けられた御曹司殿は、誘拐されたというのに相変わらず飄々としている。
「なぁ、なに目当て?」
「は?」
「何目当ての誘拐だって聞いてんの」
よっぽど肝が据わっているのか、それともただの馬鹿か。無体を働いた俺達相手に御曹司はそのお綺麗な顔を傾けて聞いてきた。
「金に決まってんだろ、他に何がある。良いから黙ってろ」
「やっぱりか。でも親父は俺なんかのために金を払うかな…」
「大事な跡取りなんだろう」
「大事、ねぇ…」
「ああっ、うるせえ!黙れ!口を塞がれてえのか」
「分かったって、落ち着けよ」
しぶしぶといった様子で御曹司は口を閉ざす。人質を捕らえた今、あとはシルバ製薬のCEOに息子と引き換えに金銭を要求するのみ。その手筈を整えるため、周囲がPCの操作や通話の準備に当たっているのをオクタビオ・シルバは退屈そうに眺めている。
「なぁ」
しかし早々に飽きたのか、性懲りもなく再び口を開いた御曹司に近くの仲間が青筋を立てて怒鳴る。
「チッ、本当にうるせえ餓鬼だな!!」
頭に血が上ったそいつは手に持っていたピストルの銃身でお坊ちゃんの頬を思い切り殴りつけた。接触の衝撃で鞭打ったように色白の顔が横にしなる。同時に、口元を覆っていたマスクが外れはらりと床に落ちた。舌打ちが聞こえ、ゆっくりとこちらを振り向いた御曹司は口元に裂傷をこさえ、血を滲ませている。口腔内も切れたのか、ペッと少量の血液をコンクリートの床に吐き出し、喉奥を震わせ低く唸った。
「ってぇな…俺様がせっかく親切に忠告してやろう、ってのに…」
「あぁ?忠告?どう言う意味だ」
含みのある言いぐさに、俺達が訝し気に囚われの男を見やったその時。
―― パァン!
――ドゴォッ!!
――ガンッ!!!
「な、なんだ!?何事だ!?」
「ハッ、残念だったな。時間切れだ」
夥しい銃声と叫び声が耳をつん裂き、外の廊下を進んでどんどんこちらに向かってくる。
「あーあ、テジュンの奴、ガチ切れしてやがる…」
てじゅん?なんのことだ、と仲間の一人が御曹司の米神に銃口を押し当てた瞬間。
しっかりと鍵をかけた筈の重厚な扉が、いとも容易く吹き飛んだ。衝撃に砂ぼこりが舞い、視界が霞む。ゲホゲホと咳をしながら手を振り回していると少しずつ砂塵が収まっていき、戸口に浮かび上がったのは長身な真っ黒のシルエット。その手には、首が変な方向に折れ曲がった仲間の息絶えた身体がぶら下がっていた。
「よぉ色男、お迎えご苦労」
御曹司が声をかけた男は漆黒の全身に返り血を浴び、表情は能面のようだが額には血管を浮かばせ、おぞましい殺気を纏っている。
「だ、誰だテメェは!」
銃口を御曹司に向けたままの仲間が叫ぶ。それに気づいた男はさらにぶわりと激昂し、手中の骸を乱暴に投げ捨てると腰元からコルト・ガバメントを引き抜いた。
「俺の主人を返してもらおうか」
【次回、絶体絶命!飼い犬にエッチなお仕置きされるご主人タビオ!お楽しみに!】