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    2年前の御影先生オンリーで展示していた作品の再掲です。今はこれの続きを書いていて、本にできればと思ってます!当時読んでくださった方、本当にありがとうございました!

    御影先生お誕生日おめでとうございます!

    ※作品の注意
     捏造モブが出てきて、素行が悪いです
     主人公の名前は小波美奈子です

    月はグリーンチーズでできている 小波美奈子はあの日のことをよく覚えている。梅雨が明け、いつの間にか数を増やした蝉の鳴き声が夕方になっても喧しい、蒸し暑い夏の日だった。
     高校生になって初めての期末テスト最終日で、いつもより早く学校が終わったのを良いことに、キンキンに冷房の効いたリビングのソファーに寝そべって学園青春ドラマを観ていたら、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。その頃のはばたき学園、とりわけ一年生たちの間には形容し難い妙な息苦しさがあって、少し疲れていたのかもしれない。キッチンからじゅうじゅうと夕飯支度の音が聞こえてくるまですっかり夢の中を満喫し、起き抜けの美奈子に母が「卵切らしてたから買ってきてくれない?」と、使いに出した。母の一言がなければこの日は怠惰を極めただけの、思い返すこともなければ記憶のフックにかかりもしない、なんの変哲もない一日になっていただろう。
     美奈子は起きたばかりの気だるい体をのろのろと動かしてくたびれたサンダルに足を通した。靴箱の上に置いてある予備のエコバッグは冴えないとび色で、普段は使うのが恥ずかしく滅多なことでは持ち出さなかったが、この日は普段使いのものを取りに履いたばかりのサンダルを脱ぐのが面倒くさくて、そのままポケットに詰め込み家を出た。外に出た途端じっとりと熱気がまとわりついて、がなり響く蝉の音にうんざりとする。日が落ちてなお太陽の残滓が残る空に白い月がぽっかりと浮かんでいて、住宅地のあちこあから夕飯の芳しい匂いが立ち込めていた。やがて夜が来る。暗くなる前に買い物を済ませたいという思いが、少し足を伸ばしてスーパーマーケットまで行けば数リッチは安く卵が買えることを分かっていながら、より近いコンビニへと彼女の足を向かわせたのである。
     ソールの薄いサンダルでまだ熱の冷めていないアスファルトを踏みつけながら、美奈子はコンビニの自動ドアを潜った。噴き出してきた冷気が首筋を撫でていくのが気持ちいい。
     入店して店内を歩き回る時、なんとなくレジの前を横切りたくないというのが美奈子の癖だった。大回りに店内を進み、冷蔵コーナーで足を止める。すぐに目当ての卵を見つけて一パック手に取り、背後にある冷凍コーナーを覗き込んだ。母に握らされた買い物代はどんなに高い卵を買っても余りあるもので、お釣りになる分は自由に使っても良いのサインだ。
     毎年夏になればソーダ味の棒付きアイスが食べたくなる。小波家の冷凍庫にも同じものが入っていることは承知で、美奈子はそれに手を伸ばした。すると冷凍コーナーを挟んだ向かいの通路から制服姿の人影が現れたことに気がつき、ぴくりと手が止まった。見覚えのある制服だ。今日の昼まで美奈子自身も袖を通していたはばたき学園のものである。美奈子は熱心にアイスを選ぶ客のフリをしながら、二人の生徒が立ち去るのを待った。制服の馴染み方と雰囲気で同学年でないことには気がついている。テスト最終日の夕方まで制服で過ごしていたとなれば、受験を控えた三年生なのかもしれない。なんて想像はあっという間に確信へと変わった。二人の会話が――盗み聞きしていることには触れないでおくとして――受験一色なのだ。塾の夏期講習、全国模試、志望校の偏差値……。さすがはば学と言うべきなのか、学校外でも真面目である。
     先輩らが店外に出た後で、美奈子は二人に選ばれなかったソーダ味の棒付きアイスと頼まれていた卵を一パック購入し、コンビニの駐車場に立ち竦んでいた。区画分けに引かれた白線をぼんやりと見つめながら買ったばかりのアイスの封を切って一口齧る。滲み始める汗が甘い氷の感触に混じって曖昧になっていく。頭上から広がってきた夜色の帷がいつの間にか太陽の残滓を覆い隠し、街路灯がアスファルトをまん丸く照らしていた。この街が冷え切ってしまうにはもう少し時間がかかるだろう。
     たらりと汗が首筋を伝う気配を感じながら、家に帰るわけでもなく美奈子はまた一口アイスを齧った。ひどい喪失感が彼女を襲っていた。入学してはや数月、部活もバイトもしていなければテストの手応えもさほど無い美奈子にとって、鉢合わせた名も知らぬ先輩たちの姿がなんだかちょっぴり眩しく見えたのだ。夢とか、目標とか。目指すべきものがある、というだけでやけに羨ましく感じる。
    「小波?」
     駐車場のアスファルトに落ちた空色のシミを見ていたら、不意に頭上から声がして美奈子はハッと顔を上げた。向かいの道路から小走りにこちらへやって来るその人が視界に入り、すぐに担任教師であると理解する。特徴のある癖っ毛も、見上げるくらい長身のスーツ姿も、美奈子の知り合いには一人しかいないのだ。
    「御影先生」
    「やっぱり小波か。おまえ、こんな時間に一人でなにやってんだよ」
     投げかけられた口調が思いの外強張っていて責めるようだったので美奈子はたじろいだ。右足を半歩後ろに下げ、思わず逃げたくなった拍子に棒に残っていたアイスがずるりと落ちて、空色のシミがより大きくアスファルトに広がった。
    「え、ええっと……母にお使いを頼まれて、その、卵を……」
     美奈子は勝手に叱られたような気になって、返す答えは小さく尻すぼんだ。それを見た紫色の瞳は丸くなって数回上下運動をしたあと、ばつが悪そうに明後日の方向へ逸らされた。けれどそれはほんの一瞬のことで、すぐに彼は美奈子の方を見つめ直し「そっか。悪い」と小さく頭を下げた。
    「怖がらせちまったな」
    「いえ、その、大丈夫です。……御影先生は何をしてたんですか?」
    「俺は仕事だよ。見回り」
    「みまわり」
     美奈子はきょとんとオウム返しする。御影はこくりと頷いて言葉を続けた。その目尻はなだらかで、先程までの責めるような空気はさっぱり消えていた。
    「おう。テスト期間は学校が早く終わるからな。それでだ。小波、もう買い物は終わったんだろ?」
    「は、はい」
    「よし! じゃ帰るぞ! 送るから」
    「ええっ? な、なんでですか?」
    「そのための見回りだろ〜? もうこんなに暗いんだ。一人じゃ帰せねえよ」
     御影はニカリと口角を三日月みたいに持ち上げて、美奈子の返事を待たずに踵を返した。ぽかんと立ち竦む桃色を傍目に、背中で揺れる癖っ毛は遠慮なく距離を離していく。美奈子は立ち話をしている間に滲んだ汗を腕で拭い、は、と熱の籠ったため息を一つ吐いた。彼女には御影のあとを追う選択肢しか用意されていなかった。

     革靴がアスファルトを蹴る音はソールの薄いサンダルと違って甲高く、帷に包まれた住宅街へよく響いた。半歩遅れたリズムでぺたんぺたんと足音を追従させる美奈子は、まだ知り合って半年も満たない担任教師との距離感を測りかねている。それは背中について行く歩幅のことであり、入学初日から服を着崩し無茶振りをする教師らしからぬ担任との間に生まれている無言の気まずさでもあった。美奈子はまだ課外授業にだって参加したことがない。
    「あのう……先生たちっていつも見回りをしてるんですか?」
    「まあ、たまにな。生徒の安全確認も俺たちの仕事だ」
     沈黙を破ったのは居た堪れなくなった美奈子の方だった。御影は歩幅を少し狭めて美奈子の隣を歩くように調節すると、彼女の顔を覗き込み悪戯っぽく目尻を細めた。
    「……おまえにだから言っちゃうけどさ、テストの時だけ強化週間なんだよ。特に今日みたいなテスト終わりの日は羽目外したくなっちゃうだろ?」
    「なるほど。確かにそうかもしれないですね」
     ソファーに寝そべってドラマを見ながら居眠りをするのが、学園の考える「羽目を外すこと」に含まれるのか美奈子には分からない。ただ、御影の言う強化週間の理由の全てがテストにあるわけではないということに察しがついていた。普通、教師の見回りといえばゲームセンターとかショッピングモールとか、人が多く集まる場所だ。コンビニとスーパーくらいしかないこの辺りで教師に会うのは初めてのことだったし、そもそも普段から住宅街にまで足を伸ばすはずがない。理由はきっとはばたき学園の一年生間で流れているウワサのせいだ。或いはとっくに全学年へ広がっている、ウワサ話。
     入学以降、一度も学校に来ていなかった新入生が『トラブル』で自主退学した。今、そんな噂が学園のホットワードになっている。人から人へと噂が渡って行くたびに、真偽の分からない情報が増えたり減ったりしているのだろう。その噂が美奈子の耳に届いた頃、それはもう散々な言われようだった。しまいには法に触れていたらしいとか、詮索しようとした人が暴力沙汰に巻き込まれたとか、やはり嘘か真か分からない話が学園中に広がって、収集がつかないような状況になっていた。どこまでが嘘で、どこまでが本当か。それは美奈子には知り得ないことだ。ただ唯一、分っていることもある。入学以降一度も「おはよう」と言い合うことのできなかった同級生が学園の名簿から消えた。その一点のみが事実として存在していた。
    「俺としては誰にも会いたくねぇから、おまえ見つけた時は肝が冷えたよ。真面目ちゃんがまさか、ってな」
    「まじめちゃん」
    「ふっ。また繰り返してる」
     浅い色のベストはあまり夜に似合わなかった。民家のカーテンから細く漏れ出る照明や街路灯の鈍い灯りを吸収しているのか、御影の体が暗がりにぼんやりと浮かび上がって見える。美奈子はその肩口を視界の端に捉えているという状況を、どこか居心地悪く感じていた。
    「真面目、なんて言われるのは初めてなので、びっくりしました」
    「そうか? おまえはいつも俺の授業とか、ホームルームとかさ、一生懸命話を聞いてくれてんなーって分かるよ」
     そう言った御影の声音もベスト同様、始まったばかりの短夜には似合わなかった。日が暮れてなお喧しいばかりの蝉の音や住宅から時折聞こえる物音なんかに巻き込まれて消えてしまいそうな、優しすぎる声だった。
    「そう言ってもらった割には、テストの手応えゼロですけど……」
    「大丈夫。おまえなら、これから伸びる」
     美奈子はその言葉へ返す二の句が見つからず閉口したが、御影はさして気にしなかった。隣で足元を見ながら歩く桃色のつむじを傍目に、「あちぃなぁ」と独り言を溢す。
    「ま、お使いだからってこんな時間に出歩くのは感心しないけどな。次からは親御さんと来いよ」
    「……あの私、その、部活とかバイトとかしてないので、普段は夜出歩いたりしてません」
    「分かってるって。今日は偶然だろ」
    「……はい」
     かつん、ぺたん。二人分の足音が漂う沈黙を埋めていく。美奈子はぴかぴかの革靴をくたくたのサンダルで追いかけながら、自身がひどく“気を抜いた”格好をしていることを思い出し、顔面が熱くなった。中学生の頃から着ている部屋着に、主役になれないとび色のエコバッグ。自分が本当に真面目な人間だったなら、こんな服で外に出たりはしないだろう。
     美奈子は再び強烈な喪失感に襲われた。たった今、担任教師に『悪い子』だと思われないようにアピールをしたくせに、出会って数ヶ月の自分のことを知ったように話すその人を思い切り否定してやりたい衝動に駆られ、汗ばんだ手のひらをぎゅうと握りしめた。当たり障りなく良い子でいたいのにラベリングされると窮屈で仕方がなくて、本当の自分がどこにいるのかまるで分からなくなってしまう。
     未来の話をする時、美奈子はいつも底の見えない湖を覗き込んでいるような気になった。水面に映り込むのはいつも違う姿の自分だ。ニコニコと笑う希望に満ちた新入生の時もあれば、誰よりもだらしなくて情けない時もある。勉強、運動、オシャレ。初めは興味があっても、一週間もすれば飽きてしまって別のことに興味が湧く。ちょっぴりでも風が吹けば水面に映った輪郭はぼやけて水底へと沈み、次の瞬間には別の形になってしまう。好きなものとか、将来の夢とか、ちっとも分からないのだ。
     ――幼馴染は若様、高校で初めてできた友人は有名一族の人気モデル。彼らは既にぶれない輪郭を持っている。それに比べて、と美奈子は思う。自分は簡単に表にも裏にもなれるだろう。美奈子が次に水面を覗き込んだ時、映し出されるのが学園を去った『あの子』と同じ顔ではないと、言い切ることができない。
     この時のことを振り返って言い表すのなら、美奈子には魔が刺したとしか言いようがない。気がついた時には手が伸びていて、半歩前を歩く担任教師の袖口を引いていた。
    「ん? どうした、具合でも悪いのか?」
     御影は僅かに後ろを振り返り、俯いたままの生徒を見やった。先程から桃色のつむじばかりを見ている気がするし、歩幅を合わせて歩いているつもりだったのにいつの間にかまた半歩ほどの差が開いている。別人、とまでは言わないにしても教室の中にいる彼女とは多少のギャップがあり、御影自身もどう接してやればいいものか考えあぐねていた。
    「……御影先生は、私が女だから、こうして送ってくれるんですか?」
    「……小波?」
     どちらともなく立ち止まり、足音が消えると沈黙が二人を包んだ。喧しかった蝉たちもまるでしめし合わせたように口を噤んで、気がつけば二人だけが夜に取り残されてしまったみたいだった。街灯がまん丸く切り取った夜の中に男の躯体が浮かび上がる。少女は暗闇に混じり奥歯を噛み締めた。ぴかぴかとあちこちを反射させる男の眩しさに胸が破けそうだった。
    「そ、それとも、目を離せばこのまま、非行に走るやつだと思われてるんですか」
     裾を摘む小さな手に力が籠ったことに気がついて御影は息を呑んだ。空白を嚥下した喉の音がやけに大きく鼓膜へと響く。触れられた箇所から些細な震えや息遣いが隔たりなく伝わる。俯いたままの彼女がどんな表情をしているかは分からなかったが、教室で見せるような笑顔でないことは想像に易かった。
    「……おまえが何を考えてるか分かんないけどさ、男とか女とかじゃない。俺の大切な生徒だから、そうするんだ」
     お世辞にも心地良いとは言えない生暖かい夜風が肌を撫でていく。頭上の灯りに群がる羽虫がライトにぶつかってバツン、バツン、と音を立てていた。御影は静かに言葉を続ける。
    「俺は生徒たちのことを信じてる。誰のことも疑ってない」
    「……でも辞めちゃったじゃないですか」
    「それは……」
    「事情は知らないですけど、火のないところに煙はたたないって言うじゃないですか。規則を破るのは簡単ですから。今だってその可能性が拭えないから、先生たちは見回りをしてるんですよね。可能性は誰にだってあるって、思ってるんですよね」
    「おまえが言いたいことは分かる。けどさ、いきなり疑ってかかることないだろ?」
     美奈子の背中を冷えた汗が伝った。喉がヒリついて、眼底がじくじくと痛む。入学してから少しずつ、けれど確かに抱えていた得体の知れない何かが、喉奥を傷つけながら吐き出されようとしている。止めたいのに、その術が分からなかった。
    「……って、ください」
    「ん?」
    「……疑ってください」
    「どうしてだ?」
    「だってまだ出会って数ヶ月ですよ。それなのに信じるとか、真面目とか言われて期待されても、私には何もないです。先生から気にしてもらえるようなこと、何もないです……」
     御影の袖口を摘んでいた手が離れ、力無く宙に弧を描いた。美奈子は暗闇の中にぽっかりと照らされる担任教師の立派な革靴を見つめながら「まるでお月さまみたいだな」と、特に意味のないことを考えていた。吐き出してしまった痛みへの後悔、現実から目を背けたくなる逃避、羞恥、それらが波のように押し寄せてきて脚がわなわなと震えた。いつもこうだ。感情に任せて行動すると後悔ばかりが残る。周りに流されて、なんとなく過ごしていた方がずっと楽だ。
     再び訪れた沈黙を破ったのは御影だった。男は、夜に溶けてしまいそうな声音で俯く少女の名を呼んだ。
    「小波」
    「……あの、すいません、私……」
    「いいんだ。気にしてないから、顔あげてくれ」
     美奈子は躊躇った。けれどもう一度名前を呼ばれ、おそるおそる顔を擡げる。白い灯りの中に立っているその人は、静かに笑っていた。
    「はは。やっとこっち見たな、真面目ちゃん?」
    「……っ、だから、私なんか……」
    「いいんじゃないか? 何もなくて」
    「え……?」
     予想外の言葉に美奈子は驚きの声を上げた。その様子に御影はふふん、と僅かに鼻を鳴らし腕を組み直して見せた。それは教壇に立つ時、彼が見せる癖だった。
    「おいおい、おまえが言ったんだろ? 『可能性は誰にだってある』って。おまえたちはさ、これから何にだってなれる。だから今は何もなくていいんだ」
    「でも私、本当に無いんです。みんなみたいに夢中になれるものとか、目指してる大学とか。ただ毎日流されて過ごしてるだけで……」
    「うん」
    「惜しいものが何もないから、いつか簡単に非行に走るかも」
    「ないよ。そんなの」
     あまりにもハッキリと断言され、美奈子は再び面食らった。少し下がった目尻から覗く瞳や腕を組む立ち姿は、言葉よりも雄弁に美奈子への信頼を伝えてくるようで、どうにも目を離すことができなかった。御影もまた、目の前のうら若き少女のことを真っ直ぐに見据えていた。
    「大丈夫。そうならないように俺が見てる。おまえのこと、ちゃんと見てるよ」
     突然、パシャン! と音がして御影が「うわっ!」と声を上げた。とび色のエコバッグが美奈子の指から滑り落ち、アスファルトの上に落ちた音だった。
     御影は慌ててしゃがみ込み、落ちたエコバッグの中身を確認した。お行儀よく並んでいる卵たちが運良く一つも欠けていないことを確認し、安堵のため息を溢す。それから立ち竦んだままぴくりともしない彼女を見上げ、ようやく丸々とした瞳と目線が合うと、くくっと思わず喉から笑みが溢れ出た。震える小さな肩を抱いてやりたい衝動に駆られた。そうできない代わりに、もう一度彼女の名を呼んでやった。
    「小波。やっぱりおまえは真面目だよ」
     透明の粒がアスファルトに落ちて、丸いシミを作っては消えた。美奈子は御影からとび色のエコバッグを受け取り、今度は両手で抱いて歩いた。気がつけば蝉の鳴声や営みの音が往来に戻り、見慣れた形の屋根が姿を現していた。随分と長い、帰路だった。

     かつん、ぺたん。二人分の足音が心地よく聞こえている。等間隔に設置された街灯が道を丸く切り取り、コンクリート塀の隙間から伸びる雑草の影がどこまでも長く伸びていた。
    「御影先生、今日は本当にすいませんでした」
     自宅の玄関に着いてすぐ、美奈子は深々と頭を下げた。
    「謝ることないって。まだ高校生活始まったばっかだろ〜? 色々やってたら、そのうち夢中になれるもんが見つかるよ」
    「そうなんですか?」
    「そんなもんだ。だから、あんまり真面目に考えすぎんなよ」
     先程は真面目だと言ったくせに。美奈子は口には出さなかったものの、ううん? と小さく唸り声を上げた。その横で御影はくつくつと笑みを漏らし「俺も似たようなもんだったよ」と軽い調子で言う。
    「でもこんなに立派になったろ?」
     力こぶを作って笑ってみせる御影に、美奈子もつられて笑った。
    「……ふふっ。はい。そうですね」
     美奈子はこの日のことをよく覚えている。くたびれたサンダルにとび色のエコバッグを持って歩いたコンビニから家までの帰路が、永遠のように感じられる夜だった。気だるくて、うんざりとして、多分テストの点も良くなくて、将来にこれっぽっちも希望を持てない夜だった。それなのに、この夜道にぽっかりと浮かぶ月まで「歩いてみようよ」と言われたらこわごわと一緒に歩き出してしまいそうな、そんな。
    「あのう、先生」
    「なんだ?」
    「次の課外授業……参加してもいいですか?」
    「ああ。勿論だよ、真面目ちゃん!」
     何かになってみたい。そう思ったのは、この夜が初めてだった。
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    chi

    PAST2年前の御影先生オンリーで展示していた作品の再掲です。今はこれの続きを書いていて、本にできればと思ってます!当時読んでくださった方、本当にありがとうございました!

    御影先生お誕生日おめでとうございます!

    ※作品の注意
     捏造モブが出てきて、素行が悪いです
     主人公の名前は小波美奈子です
    月はグリーンチーズでできている 小波美奈子はあの日のことをよく覚えている。梅雨が明け、いつの間にか数を増やした蝉の鳴き声が夕方になっても喧しい、蒸し暑い夏の日だった。
     高校生になって初めての期末テスト最終日で、いつもより早く学校が終わったのを良いことに、キンキンに冷房の効いたリビングのソファーに寝そべって学園青春ドラマを観ていたら、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。その頃のはばたき学園、とりわけ一年生たちの間には形容し難い妙な息苦しさがあって、少し疲れていたのかもしれない。キッチンからじゅうじゅうと夕飯支度の音が聞こえてくるまですっかり夢の中を満喫し、起き抜けの美奈子に母が「卵切らしてたから買ってきてくれない?」と、使いに出した。母の一言がなければこの日は怠惰を極めただけの、思い返すこともなければ記憶のフックにかかりもしない、なんの変哲もない一日になっていただろう。
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